何ひとつでさえも
ちょうど部活動が始まる直前の頃合いだった。
体育館の更衣室に乗り込むと、顔見知りの同期の子たちは目を丸くして驚いていた。
そんなものには目もくれず、私はズンズン奥に進んで目当ての人物の前に行き着く。
「保科さん。ちょっと外出てよ」
彼女はこれ見よがしに驚き怯えた表情を作っていたけど、そんなものもこの子の演出のひとつだろうことは想像に容易かった。
体育館横の生垣の脇まで連れ出して、私たちは対峙するように向き合った。
「どういうつもりでこんなことするの?」
「佐伯さん。私、話が見えないな」
どついてやろうかと思った。
「代行のことへの腹いせ? それとも自分の居場所づくりのための踏み台にしたの?」
己の正義感の体現のために、私と名都を非難して追い立て囃したんでしょ。
私たちが部内をかき乱したのは事実だった。
でも、この女は自分の地位を確立するのにそれを利用したんだ。
保科さんはじいっと私を見つめて、肩でするように息を吐いた。
「あなたって、まだ悲劇のヒロインのつもりなの」
後ろから巽が駆け付けていなければ、我を失って殴りかかっていたかもしれない。
「花帆! お前、冷静じゃないぞ!」
「アンタは黙っててよ!」
悔しかった。
何も知らないくせに知ったふうなことを口走るのが。
何より、私を苦しめるために名都の名前を使ったことが。
よせばいいのに、誰かが気を利かして人を呼んだらしい。
慌てた様子で私たちの元にジャージ姿の代行が駆け寄ってきた。
「どうしたんだ、花帆? 保科!」
代行は私の背後に巽の姿を認めると、サッと能面のような顔つきになった。
「……またお前か。花帆に何を吹き込んだ?」
「おいおい、ちょっと待ってくれよ」
話がこじれていくようでもどかしかった。
そのとき、保科さんが隙を突き、ぱっと身をひるがえして代行に走り寄った。
彼の背に半身を隠すようにして肩口に両手を添える。
「中辻くん……!」
その演技がかったしおらしい挙動に、私は怒りでおかしくなりそうだった。
「……佐伯さん。あなたのしてることは見当違いだよ。こうなったのは他の誰でもない、あなた自身のせいでしょ?」
「はあ?」
「あなたがはっきり事情を説明してくれてれば、好き勝手な憶測が飛び交うこともなかった。みんなには知る権利があるんだよ。あなたには説明責任がある」
その道義を説くような物言い。
聖女にでもなったつもりで。
「ここではっきりさせて! 宇野さんはどうしちゃったの? 教えてよ!」
大声を出す保科さんに反射的に怒鳴り返そうとして、ふいに私の視線が代行の顔に重なった。
まっすぐに私を見据えるその表情には、怒りでも動揺でもなく、哀しみが翳っていた。
途端に、私は正気に引き戻されたようだった。
「……名都の身に何が起こったか?」
「そうよ!」
「…………」
前に進むでも、後ずさるでもなく、私の靴底がじゃりと砂を噛む感触だけを伝えた。
「……結局、わからなかった」
一年を掛けてあの子と過ごし、一年を掛けてあの子を追った。
それでも私には、名都の気持ち、考えを何ひとつも。
何ひとつでさえも。
今だって私は。
これほどに惨めな思いがあるだろうか。
「わからない? そんなはずないじゃない」
ここぞとばかりに、保科さんは勝ち誇った顔をした。
「だってあなたたちは、親友だったんでしょ?」
――――頭の中に火花が散って、一瞬、眩むような白い背景に名都の顔が映って消えた。
私は腕を伸ばし、保科さんの体を掴んでグイと引き寄せた。
突然のことで、代行も巽も私を止める間はなかった。
空砲に似た乾いた音が辺りに響く。
私の平手が保科さんの頬に飛んだのだ。




