それが気休めになるとでも
こんな夜は少し遠回りをして歩きたくなる。
駅の周辺から少し外れた、高層マンション群から閑静な住宅街へと移り変わっていく区画の片隅に、一台の電話ボックスがある。
携帯電話が主流の今の世代にはまったく馴染みのない、どことなく得体の知れない存在。
その姿をたびたび見かけてはいたけど、使ってみようと思ったことなど一度もなかった。
底冷えする冬の空からチラチラと小雪が舞い始める中、ボックス自体の天井照明がぼんやりとその外形を闇に浮かび上がらせ、薄気味の悪さに拍車をかけていた。
ガラス張りのドアは折り畳み式で、思いのほか引くのに力がかかった。
ずしりと手応えのある受話器はひんやり冷たくて、耳の形に収まりが悪い。
いつか見た邦画のシーンを参考に、電話機に小銭を入れて、携帯で目的の番号を確認しながらボタンを押していく。
わざわざそんな手間を掛けるのは、相手に身元を知られたくないからだ。
無機質な呼び出し音は意外にも耳によく通り、時代遅れの電話機がきちんと起動していることに妙に感心した。
何度目かのコールを過ぎて、あの人は私の電話に出てくれた。
「もしもし」
落ち着いた女性の声。
恵子さんだった。
自分でも、何を求めてこんなことをしてるのかわからなかった。
無条件でこちらを優しく包んでくれるような、彼女の持つ閑やかな声色で何か一言を掛けてもらえれば、それが気休めになるとでも思ったのか。
だけど、
なかなか第一声を発さないままでいる私に対して、恵子さんは声を震わせた。
「……なっちゃん?」
思いがけず、彼女の弱さを見た気がした。
なんて最低なことをしているんだろう。
これじゃ、私の甘えに巻き込んでこの人を傷付けるだけだ。
電話の向こうで、彼女はゆっくりと吐息をついて、
「……いいえ。花帆ちゃんね」
私は受話器を叩きつけるようにして戻し、そのまま電話ボックスを飛び出した。
◇
雪の勢いはみるみる増していく。
今や巨大な牡丹雪へと成長した結晶が、ボタボタと音を立てて地面へ落ちていくようだった。
入浴セットを手に眞輔のアパートへ向かう道中、駐輪場に原付がないことに気付いて嫌な予感が走る。
懸念のとおり、部屋の前で呼び鈴を鳴らしても人が出てくる気配がない。
不在みたいだ。
お風呂に入れないのも困るけど、それ以上に眞輔の顔を見たかったのに。
無念、ってドアに額を付けてしばらく静止していた。
でも隣人に見られて通報される前に退散しなきゃならない。
メンヘラ女みたいって自覚しながら、ダメ元でノブを回してみた。
するとドアはすんなり開く。
「眞輔? いないの?」
いけないことだけど、私いまメンヘラだから、って言い訳を呟きながらこっそりと侵入した。
部屋は無人。
ただ、テーブルの上でオブジェと化しているアロマキャンドルに一枚の付箋が張り付けてあった。
【自由に使ってください。鍵も開けたままでいいです】
こんな言付け、メールで送ってくれれば早くて確実なのに。
でもこういう回りくどいやり取りがいじらしかった。
私が我慢できずに部屋に押し入ってしまうこと、眞輔は見越してたんだな。




