一分一秒のためらい
地面に打ち付けた身体のそこかしこが痛み、寒さがそれに追い打ちをかける。
私にはもう立ち上がる気力もなくて、転がった原付の傍らにただ座り込んでいた。
助かろうって気も起きない。
もしかしたら、こうなることを心のどこかで望んでいたのかもしれない。
私なんて、どうにでもなってしまえばいいと。
ふっと、携帯の画面が眩く光った。
これも幻覚だろうかと疑ったけど、たしかに着信の音が響いている。
一時的に微弱な電波が繋がったようだった。
「もしもーし! 花帆?」
ひどく不安定な音色の中に茉以の声を聞き取った。
「アンタ、眞輔っちのバイク借りて優雅にツーリングしてたんだって? 楽しんでんじゃん。私ね、いまカレシと中夜祭回ってんの。よかったら花帆もおいでよ」
一方的に捲し立てる。
その茉以らしい喋くりが懐かしかった。
「出店もやってるとこあるよ。夕飯まだでしょ」
「……茉以。ごめん。この前の私、割と最低だった」
「はあ? アンタがサイテーなのはいつものことよ」
笑い声も皮肉も返さない私に、茉以はやっと異変を感じ取ったようだった。
「……嘘でしょ? まだ戻ってないの?」
状況を伝えると、茉以は予想に反して取り乱すこともなく、的確に指示を出してくれた。
「マップのアプリ開いて、現在地のスクリーンショットを撮って送って。縮尺を変えていくつかね。そのあとは周りの目印になりそうなものを撮影して……」
電池の消耗を考えればグズグズはしていられなかった。
一分一秒のためらいが命に関わるかもしれない。
電波はまだかろうじてある。
言われたとおりに地図情報を送信し、続けてカメラを起動した。
でも暗闇と冷え切った指先の震えでまともな写真をひとつも撮れない。
悪戦苦闘しているうちに、とうとう電源が落ちてしまった。
茉以の声ももう聞こえない。
完全な闇の中で、あとは独りで耐え忍ぶことしかできない。
少しでも体温をもたせようと、風よけに原付の隣に寝そべる。
でも大した効果はなさそうだ。
◆
自分語りというものを好んでしなかった名都が、あの夜の埠頭以降ポツポツと生い立ちを話してくれるようになった。
物心ついたときから名都は父親の虐待を受けていた。
怒鳴り散らされ殴る蹴るの暴力。
それは父親の機嫌が収まるまで続く。
母親は名都を庇うでもなく、事が始まるといつも知らぬ存ぜぬでその場を離れてしまったという。
『俺は不幸だ』
父親の口癖だった。
『ガキにこれほど金が掛かると知ってれば、お前なんかつくらなかったのに』
名都が贅沢を言うことはなかった。
あれが食べたい、これを着たい、そんな当然の欲求を持つどころか、部屋の片隅に居させてもらうことさえも恐縮するようにして、息を潜めて暮らしていたそうだ。
14歳のとき、中学校で修学旅行があった。
行きたくもなかったが行事なのだから仕方がない。
でもいざ荷造りをしようとして、旅行用の鞄を持っていないことに気付いた。
通学に使っていたリュックサックに必要なものを詰め込むにはあまりにも容積が足りなかった。
『新しい鞄を買ってほしい』
それを聞いて、父親は手近にあった酒瓶を振って彼女の頬を殴り飛ばした。
歯が飛んだけど、すぐに救急車を呼んでもらえたわけじゃなかった。
それから数時間出血が止まらなくて、仕方なく病院に運ばれたって。
『転んで階段から落ちました』
あらかじめ父親から指示されていた台詞を言うと、医者はそれ以上は訊かなかったそうだ。
怪我を理由に修学旅行は欠席した。
『次に何かやればお前を殺してやる』
毎度聞かされる父親の脅し文句も、いつしかただの脅しには感じられなくなっていた。
このままでは殺される。
14歳にして名都は自分の命の危険を悟り始めていた。




