ペスト医師の場合
施療院に運ばれた人々はまるで死にそうな烏だった。町の至る所にあった死骸もだいぶ減り、施療院の人もまばらになっていた。疫病の蔓延る死の町となって久しく、この町の人影は驚くほどに減った。学生もほとんど帰ってしまって、煩くもなくなったが、途端に寂しくもなった。今は、施療院に運ばれる人々もほとんどいなくなり、香草も一部屋にまとめられるようになって、ひと束もあれば良くなった。
「あと、二十七人ですか」
「えぇ。ずいぶん落ち着きました」
司祭とともに私は静まり返る施療院の中を回った。ペスト医師として仕事をして(と言っても、初めのうちは私ではなく、他に数人交代がいたあとだったようだが)、生き残ることができたことに喜びを感じた。私はたくさんの人々に触れ、いつ死んでも構わないという気持ちでここまで来たのだが、今では逆に死にゆく人々を見届ける死神のような気持ちだった。
誰かが救いを求める時には、神は試練を与えるという。この町の人々は、幾度となく試練を乗り越えてきた。施療院の司祭様方と談笑していられるのも、流行という試練が落ち着いた後に与えられた、ささやかな愉しみであろう。
施療院で幾つかの死体を弔ってから町に出て、町の人口を確認しようと死体の数を数えて歩いた。多くの家が門を閉ざしていたが、幾度も通った患者の家だけは、どこも開いていた。
それにしても、随分綺麗になったものだ。
私がペスト医師になって暫くは、町は死骸だらけだった。重ねられた死体の下の方には蛆が湧いたものがあって、嫌な臭いに混じって、汁のような物が垂れていたものだが、今の死体はいくらか綺麗であるし、施療院が空いてきたためか、絶対数も大したことは無くなっていた。
静かな町の中に、身元不明の死体を幾つかと、ペスト患者と思われる人間の数を記録し、施療院へ行くように指示した。
身元が分かっている死体については、記録簿に死亡確認の時間と日付を書く。痛々しい、黒い腫瘍が首筋のあたりにあった。一応、殺人事件でないことを確認して、記録をした。綺麗な死体だった。
町を一通り回ったあと、依頼された幾つかの家へと向かった。
別に歓迎されるわけでもなく、むしろ疎まれる自分の姿を、はずかしげもなく晒した。そして知識の中からいくかの可能性を提示し、治療を施す。殆どの人がペストだった頃と比べると、駆け回らなくて良いのはありがたかった。町も活気を取り戻したということはできなかったが、市場もぼちぼちと仕事を始めるに至っている。かつてはパンも満足に買えなかった。患者がいなくなったらお祝いに、砂糖たっぷりのブリオッシュでも買おうか。
施療院へ戻り、今回の仕事の報告をする。その後は、遺品整理などをしていた。町の至る所に空き家がある状態を、人々はもう一度見ることになるかもしれない。私の記録では、それが如実に表れていたからだ。幾つかの家の断絶を目にし、友人も多く死んだ。その遺品の中には、私にまつわるものも当然あった。
施療院へ運ばれるひとの遺品など、初めからほとんどないのだが、衣服などの中に黒い銅貨や、家族にもらったのだろう、鉄の指輪などもあった。乞食などの家を持たないひとは、全財産を持っているので、遺品整理をしていると彼らの人となりがわかる。
そんな中、一つの遺品の前で私は手を止めた。紙に、決して綺麗ではないがまめに勉強をしたあとが残る文章が綴られている。
「まさか……」
私はそれを読んだ。紙質から、この施療院のものと同じものだというのがわかる。日記の形式になってはいるが、施療院での人々の暮らしぶりを如実に表している。紛れもなく、私の下で学んだ学生のものだった。
彼は数週間前に亡くなったが、ちょうどその頃、私のところに施療院の紙が減っているという報告が入っていた。これは、もしかしたら盗品なのかもしれない。しかし、私はこの品を何と定めれば良いのだろうか。脳裏に浮かんだのは、作家である司祭、アブラヒムの姿だった。彼ならば、この記録を正しく理解してくれる。そう考えたのだった。
アブラヒムは一時は宿で隠遁生活を余儀なくされた身であったが、今は施療院からしばらく歩いた教会、つまり私の最寄りの教会で静かに年代記を記している。教会につき連絡をすると、アブラヒムは私に深く礼をした。
「あぁ、貴方は。尊き意志、噂も良く聞いておりましたよ」
「恐れ入ります」
「さ、とりあえず中へ」
彼は立派な扉を全開にして、私を迎え入れた。礼拝堂の中心には巨大な聖像が掲げられ、私たちを見下ろしていた。高い天井は溢れんばかりの豪華な絵画で彩られ、天使や神の御姿を見ることができる。そして柱が、天から降りる光の道のように天へとそびえている。私たちはこの礼拝堂の裏側に向かった。少し中にある個室、つまり司祭の部屋にお邪魔をした。
「何か、大事なご用があるのでしょう?」
司祭は部屋の小さな窓から外を眺めて言った。
「はい、見ていただきたいものが……」
私がそう言うと、私に椅子に座ることを勧め、私のあとに続いて向かい合うように座った。
「これは、学生のものなのですが……」
彼は私の手渡した紙に目を通した。時折目を瞬いて、読みにくい文字や誤用を読んでいるのがわかった。しばらくすると、成る程、と彼は呟き、紙を机に置いた。
「これは、なかなか如実に事実を書いているのがわかりますな」
「そう、そうなのです。決して素晴らしい文章ではありませんが、記録としては非常に良いものだと思うのです」
彼は黙って頷く。私はこの文章を何としても遺したい、と思ったのだ。学生の悲惨な日々が、忘れ去られてはならないと感じたのだ。彼もまた、その紙をもう一度吟味して、深く考え込んでいる。
「施療院の方々と話してみましょう。これを作品に組み込みたいのです」
「はい、有難うございます」
私は報われた気持ちだった。何一つ、この町に残さないのは気が狂いそうだったのだ。私は彼と握手を交わし、部屋をあとにした。
この町ももう直ぐ、病が落ち着くだろうか。私はしばらくしたら暇をもらい、ゆっくり読書などしたいな、と思った。施療院の隅で香草を蝋燭代わりに焚きながら、聖書を開いていた。 彼岸からのメッセージが届く時を楽しみにしよう。私は、幻の様な学生の笑顔を思い浮かべていた。




