赤い翼の天使
どこまでも続くような闇の中で男が一人歩いていく。
光すら差さないこの場所で、男の歩みに迷いはない。
何故なら彼は人間ではなく、暗闇の中を見通す瞳を持っていたからだ。
「……来ているのだろう、天使」
「来ているよ、闇竜。それとも、カデル殿と呼ぼうか?」
男が立ち止まり、闇の奥へ声を掛けるとほの暗い明かりが点る。
闇に慣れた男の目が細められた。
その男の赤い瞳に映ったのは、純白の翼を持った幼い天使だった。
男と同じ黒い髪が風に揺れて音を立てる。
「よしてくれ。闇に閉ざされて数千年。外の者は誰一人知らぬ名だ。呼ばれて気分がいいわけないだろう」
「そう? 外にはまだ君のお兄さんがいたと思うけど」
天使の言葉に男は黙る。
遠い昔に別れたきりの兄の事は、男にとって触れてほしくはない事だった。
闇の中に閉ざされた仲間が皆、人間の事を好きになってもらえるように男は努力をした。
しかし、それも全て無駄だった。
夜の間に外に出ても、黒い翼、赤い目、その外見から悪魔と恐れられる。
若い世代には外の世界を全く知らない者までいる始末だ。
男は何よりも外の世界を愛していた。
それ故に、現状に疲弊していたのだ。
だから、元は敵同士の天使をこの領域に招き入れてしまった。
「あ、そうそう。君の知らない闇竜が、契約者を得てるっていう話はしたよね」
「――ああ」
男の知らない闇竜などいるはずがない。
実際、この闇の領域を出て行ったという竜の話は聞かない。
だが天使は外に一人だけ出ている闇竜がいるというのである。
「僕の推測だけど、あの竜は完全に契約したわけじゃないと思うんだ。魂だけがリトカの契約によって呼ばれて肉体を疑似的に与えられた……わかる?」
この天使は卑怯だと男は思う。
自分の焦がれた物を目の前にぶら下げて、反応を窺っている。
こちらが行動を起こすように、楽しそうに観察をしている。
「不完全な契約ならば上書きしてしまえばいい」
長年焦がれていたことだからこそ、疲弊した男にはその欲求は止められない。
「さすが、話が分かるね。僕はその契約者の方に用事があるんだ。とても、大事な用事がね。君が契約を上書きしてくれれば、それでいい。闇竜の方は君の好きにして。そして、手に入れた自由もね」
男は一度目を閉じる。
かつて見た青空、光の下に輝く草原。
今となっては見られない何よりも美しいと思った風景が脳裏を巡る。
『こんな役目を押し付けて悪いな。お前は誰よりこの光の下の世界が好きだと言うのに』
『いやだな、兄上。こんな仕事、俺以外務まりませんって』
最後に交わした兄との会話が蘇る。
ずっとここを守ると約束したのに、破ってしまうことに胸を痛めながら男は頷く。
「どのような思惑があるのかは知らんが、利害が一致している限りは従おう」
マイズ村は今日も平和だ。
何も変わらない毎日が始まった。
ただ一つ、ある少女の日常に変化が訪れた以外は。
「キャロルちゃんがいなくなると、ちょっと寂しいね」
「賢者さんもいないわけだし……気になるのはレイムの態度よね。神殿がなければ飛び出して行きそうよ。何があったのかしら」
キャロルの友人、ティアレスがため息をつくとフォーレシアが不審そうに思いを馳せる。
「この間学校に行く前にちらっと聞きました。何でも、王様が気に入らない性格だったんだって」
この村は実質、王の直轄地であるにも関わらず、王都からは遠く離れいるせいで国王との関わりは薄い。
それ故にあまり国王の事を深く知らない。
役人もあまりきついことを言わずに、実にのんびりした村の雰囲気故か、同じ国だというのに国王に対して彼らは非常に遠く感じる。
「気に入らない、ねぇ……。きっと世代を経て普通の権威主義に染まってしまったのでしょうよ。この国の土地は竜たちの物。そんな王に土地を任せられない、と思ったのかもしれないわね」
「そういうもの?」
「そういうものよ」
ティアレスは納得がいかないが、今の自分には理解が及ばないのだろう。
何しろこの国の歴史についても、魔法についても未だ勉強中の学生の身分なのだから。
「そういえばフォーレシアさん。この間来たフォーレシアさんと同じリトミアの人、世代が違うってどういうことなの?」
「そうね。学校では教わらない類の話よね」
フォーレシアはティアレスの質問に微笑して応じた。
「第一世代は北大陸から天使たちに追われ、その時に重傷を負った私のようなリトミアよ。ほとんどが南大陸で負傷して木となり身体を癒すことになったの」
説明しながらフォーレシアは、ペンで一枚の紙に書きつける。
木を中心に据えた一つの村の形態を。
「私たちリトミアを中心に村を形成して、その営みによって私たちを癒そうとしたのが最初のリトカたちの契約だったわ。結果として目覚めたリトミアは少ないの。各村だけでは天使たちの襲撃から守れなかったのでしょうね」
書き込む村とリトミアの数を増やし、フォーレシアは一つ一つにバツを記していく。
「あの若いリトミアは建国の時に来たと言ってたわ。何か事情があって北大陸の森から来たのね」
「北大陸にもリトカはいるの?」
リトミアの女性は遠い過去を思い出す優しい表情になって囁く。
「私の記憶では、そう。でも北大陸には天使たちの本拠地があったはず。今ではどうなってしまったかわからないけれど」
天使の話が出て、ティアレスは以前にフォーレシアが話してくれた天使の話を思い出した。
「天使の本拠地……。天使たちって神様がいなくなった後、誰が指揮を取ってたりするの?」
隣国は天使に支配されているとティアレスは伝え聞いていた。
国境からも遠いティアレスには隣の国の事は知らないも同然だった。
「健在ならば四大天使でしょうね。ラファエロ、ガブリエラ、ユリエル。そして――」
珍しく、フォーレシアの声が震える。
「――ミケーレ。他の天使たちはともかく、最初にリトカたちに変えられた天使だもの。移民世代でもまともには太刀打ちできないわ」
そう言い切ってフォーレシアは自分の二の腕を撫でた。
「何しろ、私を長い眠りに落としたのは四大天使の一人、火の天使ミケーレなんだもの」
赤い翼が広がる。
同じ色の長い髪が風に沿って流れる。
髪が顔の下半分を布で覆った頬に掛かる。
それに相対するのはライリアルだった。
「キャロルちゃん、多分もっと下がった方がいい」
それを後ろから見守るのは三人。
ライリアルの自称ライバルアーノルド、ライリアルの弟子キャロル、ライリアルの生徒トーマス。
アーノルドの指示に従ってキャロルたちは下がるしかなかった。
今は北の国境に向かう道中。
その途中で侵入してきた天使と遭遇してしまったのだ。
ライリアルたちにとって幸いだったのは、ここが町の近くではなかった事。
畑も近くにない、ただの草原だったことだ。
「うおおおおおお!」
赤毛の天使が手を振り上げ、炎を呼びだした。
「アレはまずいな……もう少し下がるぞ」
アーノルドが言うようにキャロルたちは後退する。
それを見たのかどうかは知らないが、ライリアルはドンと勢いよくつけて前へと走る。
天使が腕を振りおろし、炎が降り注ぐのと、ライリアルが飛んだのはどちらが先だったか。
「うそっ……」
文字通りライリアルは飛んでいた。
翼を持たぬ身でありながら。
ライリアルを中心にいくつもの光の玉が浮かぶ。
「光よ!」
仕掛けられた攻撃の意趣返しか、ライリアルの魔法が次々に天使目がけて放たれる。
スケールが違いすぎる。
キャロルはそう感じた。
「魔法使いって飛べるんですのね……」
キャロルの呆然と呟いた言葉に、アーノルドは苦笑して囁く。
「誰でも飛べるってわけじゃねぇ。古代の魔法使いならともかく、普通の魔法使いには無理だ。若いまま長生きすることもな」
力のぶつかり合いによる余波が熱風となり、キャロルたちを巻き込む。
ある程度は自分の魔法で相殺できるが、熱が伝わるのは避けられなかった。
「建国時には、初代国王も飛んだと言うし……空から攻撃できるアドバンテージを持つ天使とぶつかり合うにはそれだけの力が必要なんでしょうね」
トーマスは、ライリアルと同じように空に浮かんだ赤い天使を見上げて、感想をこぼす。
空で、天使と賢者が力をまとい、ぶつかる。
ガキンと空間が軋む。
ビリビリと離れたキャロルたちでも衝撃を感じた。
「ライルの奴、俺が挑んだ時は思いきり手加減してたんだな。あーあ……ガッカリしたぜ」
「なら、後で勝負でも挑んでみたらどうですか? 手加減せずに、と」
「そんなもん、あいつが面倒くさいって言って終了だ。無駄足は踏みたくねぇよ」
トーマスとアーノルドは目の前の光景に対して平然と会話を交わしているように見える。
だがキャロルにとっては恐ろしい出来事だった。
何故なら、キャロルは師が暴走した時にある魔法を使うようにと出発前に言われていたからだ。
「トーマスさん、これ以上にライリアル様が荒れ狂う時に魔法を使うなんて私には無理なようにおもいますけれど……」
「あの魔法は距離とか特に関係ないからいいと思うけど。今、先生妙に熱くなっちゃってるから一回撃ってみてもいいんじゃないかな?」
呑気に大丈夫だと言い、さらに使っちゃえと囁くトーマスにキャロルが困惑していると、アーノルドが口出ししてきた。
「何をするか知らんが、やめとけよ。何かもう一人乱入者っぽいぞ」
「え?」
慌ててキャロルが意識をライリアルの方に戻すと、ライリアルと赤い天使の間に透明な壁が出現していた。
ライリアルはあんな魔法を使わない。ライリアルの放った魔法はその壁に遮られている。
赤い天使の炎も遮られている事から、天使の作った物でもない。
呆然と動きを止めていた天使だったが、形勢を不利と見たのか翼を使って飛んで逃げた。
ライリアルは追おうと体勢を変えたが、すぐに諦めたようだ。
「ライリアル様……?」
何やら肩を落とし、首を振るライリアルを不思議に思い近寄ろうとしたキャロルだったが、乱入者の声に歩みを止めた。
「やあやあ、久しぶり。賢者殿」
女性にしてはやや低い透明な声にキャロルはどきりとする。
「賢者殿は止めるように、前から何度も言っているだろう。マリア殿?」
「建国した時からの仲じゃない。マリア殿、じゃなくて初代王妃殿って呼んでくれても構わないのよ?」
ライリアルに対して馴れ馴れしい声の掛け方だった。




