44 ずっと一緒に
ライモンドはソファーに座ったまま、何か考え込んでいる様子だ。そんな彼を放ってひとりで部屋に戻るのもはばかられる。それでコンスタンツァも彼の隣に腰を下ろしたまま、静かに外の景色に目を向けた。
しばらくそうして二人とも沈黙していたが、やがてライモンドが「コニー」と声をかけた。
「なあに?」
「婚約のこと、勝手にサンドロと相談して決めちゃって、ごめん」
振り向いてみれば、ライモンドはしおしおと謝った。やや上目遣いに彼女の機嫌をうかがう表情が、どこかソフィアの「叱らないでね」と目で訴えているときの顔を思い起こさせて、コンスタンツァは思わず笑ってしまう。
「謝らなくていいわよ。別に気にしてないわ」
「そう?」
「ええ。だってあれが最善なのは、わたくしにもわかるもの」
いくら光と闇の精霊たちが後始末に全面協力してくれると言っても、事実をそのまま公表するのは、逆に面倒が多そうだ。それを考えれば、イラーリアの立場にライモンドが収まるのが一番すっきりする。
王女が王子に変わってしまうくらいは、まあ、些細なことだ。ちょっとした勘違い、または伝達ミスとして押し通せばいい。そのほうが真実よりもよほど真実味がある。「王女が消え、それと入れ違いに、六十年以上も前に亡くなったとされている王兄が当時の姿のまま現れた」なんて破天荒な話をごり押しするよりは、簡単なはずだ。
そして年回りの合う王子がいるなら、あえて年老いた国王と婚姻を結ぶ理由はない。婚約相手を変更するのは、極めて自然である。そう彼女は納得しているのに、なぜかライモンドは肩を落とした。
「そうだけど、そうじゃないんだ……」
「どういうこと?」
コンスタンツァが首をかしげると、ライモンドは「うーん」と黙り込んでしまった。そして口を開きかけては閉じるのを繰り返し、言葉を探している様子だ。彼女が辛抱強く待ち続けていると、ライモンドは膝の上で組んだ自分の手を見つめたまま、静かな声で話し始めた。
「僕はここ数十年、ひととしての記憶を失ったまま、鏡の中の世界にいた。自分が何者かも知らず、もうずっとそのまま、鏡の中で過ごしていくのだと思っていたんだ」
彼が鏡の中で、たったひとりで過ごした長い時間を思うと、コンスタンツァは胸が痛む。彼女は黙ってうなずきながら、彼の話に耳を傾けた。
「だけど、あるとき声をかけられたんだよ。『ごきげんよう』って。びっくりしたよ。まさか自分の姿が見えて、声まで聞こえる人間がいるなんて、思ってもいなかったから」
彼女のことだ。初めて彼と顔を合わせたとき、自分がかんしゃくを起こしたことを思い出し、コンスタンツァは苦笑しながらうなずいた。
「それがきみだよ。うれしかった。しかも大変な目に遭ってこの国に来たと言うのに、元気で明るくて前向きで、とてもかわいい。だからつい浮かれて、からかってしまった。するときみは、容赦なく眉間にしわを寄せるだろう? 嫌われたんじゃないかと、すごくこわかった」
コンスタンツァは眉を上げた。いつでもひょうひょうとしていたくせに、そんなことを思っていたのか。でも確かに、少しでも彼女がムッとすると、引き際はとてもきれいだった。だから彼に対して本当に腹を立てたことは、一度もない。
「それからは毎日、いつもきみのことばかり考えていたよ。また会えるだろうか。次はいつ来てくれるだろうかって。でもきみは人間で、僕は違うと思い込んでいたから、いつかきっと別れがくると思っていたんだ。まあ実際、あのまま鏡の中にいたらそうなっていたと思う」
彼女も真実に気づくまでは、彼のことを鏡の精霊だと思っていた。
「なのに、きみはどんどん真実を明らかにしていくじゃないか。ついには僕を鏡から解放までしてくれた」
「ええ。見事にわたくしたちの復讐を果たせたわね」
「きっときみなら、僕がいなくてもひとりで解決できたのだろうけど」
「それは違うわ。こんなふうにすべてきれいに解決できたのは、あなたのおかげよ。本当に感謝してるの」
祖母コルネリアだって、あの咎人の鏡の情報にたどり着くまでに長い年月をかけている。あのレプリカを作ったのは晩年に近かった、と彼女はサンチェス公爵から聞いた。
コンスタンツァが魔法書を読むきっかけを作ってくれたのは、ライモンドだ。咎人の鏡について知ることができたのだって、彼のおかげだ。
彼が祖母の手帳について教えてくれたから、咎人の鏡というものの存在を知った。それによって、魔法書に記述が現れた。彼の情報なしには、彼女も祖母と同じように晩年までかかっていた可能性が否定できない。そして時間切れで、ソフィアもルキーノも救えなかっただろう。
ホリーとちゃんと話せるようになったのだって、彼のおかげだ。
何より、この王宮にひとりでやって来て心細かった彼女は、彼の存在にとても救われた。そう話すと、ライモンドは視線をさまよわせてから「そうか」と照れたように口もとをゆるめた。
「鏡から出てきたとき、真っ先に考えたのは、きみのことだったんだ。それまでは絶対に無理だと思っていたけど、僕でもきみと一緒に時を過ごして行けるかもしれない。そう思ったら矢も盾もたまらなくなって、サンドロに交渉した。婚約を譲ってくれって」
そんなふうに思ってくれていたと聞くと、どこかくすぐったい気持ちがする。彼女はくすくすと笑いながら「まあ、そうだったの」と相づちを打った。
ここで彼は突然、顔を上げて彼女のほうに向き直り、彼女の手を取って背筋を伸ばす。コンスタンツァもつられて背筋を伸ばした。彼はじっと彼女の目を見つめた後、改まった口調でこんなことを言う。
「だから僕は、この先もずっと一緒に生きていくのはコニーがいい。このまま婚約を続けて、結婚してくれますか」
いったい何を言い出すかと思えば。コンスタンツァはパチパチと目をしばたたかせてからクスッと笑い、「ええ、喜んで」と答えた。
この答えにライモンドは感極まったように目を大きくして、彼女の手を両手でキュッと握る。それから肺の中の空気をすべて吐き出す勢いで、深く長く息を吐いた。
「よかった……」
「いったいどうしたの?」
何やら妙に深刻そうな様子に、コンスタンツァが含み笑いをしながら尋ねると、いきなりライモンドは両腕を彼女に回して抱き締めた。突然のことに驚いて、彼女は反射的に体を強ばらせる。
だが彼はお気に入りのぬいぐるみを抱き締める幼児のように、ぎゅうっと彼女に抱きついたまま、「さっきサンドロに言われたんだ……」と理由を白状した。
先ほどサンドロ王は、部屋を出がけにライモンドにこう耳打ちして行った。
『婚約の継続はコニー次第ですよ』
要するに、発破を掛けられたのだ。コンスタンツァと本当に結婚したいなら、婚約者の立場にあぐらをかいていないで、しっかり自分で口説け、と。それでライモンドは、彼女の同意を得るために必死になったというわけだ。
思いもよらない理由に、コンスタンツァは脱力する。
「からかわれただけでしょうに。まさか本当に婚約を見直したりなさらないと思うわ」
「いや、やる。あいつは、やると言ったら必ずやる」
それはどうかしら、とコンスタンツァは思った。しかし口には出さなかった。サンドロ王と知り合ってほんの数か月の彼女より、兄弟として育ったライモンドのほうがきっとよく知っていることだろうから。
ライモンドは彼女を抱き締めて首筋に顔をうずめたまま、珍しく力のない声で弱音を吐いた。
「僕の身内は、もうサンドロしかいない」
そのとおりだ。彼が鏡の中で過ごした年月は、あまりにも長い。彼の両親はもちろんのこと、彼より年上の者たちはみんなこの世を去ってしまっている。彼より年下でも、サンドロ王は長寿だから存命なだけだ。
ライモンドの声は、ほんの少しだけ湿っていた。それに気づいて、コンスタンツァはハッと胸を突かれる思いがした。
彼が自分の無関心を激しく悔いていることを、彼女は知っている。記憶を失って鏡の中にいた間、彼は自分の家族に何の関心も持たなかった。サンドロ王のことを「じいさん」と呼び、具合が悪いと知ってもなお、他人事と思って気にも留めていなかったくらいだ。
記憶を奪われていたのだから、自分との関わりなどわからなくて当然なのだ。そもそも家族のことを忘れていたどころか、自分が人間であることさえ知らずに過ごしてきたのだから。けれども、ろくに見守りもせずに無関心でいた事実は、ライモンドの心の傷となっているようだった。
鏡の中で孤独な時を過ごしてきた彼は、鏡から解放されてもなお、孤独からは解放されずにいる。
「コニーはずっと一緒にいてくれるよね? 僕を置いて先に逝かないでほしい。ずっと、ずっと一緒にいてほしい」
無茶なことを言う。人生なんて、何が起きるかわからない。寿命の保証だって、誰にもできない。だから彼より絶対先に逝かないなんて、本当は約束できるわけがなかった。
それでも──。
「約束するわ。ずっと一緒よ」
コンスタンツァは力を抜いて身を委ね、ライモンドの腕にそっと手を重ねた。
しばらく彼に抱き締められるがままにまかせていたが、いつまでもそうしてはいられない。彼女にはまだやり残したことがある。コンスタンツァは彼の腕を優しく叩いてほどき、身を離した。
「さて、ミラー。婚約を続けるためには、やらなきゃいけないことがあるわ」
「え、なに?」
「魔女の後始末よ!」
コンスタンツァが高らかに答えると、ライモンドは軽く目を見開いてから「そうだね」と破顔した。パルマ王国での後始末は終えて来たが、タリーニ国内での後始末はまだ手を付けていないのだ。
「何から始める?」
「そんなものは、これから考えるのよ」
ごくごく当然のことを答えただけなのに、ライモンドは吹き出した。
「ああ、好きだなあ。きみのそういうところ、本当に好き」
笑われたことにカチンときて、けんつくを食わせてやろうとしたところへ、とろけるように甘い笑みを浮かべてこれである。コンスタンツァはすっくとソファーから立ち上がり、火照った顔を照れ隠しにツンとそらした。
「さあ、図書室で作戦会議よ!」
すたすたと彼女が足早に部屋を出ていく後ろを、あわててライモンドが追いかける。
昼下がりの柔らかな日差しが回廊の大きな窓から差し込み、二人の後ろにそれぞれ長い影を作った。庭木の葉がそよ風に吹かれて、敷き詰められたじゅうたんの上に、楽しげに弾む小さな影を無数に落とす。その上をシルクのリボンで飾って祝福するかのように、ゆらゆらと穏やかに木漏れ日がきらめいている。
先を歩く長い影にもうひとつが追いつき、手をつなぎ、寄り添い、そしてふと重なる様子を、窓辺の光と影は、音もなく静かにただ見守っていた。
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