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第85話 閑話:その頃の他勢力の動向

 さてこの頃の洛陽の袁術らはやりたい放題であった。


「宮殿に使うには質が低すぎる。

 こんなものでは金はだせんぞ」


「そ、そんなはずはございま……」


「商人風情が我々の判断に不服を申すというのか!」


「い、いえそんなことは、そ、その額で収めさせていただきます」


 洛陽では未だに修復がままならぬ宮殿修復のための材木や装飾が施された文石が届くと、それらが必要な品質を満たしていないとして、半額からひどい時には1/10の価格で買い叩き、それを正規の値段で自分達で売り払ってその差額を着服した。


 また霊帝に引き続いて、官位を銭で売り、自分たちが赴任させた司隷や豫州の州刺史や郡太守からは銭の徴収を行っていた。


 ただし、袁術らが実質的に自由にそういったことをできるのはもはや司隷東部地域のみとなっており、董卓が事実上刺史の権限を持っている涼州・益州・荊州・揚州には売官はできなくなり、袁紹とその仲間が反乱を起こした冀州・兗州・青州・徐州は勝手に袁紹が太守を赴任させ売官の銭だけでなく田祖の麦なども洛陽に入ってこなくなっていた。


 そのため洛陽は荒廃しきって、逃げ出す民も続出しており、天下万民から彼処はもはや漢の帝都としての権威を喪失したと嘆かれる様になっている。


「それにしてもくそいまいましい奴らめが」


 豫州は袁紹と袁術が双方ともに刺史を送りこみ太守を任命し、その権利の奪い合いを行っている状態であった。


 そして并州は黒山賊や南匈奴などの反乱の影響でほぼ放棄されたに近い状態になっているし、交州の劉焉は連絡が取れなくなっている。


「せめて、あの田舎者がこれ以上好き勝手できぬようにするべきか……」


 といっても袁術にとって関中の司隷三輔や涼州と益州、荊州と揚州は旨味のない場所であるが、豫州の奪い合いをしている袁紹や洛内での政争で手がいっぱいであり、現時点で董卓を将軍位から引きずり下ろしても事実上独立されてほぼ全方位を敵に回すだけである。


「とりあえずは劉家の連中とつぶしあいをさせるしかあるまいな」


 袁術は天子の名を持って劉繇を正式に揚州牧や劉焉に交州牧に任命して、揚州の売官銭を収めるように命じ、従わぬのであれば武力で排除しても良いとして争乱を起こすよう仕向けた。


「それに天子を勝手に祭り上げられても良くはないか」


 袁紹が皇帝として担ぎ上げようとしている劉虞には天子への忠誠の証を立てさせ、劉虞の軍勢を奪い取るために劉虞の息子で洛陽に残っていた劉和を脅迫して劉虞へ軍勢を提供するようの手紙を書かせた。


 劉虞は天子の命であればと軍勢を提供しようとしたが、彼のもとで戦っている公孫瓚は袁術の意図に感づき、劉虞に派兵を取りやめるよう諌めたが、劉虞に聞き入れられなかったため、自身も袁術の歓心を買うために従弟の公孫越に率いさせた軍勢を袁術に提供したのだった。


 ・・・


「くそ、役に立たない奴らめ、やはり信じられるのは自分のみということか」


 一方、対袁術同盟が崩壊し、それぞれが群雄としてお互いに争う状況下、劉虞には協力を断られた袁紹は張邈とも仲違いし冀州へ逃れていたが、并州出身の元何進派閥の張楊ら何進大将軍府の時に推薦したものなどの軍勢を傘下に収め、冀州刺史を自称して勢力を伸ばしていた。


 しかし、劉虞という担ぐ者が居なくなった袁紹はなんとも中途半端な立場になってしまっていた。


 袁紹は従兄弟の袁遺を揚州刺史に任命し袁遺は揚州へ向かいその役を果たそうとしていた。


 ・・・


 董卓以外にも袁術と袁紹の争いにかかわらなかったものもいる。


「所詮身内同士ののいがみ合い、漢室を守ろうなどとは両名思っておらん」


 孔子の孔子20世の子孫である、青州の孔融文挙だ。


 かれは党錮の禁で逼塞するが、黄巾の乱にてそれが緩むと何進によって召し出され、北軍中侯・虎賁中郎将となった。


 しかし何進が殺されると、孔融は袁術に敬遠されて北海の相となった。


 孔融は学校を建てて人を集めたが、自分の才能は世に高く、他人より優れていると考えており、孔融が任用する者は変わり者のであまり現実的な才能のない者ばかりであった。


 それが故に青州は黄巾残党が跋扈し住民や文人の流出が続いて衰退していくことになる。


 ・・・


 揚州の劉繇の下には太史慈・許劭(きょしょう)孫邵(そんしょう)是儀(しぎ)などがいた。


 そして許劭はこの時代の人物批評家として有名な人物であった。


 太史慈は武勇にとても優れた人物であったが、劉繇は「子義(太史慈)殿を使ったりすれば、許子将殿が私の事を笑ったりされないだろうか」と許劭の目を気にして、太史慈を使いこなすことができなかった。


「田舎者に仕えるのを良しとしない者もいよう、そういった者をこちらにつけるのだ」


 せっかく才能を持つものがいてもそれを生かせないのは孔融も劉繇も変わりがなかった。


 ・・・


 その頃、劉焉は袁術の使者を追い返していた。


「何やら中央では袁家の者共がもめているようだがもう知ったことではない。

 のんびりすごさせてもらうわい」


 益州北部と違い司隷と遠く離れた交州で過ごしているうちに中央へ戻りたいという考えを彼はすっかり失っていた。


 もっとも生まれた土地である江夏に戻りたいという思いがまったくないというわけでもなかったが。

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