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第75話 袁術からの命令で荊州南部の反乱を鎮圧しろ?まじか

 さて、冀州にいた皇甫嵩は袁術により呼ばれて、洛陽に入りその後河内太守に任じられた。


 これは并州の黒山賊が河内に侵入してきていることへの対処のようだ。


 そして袁術は俺を正式に征西将軍に任じて、夷狄より関中を守るようにと言ってきた。


 俺を長安に閉じ込めて、羌族などの異民族ににらみをきかせつつ、実質的には俺は一旦無視することに決めたらしい。


「所詮は辺境の将軍上がりと舐められてるんだな。

 まあそのほうが俺にも都合もいいが。

 俺が失敗したら皇甫(嵩)義真あたりを後釜に据えればいいとでも考えてるんだろう」


 そもそも涼州は放棄してもいいぐらいに考えてるはずの袁術を筆頭とした現状の後漢王朝の連中にとっては俺たちが静かにしてる限りは無視するのが一番なのだろう。


 田舎者は田舎でおとなしくしていればいいくらいに考えてるはずだ。


 出身地での貴卑の認識も貴族たちにはかなり強いからな。


 そして失敗したら降格もしくは罷免してやろうぐらいに思ってるんだろうな。


 涼州は人口が少ないために税収が軍事費を下手すると下回るくらいだし、益州や并州もそれはあまり変わらない。


 函谷関より西の三輔は秦及び前漢の時代は長安が首都だったので重要視されていたが、後漢では首都が洛陽に移ってしまってからは、一般の行政区画と変わらなかった。


 長安は前漢を滅ぼした王莽の末年の戦火により、「民はお互いに食い合い、死者数十万、長安は廃墟となり、城の中は無人となった」といわれるくらい大きな打撃をうけたが、光武帝の時期には少し持ち直したものの、前漢時代の三輔人口は240万ほどいたはずが、後漢の人口は50万と前漢とは比べ物にならない くらい衰退していた。


 さらに羌族は107年・140年・159年と反乱を起こしさらに三輔は衰退していく。


 なのでこの時点では三輔・涼州・益州は関中とまとめて認識されていて異民族の反乱が重なるろくでもない地域と考えられてるわけだ。


 だからこそ袁紹や袁術などにとって函谷関の西の関中は割とどうでもよく、彼らにとって重要なのは人口が多くて、豊かで出身者の身分も高いとされる中原なのだろうな。


 袁術は幼い献帝を擁しているから実質的には漢の朝廷そのものを掌握しているし、豫州を中心に後漢の名家貴族からも支持されているが、逆に言えば民衆からはそっぽを向かれたまま。


 そして、俺があまり関わってない東側の州の清流派士大夫の多くは袁紹を支持してるようだ。


 とはいえ黄巾の乱では黄巾等に洛陽の直ぐ側まで攻め寄せられているし、地形的にも防衛に不利な洛陽を抱えて袁術がどこまで戦えるかは疑問でもあるな。


 もっとも名将と名高い皇甫嵩が加わったことである程度は戦えるだろうが、史実では董卓は何進と何苗それに丁原の部下と兵士を己の下に入れてるわけだが、何進と何苗が仲が悪かっただけにその統制にだいぶ苦労していたはずで、今の袁術も同様だろう。


 袁紹は旧何進派の最有力者で宦官を倒したら、何進政権のナンバー2になっていたはずだし、何進が倒れた以降はナンバーワンになれると思っていたろう。


 それは彼によって何進の将軍付に招かれた清流派の人物も同様に思っていたろう。


 史実では洛陽の外には何進が宦官誅殺や何太后を脅すために募兵するため地方に派遣した彼の幕僚たちが、何進の死後も兵を持ったまま状況を見守っていて、その多くは袁紹に近い人物だったし、董卓が抜擢した地方長官たちの多くが袁紹の友人で、本来だったらもっと高い地位につけたはずと不満を抱える袁紹派とせっかく功績を上げても地位を引き上げてもらえない涼州や并州の董卓の元々の部下はお互いをよく思ってなかったので、あっさり半年ほどで袁紹派の反乱が起こって、さらに白波賊の跋扈もあって董卓は政治的にはろくなことが出来なかった。


 董卓が袁術に変わっても袁紹を支持していた者たちは当然袁術というか後漢王朝そのものをよく思わないから、特に黄巾の被害が大きかった地域ではむしろ袁紹の支持者が多い。


 冀州の盧植と蓋勲は最初は袁紹を支持して彼の元で働こうとしたようだが、袁紹がまったく話を聞く気がないとわかると、幽州の劉虞のもとに向かい、やはり意見が受け入れられないとわかると俺のもとへ向かっているらしい。


 まあ、袁紹も袁術も劉虞も自分の思ってることを支持する人間以外の意見はまったく取り入れなかったんで仲間や部下にそっぽ向かれるんだけどな。


 史実では蓋勲は劉虞や袁紹とともに宦官を抹殺する計画を行ってるが、それを実行したとしてもおそらくその後喧嘩別れしたろう。


 実際は計画を実施する前に異動になってしまったので行われなかったのだが。


 それはおいておいて羊続に襤褸を纏われ続けても困るし、抜擢したからと綺麗な服を購入できる者ばかりでもないので、役所などの務める際には役所から階級に応じた服を使うことを定めつつ、制服貸し出しの制度を作った、もちろん退官の際に返却するようにしている。


 服の洗濯は寡婦や子供、傷痍者などを充てて川で行わせる。


 また、伍長以上の下士官以上や何らかの功績で勲章を受けた者とその一族には無料で医療を受けられることにもした。


 そして年が明け中平4年(187年)の正月に袁紹・韓馥・孔伷・劉岱・王匡・張邈・橋瑁・袁遺・鮑信らが袁紹を盟主に推し、袁紹は車騎将軍・司隸校尉を名乗って、君側の奸である袁術を打倒せよと各地に檄文を発し、王匡は司隷の河内に攻め込み、孔伷は豫州の潁川に、韓馥は冀州の鄴に残り、残り者の軍は皆が兗州の陳留に駐屯した。


 しかし、王匡は皇甫嵩の軍によりあっさり壊滅されたらしい。


 このころ、荊州の南部の長沙では区星が将軍を自称し、零陵・桂陽では周朝・郭石が反乱を起こした。


 そしたら俺に命令が届いた。


 ”董将軍には征西将軍兼征南将軍として反乱鎮圧の任を与える。なお、洛陽へは来ずにそのまま兵を率いて即座に討伐を行うように”


「何だこりゃ、俺に兵を引き連れて洛陽に来ずに、直接荊州南部に向かって反乱を鎮圧しろだって?」


 元は交州の劉焉にやらせようとしたが劉焉がどうやら命令に従わずに動かなかったらしい。


 そういうわけで何度もそっち方面の反乱鎮圧を行ってる俺に任せようと思ったようだな。


 賈詡が含み笑いをしながら言う。


「洛陽に入られて我々の兵で自分たちが、うたれてはかなわぬが、荊州の反乱をそのままにしておくわけにも行かぬということでしょうか」


「まあ、そうは思うだろうな。

 俺が宦官を誅殺した過去もあるし、あちらも自分が何太后などを誅殺してるわけだし」


 俺がそういうと荀彧が聞いてきた。


「では、この指示についてどういたしますか?」


「荊州新野への駐屯の権利と荊・揚州の刺史の権利をくれるっていうんだからありがたくもらっておこうか」


 袁術の下の武将には皇甫嵩の他には紀霊・張勲・橋蕤などがいるが皇甫嵩は黒山賊が侵入してきてる河内の抑えに必要で、さらに袁紹たちは潁川と陳留にとどまっているのでそちらを優先しなければならないのだろう。


 荊州の太守達は袁紹にも袁術に味方してないから余計なのだろうな。


「長安は董(旻)叔穎に任せる。

 弟の言葉は俺の言葉だと思うようにしてくれ。

 荊州にはそちらの生まれのものに来てもらおう」


 俺は軍師として賈詡・許攸・蔡邕・徐庶など武将として朱儁・朱治・陶謙・孫堅・蔡瑁・黄忠・黄蓋・黄祖・陸康・陸儁などを率い、荊州の南部の反乱を鎮圧するべく行軍を開始したのだ。


 ついでに荊州・揚州の人材も確保してしまいたいな。

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