表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
72/177

第72話 閑話:その頃の袁紹・袁術・曹操などの動向

 さて、袁紹は名門汝南袁氏の出身であるが、父の袁成と早く死別し、母親は身分の低い妾であった、もしくは袁紹は袁逢の妾の子であったが、袁成が早く死んでしまった、もしくは一族ごと殺されたためにその後を継がされたとされる。


 何れにせよ、袁紹の父親とされる袁成は梁冀と誼を通じており、梁冀はその言う事に従わない事が無かったとされる。


 しかし、袁成はのちに梁冀に連座して殺されて、こののち袁氏は6年間も沈黙することになる。

 袁成が死んだことで、弟の袁逢が家を継いだが、袁逢は世俗の非難をかわすために、静かに暮らさざるをえなかったのである。


 いままでは梁冀の権力で好き放題できたが、それが原因でほとんど何もできなくなるのは皮肉であるが。


「宦官のせいでこんなことに!」


 そして袁逢は弘農郡の名家である楊氏と婚姻関係を結んで政治的立場を回復しようとした。


 袁逢は自分の娘を楊彪に嫁がせたのだ。


 袁氏はこれによって一族滅亡の危機をなんとか脱した。


 この時代の縁戚関係というのはかなり大きな意味を持つ。


 もっともそれゆえに連座を受けることも少なくはないのだが。


 そして桓帝の皇后であった鄧皇后が165年に殺され、代わりに竇皇后が立てられた。


 袁逢はこの時に外戚となった竇武に近付いて、そのおかげもあり袁紹は20歳で濮陽の県令に任命された。


 しかし167年に桓帝が死に169年に竇武とその仲間は張奐によって戦いに敗北し滅ぼされた。


 この頃に袁紹の母が亡くなるとそれを名目に彼は3年の喪に服し、その喪が明けると更に父の喪にも服し、合計6年間の喪に服しなおかつその後も、洛陽に隠れ住む事になる。


 彼を養育した叔父の袁逢と袁隗は彼にかなり期待していたが、”所詮妾の子供”という視線の強さや外戚と結びついては、それが殺されると権力を失う状況にさらされていた袁紹は他人や権力をあまり信じていなかった。


 さらに宦官である中常侍の袁赦と結んだ袁隗の言うことを聞く気もなかった。


 そして袁家の出自と言えども父が死んでいる上に、母の身分が低いということは、血筋至上主義の後漢末においてはかなり大きなハンデであった。


 それ故に袁紹は名士と「奔走の友」としての交わりを結んで人脈を構築し、朝廷からの招聘には応じなかったし、党錮の禁で迫害された党人たちを逃がすような活動もしていたのだ。


 もっともそれ故に袁家一族からは煙たがられていた。


 だがその後に何進の掾に召されるとようやく官途に就くことにした。


 これは外戚は宦官に対抗できるほぼ唯一の存在であるからと、何進の大将軍という地位に対して袁紹と接するときの偉そうでない態度も袁紹には受け入れやすかった。


 そして袁紹は虎賁中郎将に抜擢されると黄巾の乱で活躍し、その後は党人の仲間をどんどん何進の大将軍府で登用させ、事実上何進派閥を清流派という後漢に対しての反体制知識人の巣窟にしてしまった。


「よし!これなら宦官共を皆殺しにできる!」


 梁冀のときも竇武のときもそれを殺したのは宦官であり、袁紹にとって宦官は滅ぼすべき敵であった。


 しかし、彼の計画は失敗に終わった。


 宦官を倒したら彼や清流派の時代が来るはずだったのだが、まず何進や袁隗は呼び寄せられ殺害され、それを知った袁紹は本拠地である汝南へ逃亡した。


 その間に何進の兵を拾い上げた袁術が何苗と何太后を殺して洛陽での実権を握っていた。


 さらに、元々袁家一族からは普段の行動により煙たがられていた袁紹は、汝南で袁家の一族に捕らえられそうだったところをなんとか逃れてさらに遠くへと逃げる事になった。


「くそ、兗州まで逃げることになるとは」


 袁紹はともに逃げ出した、兗州が地元の張邈をたより兗州で反袁術の兵を挙げることになる。


「青州の劉(岱)公山や冀州の皇甫(嵩)義真や盧(植)子幹と手を組めば、袁(術)公路などひとたまりもあるまい、まずは使者を送るべきか」


 袁紹は張邈の力を借りて冀州・青州・兗州などの実力者とともに、黄巾賊残党を引き入れて袁術を討つことを考えていた。


 ・・・


 一方、袁紹が虎賁中郎将として出世していた頃、袁術は郎中のまま冷遇されていた。


 少なくとも当人は冷遇されていると思っていた。


「身分の低い者同士で連なりおって!」


 袁逢は中途半端に清流思考だったのも彼には災いしただろう。


 であればこそ、彼は袁紹をまっさきに抹殺しようとした。


「まだ洛陽に隠れている居るであろう、袁(紹)本初とその共謀者を捕らえよ!」


「か、かしこまりました」


 袁術は袁紹に何苗や何皇后の殺害の罪を着せ、袁紹の息のかかった清流派の人物もろとも捕らえて殺してしまうつもりであった。


 清流派などというのは身分が低いくせに偉そうに他人を批評するだけの役立たず共だと彼は考えていた。


 しかし、それはうまく行かなかった。


 民意は既に後漢王朝にはなく、その中でも血筋の良さを官職の登用基準とする袁術の評判は民衆からは良くなかったのだ。


 結局、袁紹は洛陽を脱出し豫州汝南郡汝陽県へ向かっているらしいことが判明した。


「ならば罪人として早急に手配しろ。

 捕らえれば……まあ、犯罪者を捉えるのは民の義務ゆえ懸賞金など必要なかろう」


 そういって袁紹を罪人として手配したが、捕らえたものに対する懸賞をケチったために、袁紹は豫州から兗州まで無事逃げ出した。


「無能な下民共が、なぜ捕らえられぬのだ!」


 身分の尊いものの命令に卑しいものは従うのは当然であるという思考の表れが、既に彼の行動を現実離れさせていたのだ。


 ・・・


 董卓より命を受けた曹操の手引きによって清流的な宦官や曹操の知己のものはなんとか洛陽から逃げ出した。


 史実においては袁紹や袁術は宦官の虐殺を行ったが、このときも曹操はそれには参加していない。


 知人がたくさんいるのであるのだから当然とも言えるが。


 だがあえて洛陽から逃げ出さなかったものもいた。


 呂強・向栩・張鈞などだ。


 袁術は彼らをそのまま用いようとしたが、即位したばかりの劉弁を弑逆した大逆の輩にもちろん従うつもりはなかった。


「国家を簒奪せんとする輩に、我々がどうして従えようか!」


 彼らは結果としては捕縛されて汚職の罪をなすりつけられて、処刑され市場で遺体をさらされた。


 宦官は全て汚職を不正蓄財しているものと思っている一般民衆は、彼らの塩漬けの遺体につばを吐きかけたりしたが、忽然とその遺体は消え去った。


「正しき行いをしたものがなぜこのような目に合わなばならぬのか!」


 脱出をする際に彼らの遺体を洛陽の市から持ち出したのは彼らの部下であった宦官たちであった。


 ・・・

 その頃、劉焉は交州でのんびりバカンスを楽しんでいた。


「何やら中央ではもめているようだがもう知ったことではない。

 のんびりすごさせてもらうわい」


 ・・・

 一方、幽州の劉虞は後漢に連なる皇族ながらも、霊帝などとは異なり民衆の事を理解し、領地には常に善政を敷く公正清廉な人物として人々の人望を集めていた。


 異民族である烏丸族に対しても懐柔策をとったことで、烏丸は戦わずに帰順し鮮卑に対しても同様に懐柔を行っていたが、彼の下で戦っていた公孫瓚にはそれが不服であった。


「どうせ一時期おとなしくなってもまたすぐに裏切るような連中だとなぜわからぬ」


 公孫瓚は劉虞の異民族への懐柔政策には反対の立場であった。


 そしてこの二人の性格の違いが後の対立を引き起こすことになるのである。

 ・・・

 黄琬はかつて陳蕃らと共に行動し、そのために党錮の禁により二十年程政治から遠ざかっていた。

 しかし、黄巾の乱により党錮の禁が解除され、現状の混乱に対処できる才能だと上奏されたことで政治に復帰し、青州刺史を経て侍中そして豫州牧に昇進し、州を荒らしまわっていた盗賊を尽く殲滅して名をあげ、天下の模範となるような善政を敷いて関内侯に封じられた。


 そして彼は祖父が三公の地位にあったと言われる後漢末期の名門の出であり、袁術が権力を握った後は袁術に声をかけられ、中央に召還されて太尉となっていた。


「宦官を掃滅したのならばきっと良い政治が行われるのであろう」


 しかし彼はそう考え、中央に出仕したことを後に後悔することになるのである。


 これは冀州から中央へ呼び返された皇甫嵩にとっても同様であった。


 同様に呼ばれた蓋勳はそれを拒否したが、盧植はそもそも呼ばれなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ