第69話 涼州が落ち着いたが東方はひどい状況らしいそして……
さて、話は少し戻る。
光和7年・中平元年(184年)の黄巾の乱のとき、公孫瓚と劉備は盧植のもとで戦ってそれぞれに結果を出し、公孫瓚は幽州涿県の県令に、劉備は冀州安喜県の県尉に任命された。
公孫瓚の方はその後も問題なかったのだが、劉備には郡太守から督郵(監察官)が派遣され劉備を罷免と判断した。
それを聞いた劉備は督郵に面会を求め罷免とされる理由を聞こうとしたが、督郵は病気を口実に会おうとしなかったため、劉備は兵を率いて宿舎に押し入って、仮病の督郵を樹木に縛りつけて100回以上も杖で殴り、このままでは殺されてしまうと督郵が命乞いをすると、県尉の印綬を督郵の首に掛け、そのまま逃げ出してしまった。
公孫瓚は大丈夫だったが、劉備が駄目だった理由は彼には冀州に地縁も血縁もなく、さらに助軍銭の支払いができなかったからであったようだ。
そして翌年中平2年(185年)に、逃亡してきた劉備やその仲間の関羽・張飛・簡雍などが俺を頼ってやってきた。
「劉玄徳よ、久方ぶりだな」
「はい、董将軍の名は幽州・冀州にも鳴り響いておりました。
しかしならば助軍銭を支払えぬと言ったらば罷免とされ……つい」
「中央も冀州の惨状を知らぬということはあるまいにな」
「はい、民は困窮しておりそれ故に租税はおさめなくとも良いとされたはずでしたが」
「全く困ったものだ、俺もここや益州の反乱をおさめて、民を慰撫しようとしているところで転属命令がでたが流石に一度断ったよ」
そんな感じで劉備たちも俺の下で働くことになったのだが、11月に鮮卑が幽州と幷州に侵攻するともう一度俺に討伐命令が出た。
”そなたを右驃騎将軍に任ずるゆえ、涼州より引き上げ冀州の賊及び北方の異民族へ対処せよ”
「とうとう驃騎将軍にまで俺を上げざるを得なくなったのか」
驃騎将軍は文官の三公に匹敵する地位で、その上には大将軍しかいない。
さらに驃騎将軍は四征将軍と違い、方面ではなく反乱征伐軍の指揮官が任命され驃騎府を開設(or 開府)することができる。
大将軍が存在しない時は最高司令官として任じられる職でもあり、名目上は車騎将軍、衛将軍の上位に当たるとされる。
「流石にこれは断るわけにはいかないかな」
俺は兵を率いて洛陽へ向かうことにしたのだ。
・・・
いっぽうその頃の洛陽では太常の劉焉は霊帝にある提案を行っていた。
「現在各地で反乱が頻発している原因は、州刺史に実質的権力がなく権威が軽いことと、その人選に問題があることです。
州刺史に監督のための軍権を持たせ州牧とし、清廉な重臣をそれに任命し赴かせるべきです」
と、各地で頻発する反乱の原因が郡太守よりも低く、兵を持たない州刺史の権限と権力にあり、監察官としての権限を強化するべきと提案した。
「うむ、そなたの言うとおりであるな」
と霊帝はこれを承認。
これにより、劉焉が交州牧、黄琬が豫州牧、劉虞が幽州牧に任命されそれぞれ各地に向かうことになった。
劉焉は前漢の魯恭王であった景帝の第4子劉余の末裔に当たり、もともとは江夏郡の名門王家の人、そして前漢の皇族ではあるが後漢初代皇帝でもある光武帝の子孫である後漢の皇族によって圧迫され領地がどこか分からなくなるほどでもあったから、後漢の皇帝にいい思いを抱いていなかった。
名家の生まれであるから中郎として洛陽にて働いていたが、教師で司徒の祝恬が死んだので、劉焉は喪に服し、退職し潁川郡で清流派に交わって学問を学んだ。
その後復職し洛陽の県令を経て、南陽郡太守・冀州刺史・宗正・九卿の筆頭である太常を歴任した。
しかし、彼が行った霊帝への諫言が全く聞き入れられなかったので、既に見切りをつけていた。
であるがゆえに田舎であるが南方の香料や砂糖などを手に入れられ、故郷にも近い交州へ向かったわけである。
・・・
そして年の開ける中平3年(186年)天下に衝撃が走った。
病に倒れた霊帝はそのまま崩御したのである。




