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第64話 続いて益州北西の自称黄巾党を叩き潰そうか

 さて、巴郡と漢中についての五斗米道の乱は板楯蛮の協力などもあり、張脩はあっさり降伏してきたので、案外早く反乱は収まった。


 その後、民への食糧の施しや病気治療などを行い、労役を軽くし、悪徳官司は罷免するなどしているうちに10月になった。


 洛陽の獄へ送られた張脩は最終的には巫術(呪術)を用いて民を惑わしたとのことで斬首されたようだ。


 後漢王朝が認めない非正統的な巫術、方術等は左道術とよばれ司隷校尉の役目は、当初の職務は巫術をもちいた呪殺行為を行った者の逮捕であったくらいだしな。


「まあ、反乱を越した時点で こうなる可能性もあることはわかっていたろうさ」


 五斗米道の信者に関しては、張魯にまとめさせている。


 もとは前漢の宰相であった曹参が黄老思想を取り入れているので、それを元にした五斗米道自体は一応違法の左道ではない。


 もっとも反乱を起こせば左道扱いになるのだがな。


 このころ冀州の広宗県に向かった皇甫嵩は盧植と共に張角の弟である張梁を捕らえて斬首し、

 広宗県城を奪い返し、既に病死していた張角の墓をあばいてその首も洛陽に送り、のこるは張宝だけとなっているようだ。


「ほぼ冀州の反乱も鎮圧できたか」


 このとき益州従事、(従事は刺史の秘書官みたいな役割)の賈龍(かりょう)と言う人物がやってきて俺の下で戦うことを告げた。


「どうか私も戦わせてください」


「ああ、むしろ助かるよ、道案内などはよろしく頼むぞ」


「はっ、噂に名高い董将軍の下で戦えるとは光栄です。

 どうかお任せください」


「うむ、よろしく頼む」


 彼は益州の豪族の一人で史実では劉焉を迎え入れ、反乱で荒廃した益州の地いずれは漢王朝そのものを復興させようとしたが、劉焉の漢朝からの独立計画などに反旗を翻して劉焉と戦い、敗れて殺害されている。


 劉焉と言うとなんとなく温厚だったりするイメージがあるが、中央での熾烈な権力争いを生き延びてるだけあって、案外エグいところもあるのであったのだ。


 息子の劉璋にそっぽを向く人間が多かったのは彼が暗愚だからと言うだけでなく父親の行いのせいもあったのだろう。


 俺たちは巴軍から西の犍為郡へ攻め込み反乱をおこした馬相と趙祗を打ち破ると広漢郡、蜀郡、犍為郡の反乱をなんとか鎮めた。


「なんとか反乱を鎮められたか」


 しかし11月になり涼州の北地郡の異民族である羌族の1部族である先零羌(せんれいきょう )と後漢に従っている異民族である湟中義従胡(こうちゅうぎじゅうこ)の月氏である北宮伯玉(ほっきゅうはくぎょく)李文侯(りぶんこう)が、涼州義從である宋建(そうけん)王国(おうこく)と共に反乱を起こし、護羌校尉の伶徴(れいちょう)と涼州刺史である左昌(さしょう)を殺したという。


 しかも、この反乱に加わっている北宮伯玉と李文侯や羌族の将帥たちはかって段熲の部下であり、恐ろしく強いようだ。


「涼州に家族がいるものの家族をまず迎えに行く!」


「はい!」


 こうして俺たちは急いで涼州へ向った。


 元段熲の部下だと俺も一緒に戦った連中も多いだろうし、出来ればあんまり殺したりはしたくないのだがな。

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