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第61話 豫州の黄巾討伐が終わったら益州でも大規模反乱か

 さて、光和七年(184年)五月に波才の軍を破った俺達は皇甫嵩は車騎将軍に任ぜられて、将軍職としては俺の上の位に付きつつ冀州へ向かい黄巾の本部を討伐することになり、俺は豫州などの汝南郡などへ向かうことになる。


 そして司隷の入り口でもある長社の守りは、袁紹に委ねられているらしい。


「袁(紹)本初殿の手並みは鮮やかでしたな。

 これなら安心して後ろを任せることができますぞ」


「うむ、ここはは私に任せて、董将軍は黄巾の賊徒共の討伐に専念してくだされよ」


「あい、わかり申した、何大将軍や袁(隗)次陽様にもよろしく伝えておいてくだされ」


「うむ、わかった」


 潁川郡の隣では、黄巾の軍が邵陵で汝南郡太守の趙謙をやぶっているのでまずはそこへ向かう。


 このころ王允が豫州刺史となり、孔融らを幕僚に迎えて俺達とは別に黄巾軍を撃破した。


 冀州の盧植の軍も、諸郡の兵を率い、張角の黄巾の軍に対し、野戦にて連戦連勝をし続け、一万人あまりを斬ったり降伏させたりして、張角たちは敗走して、廣宗に逃げ込んで籠城していた。


 流石に城攻めは一筋縄では行かず、その周りに盧植は陣を築き、堀や逆茂木を設置して、雲梯や梯子を用意させているところらしい。


 俺はというと汝南郡の彭脱を切って、陳国でも敵将を斬り、残りの黄巾賊を降伏させて7月までにはどうにか豫州の黄巾の反乱を平定した。


 この時に孫堅が勝ちに乗じて深追いしすぎ単騎で苦戦に陥ったらしく、負傷して馬から落ち草むらの中で倒れていたそうだ。


 孫堅が乗っていた馬が一度軍営まで来てから、孫堅の場所まで戻っていったことで倒れていた孫堅を発見して、孫堅は危うく助かったがな。


 この猪突猛進癖をなんとかしないと、史実みたいに討ち死にしそうなんだが、きっと治らんのだろうなぁ。


「お前さんが勇敢なのは認めるが、こんなことをしてたら早死するぞ」


「臆病者とのそしりを受けるぐらいでしたらば、討ち死にするほうがましです」


「だがお前さんにも妻子はいるだろう? 残された連中のことも考えたほうがいいぞ」


「むむ……たしかにそうではありますな」


 そして豫州が平定できたと思ったら、交州で駐屯する兵が刺史および合浦太守の来達をとらえ、柱天将軍と自称し、独立を宣言したらしい。


 どうも交州ではろくな政治が行われていなかったようだ。


 で、俺はそっち方面の平定に向かわされるかと思ったら、交州刺史として賈琮という人物がそちらには派遣されることになった。


 そのかわりと言っては何だが、益州の綿竹県で黄巾を称する馬相と趙祗らが反乱を起こし、綿竹県令の李升(りしょう)を殺害、さらに続いて雒県を陥落させ、益州刺史の郤倹(げきけん)も殺害され、その反乱範囲は広漢郡、蜀郡、犍為郡まで広がった。


 さらに漢中の南の巴郡でも五斗米道の張脩が反乱を起こしたので、俺はそちらの反乱の平定に向かうことになったのだった。


 実質的に後漢が支配できている益州の内、ほぼ全部で反乱が起きたに近いからな。


「まあ、東はもう大丈夫だろうし、南は任せるしかないな」


 いつもどおり洛陽に一度戻って、征東将軍を返上して、征西将軍を拝命して益州に向かうとしようか。

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