第26話 曹操・張倹・劉表と并州に戻って呂布と出会ったよ
さて、張奐は外戚である竇武はともかく、宦官の王甫により捕らえられて、即刻殺害された陳蕃に対してはおもうところがあったらしく、俺の党人の辺境への逃亡の手助けをあえて目こぼししてくれていて、侯を辞して宗廟・礼儀を管轄する太常となり、洛陽にのこって宦官とやり合うことになった。
さらには清流派としての名声獲得のために袁紹が派手に動いていたのもあって、俺の方はそこまで目立たないですんだのは助かった。
そして翌年の建寧2年(169年)に蛇が玉座の軒の上に現れたのちに天候が一転にわかにかき曇り大きな雹が振り落雷が樹木を裂く天災があった。
これは一体いかなることかと天子が問うたのに対し、張奐は竇武と陳蕃が名誉を貶められたままになっていることに対しての、天のしるしだと思われますと答え、この2名をあらためて埋葬し、党錮を解除して名誉を回復すればすれば収まるでしょうと答え、天子はいったんは張奐の言い分に納得をして竇武と陳蕃を礼に基づいて埋葬し直すよう命じたが、当然宦官はそれに待ったをかけて、結局は宦官の言い分が通り竇武と陳蕃の名誉が回復されることはなかった。
俺はそろそろ并州へ戻ることを張奐に伝えた。
「すまんな、私はここに残って陳仲挙の行おうとしたことを引き継ごうとおもう」
「はい、張然明様今までありがとうございます」
張奐は宦官の横暴をなんとか止めようとしたいらしいがおそらく難しいだろうと思う。
だが頑張って欲しいともおもうのも事実だ。
そして俺が并州へ戻ろうとした時、声をかけてきたものがいた。
「君が董仲穎殿か、私は張元節」
「私は劉景升」
「ゆえあって、君たちに同行させてほしい」
「ん、別に構いませんよ」
「それは助かる」
張元節こと張倹は「八及」の一人で、延熹8年(165年)に宦官の侯覧の家がある防東県に赴き、侯覧一族が働いていた不正を弾劾し、侯覧の母を殺害しようとしたが、侯覧は張倹の奏上を差し止めた。
このことで張倹は侯覧の恨みを買ったわけだ。
そして張倹は今年に邸宅で用いていた一人の下僕を解雇すると、下僕は不満を持ったため侯覧へそれを告げた。
侯覧はこれを利用し、張倹が同郷の「八俊」「八顧」「八及」の24人とともに乱を企てていると天子にチクったため、彼は天子により追討を命じられ、張倹は洛陽から逃亡を図ることとなった。
劉景升こと劉表は名前を出されて巻き込まれてもいたためにその逃亡を手助けして一緒に逃げているのだな。
曹操・張倹・劉表らを兵の中に紛れ込ませて俺はゆうゆうと并州へ戻ったのさ。
いちいち千人近くいる兵士を全員調べるほど門番もまめじゃないしな。
下級役人なんかは給料もろくに払われてないだろうし、そりゃ賄賂も横行するさ。
まあ、念の為”通行料”としていくらか金ははらっておいたけどな。
洛陽を出るとなんかやっぱ気が楽になった。
洛陽だと冤罪以外にもいろいろ肉とか警戒しないといけないこともあったしな。
「兄貴、やっぱ都よりも田舎な方が俺たちは落ち着くな」
弟のその言葉に俺はうなずく。
「全くだ、都は空気が悪すぎるぜ」
さて、并州では子どもたちがカラダを鍛えるために馬術・弓術・格闘術などをしていたんだがその中でも体がでかくて馬術・弓術・格闘術の腕が抜群なやつがいた。
「おお、すげえなお前さん、名前は何ていうんだ?」
「おれは呂奉先だ」
「ほういい名前だな、成人したら俺といっしょに戦わないか?」
「お前が俺より強いなら従おう」
「なるほど、それも道理だ、今一度手合わせしてみるか?」
「名高きあなたと手合わせ出来るとは、ぜひとも願いたい!」
呂布が子どもたちの中では図抜けて強いのは事実だが俺に敵うほどではなかった。
馬術・弓術・格闘術の全部でこてんぱんにしたらがっくりしていたよ。
「お、俺は弱いのか?」
「いや、俺が強すぎるだけだとおもうぜ。
で、どうだ?」
「成人したらもう一度挑ませてほしい」
「おう、いいぜ、何なら強くなる方法も教えようか?」
「……教えてくれ」
「よし、皆俺が鍛えてやるからには強くなってもらうぞ。
まあ農作業もちゃんとやってもらうが」
「わかった」
「お前さんの親はどこに住んでるんだ?」
「俺の親はもう居ない、殺されてしまったからな」
「そうか、そいつは悪いことを聞いちまったな。
なら俺の屋敷に来い、子供の一人や二人増えても問題ないしな」
「それは……たすかる」
こうして俺の息子たちといっしょに呂布なんかも鍛えることにした。
後5年もすれば成人するはずだしなかなか期待できそうだぜ。
奥さんたちと子作りにも励まないといけないけどな。
呂布は孤児みたいだったので俺の屋敷で引き取って飯も食わせてやるようにしたよ。
呂布が裏切りを繰り返したのは人間を信じられなかったからなのかもな。




