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第164話 孫娘董白の現状

 初平2年(191年)に成人した俺の孫の董白についてだが、劉協がここ南陽を脱出した時には彼に同行していなかったので、当然、そのまま後宮に残っていた。


 そして劉協が袁紹に殺された現状では劉協の喪に服してる状態だ。


「まあ政争に巻き込まれず、董白が無事なのは良いことだ」


 後漢では幼帝が即位すると外戚が権力を握り、皇帝が成人すると宦官などの協力で外戚が殺されるということを何度も繰り返してきた。


 後漢では章和2年(88年)に章帝が死ぬと、12歳の和帝が立ったが、このときは章帝の皇后の竇氏や竇憲(とうけん)が権力を握ったが、永元4年(92年)竇憲が和帝と宦官の鄭衆(ていしゅう)に誅され自殺し鄭衆が権力を握る。


 永元17年、元興元年(105年)に和帝が死ぬと、和帝の皇后の鄧氏が政治を執って、鄧氏は1歳の殤帝を立てたが、延平元年(106)年に死去し、鄧氏は、13歳の安帝を立てた。


 永寧2年、建光元年(121年)成人後の安帝は外戚の鄧氏に反発するようになり、長く臨朝して政治の実権を握っていた鄧綏が死去すると、鄧騭は大将軍を辞任し、特進待遇となった。安帝は、4月に実父や実母らに皇帝や皇后を追尊する一方で、楽成王の劉萇を罪に問い侯に降格させている。5月には閻氏や宦官李閏らの助力を得て、鄧騭や鄧遵ら、鄧一族を粛清し、また、平原王の劉長を罪に問い侯に降格させた。


 延光4年(125年)に安帝が死ぬと、安帝の皇后の閻氏が少帝を立てたが、200日で病死し、11歳の順帝が閻氏を宦官に討たせて即位した。


 漢安3年、建康元年(144年)に順帝が死ぬと、順帝の皇后の梁氏が、2歳の冲帝を立てたが、病死もしくは外戚の梁冀による毒死も噂され、永憙元年(145年)に質帝が立ったが、やはり梁冀が毒殺した。


 本初元年(146年)に梁氏は15歳の桓帝を立てたが、 延熹2年(159年)梁冀の専横に反発した桓帝は、宦官の単超の助力を得て梁冀の邸宅を包囲して誅殺、一族もほぼ全員に当たる300名以上が粛清され、多くの者も免職となり、そのために朝廷が空になるほどだった


 延熹10年、永康元年(167)に桓帝が死ぬと、桓帝の皇后の竇氏が13歳の霊帝を立てたが、建寧元年(168年劉瑜が竇太后と竇武・陳蕃のそれぞれに釘を刺し、これに促されるように竇武・陳蕃は宦官一掃を計画するが、張奐により敗れ竇氏は殆ど滅ぼされた。


 霊帝が死ぬと、何氏と何苗や何進は宦官に殺されたが、宦官は袁紹袁術らに殺され、後漢は実質的に崩壊した。


 まあそんなふうにこれまでは皇帝が死ぬ前には后同士で権力争いがあり、皇帝が成人するたびに、外戚が宦官に殺されるということが繰り返されていたが、まあそれも霊帝の時代で後漢の権威がほぼ喪失されるとあまり意味はなくなったわけだ。


「喪が明けたら、聖帝へ嫁ぐか、他の者のもとへ行くか、もう結婚はしないか確認するか」


 俺は天子の思想を変えてほしいと思って孫娘を送り込んだわけだが結局は無理だった。


「そう簡単に性格とかは治るものではないか」


 とはいえ後宮で様々な儀礼などについての教育を受け、後宮における人との接し方など品徳礼儀を叩き込まれること自体には意味がないとは思わないけどな。


 そのあたりは男ができる範囲ではないので。

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