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第157話 袁紹は死にその息子たちは青州へ逃げ出したようだな

 袁紹たちが籠城した鄴城を董旻たちが包囲し、その途中で袁紹が廃帝劉協を殺害して数日が過ぎた。


 袁紹の息子で青州を任されていた長男の袁譚は配下の者に青州を攻撃している臧覇や孫堅からの防衛を任せて、自らは一万の兵を率いて冀州へ援軍に駆けつけようとした。


 韓遂がそこでいう。


「袁譚が父である袁紹を救おうと必死になってこちらへ向かっているのであればその兵力が一万といえども侮れぬ。

 ここは正面から戦わないで城の中へわざと入れ、その後にあらためて包囲を再開して一緒に兵糧攻めの対象とするべきではないか」


 張遼がそれに対していった。


「援軍を城の中に入れれば城内の士気も上がろう。

 それにその時に袁紹たちが逃げ出してしまう可能性もある。

 私と呂(布)奉先で迎撃すればそれは防げると思うがいかがか?」


 董旻は二人に対していう。


「袁譚が大きな街道を使い正面から戦うことはおそらく避けるであろう。

 しかし袁譚が正面から袁紹の救援に向かってきているのを冀州の人々が知れば、袁譚が父袁紹を救うために自らの命を顧みずに鄴城を救援しようとすることを支持して食料を供出したりもするかもしれぬ。

 また、西山をまわってきたならば、袁譚を捉え彼の軍勢を殲滅することは容易かろう。

 もし西山をまわってくるのであれば、いざというときには逃げ出そうと地形を頼った移動であり死力をつくすつもりもなかろう。

 まずは袁譚の動向を確かめるべきだ、そして鄴城外に袁紹が逃げ出したならそれを止めずに鄴城を降伏させるべきでもあろう。

 そして早急に市民へ炊き出しなどを行うべきだ。

 無駄に争いを起こし市民を巻き込んだのは、我々が悪いのでなく袁紹が原因であるとなれば冀州の統治もし易くなるであろう」


 そこへ陳宮がいう。


「袁紹は一度は受け入れた廃帝劉協を殺したそうです。

 袁紹は急な病死と公表しましたが、同時に王允たちも殺されておりますので、袁紹が殺したのは間違いないでしょう。

 これに対しても城内市民の憤懣が収まっていないようです。

 袁紹には大義名分もなく己の私欲を満たすために争いを興したのだと宣伝するべきでしょう」


 陳宮の言葉に董旻はうなずく。


「うむ、そうだな」


 そして袁譚は、西山をまわり、滏水にのぞんで設営した。


「では、わざと攻撃を受けて包囲を崩し、袁紹たちを鄴城から追い出そうではないか」


 史実において曹操はこれらを察知して、審配は密かに城を出て、袁尚と合流し曹操軍の包囲を突破しようとしたが、曹操は審配を脱出させず攻撃を受けた城兵は破れて再び城へ逃げ帰った。その後曹操は袁尚の軍営をかこみ、袁尚は降伏を申しこむが曹操はこれをゆるさず、迎撃され印綬などを投げ捨ててにげたという。


 しかし、鄴城はそののち一ヶ月はまだ籠城をつづけ、一ヶ月後にようやく審配の兄の子の審栄が、東門をひらき、審配は捕らえられたが当然その間も市民が多く餓死した。


 それを防ぐため董旻は袁譚が攻撃側の包囲を破ったとわざとみせかけた。董旻達の思惑通り、それに乗じて袁紹や郭図、辛評などはこれ幸いと城から逃げ出し共に青州へ向かったが、呂布や張遼、麴義らの追撃で甚大な被害を出し、そして逃亡中に突如吐血した袁紹はそのまま落馬して死んだのである。


「この私がこのような惨めな状況になるとは……ぐはっ!」


「父上!」


 袁紹の息子の袁譚、と袁尚は表向きは力を合わせて青州まで逃げていったが、後継者争いが始まるのは時間の問題であった。


 更に幽州から追い出された袁煕も劉備達の攻撃を受けて敗北し青州へ逃げていたのである。


 そして逢紀、許攸、審栄、辛毘、陰夔、陳琳、馬延、張顗といった者たちは城に残って降伏し、張邈もその埋伏の毒としての役目を終えて董旻のもとへ戻ったのである。


「憎まれ役を努めていただきありがとうございました」


「いえいえ、これも天下万民のためです」


 これまで張邈は変節漢と思われていたが、もともと董卓の指示で袁紹の元へ潜り込んだということがわかるとその役目を勤め上げたことで称賛されるに至った。


 そして結局の所多数用意された大型攻城兵器はほぼ使われず、兵器も兵士もさほど損失することなく、鄴城は陥落したのである。


 そして城に入った董旻たちは袁紹に殺された劉協や王允、蓋勳を手厚く葬り、市民への粥や羊羹などの炊き出しを行い、糞便にまみれた街路などを清潔にした。


 このようにしたことで鄴城の市民は多くは飢えていたが、餓死するものはまだ少なくすみ冀州の統治は比較的楽になるのである。


 そしてその報告を受けた董卓は令を発した。


「冀州は復興のために今年の租賦はとらない」


 としたのだ。


「戦乱で混乱困窮している冀州の民からすぐに租税を取り立てれば皇甫嵩のように恨まれるだろうからな」


 董卓は皇甫嵩のように皇帝から命令されることはないのでその約束を違えることもないだろう。


 そして鄴城が陥落したことで董卓は相国の地位から退いて、蓋勲の逃亡によりその席が空いていた太保(皇帝の教育係・名誉職)の位についた。


 相国には息子の董超が付き、司隷校尉には董越がついた。


 冀州の陥落と袁紹の死亡、それに先立つ廃帝の弑逆などにより事実上皇帝が直接的な権力を持つ後漢は滅び、董一族が実権を持つ新たな国が興ったのであった。


「厳しすぎず、ゆるすぎない国法や民法、軍規などを定めておかなくてはな」


 董卓の残った仕事は、なるべく長期間、平穏が続き、民が苦しまずに済む、国造りの基礎を文章で明示し、それの実行に必要な機関を設置し、相国などが凡人であっても現実に対処できるような運営が可能な政府を作ることである。

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