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第152話 そろそろ冀州攻略の準備をさせようか

 さて、献帝の誘拐劇の後始末でいろいろやっていたが、季節も秋になり米や粟・稗・黍・大豆などの収穫の季節だ。


 夏のはじめの麦の収穫の季節に庶民の生活を知ってもらうため献帝の行幸を行っていたが、彼らもようやく冀州に到着したようだ。


 そして到着早々に俺のもとにいたときのように袁紹にズケズケと物を言った王允と蓋勳は郭図の讒言により早速投獄されたらしい。


「まあ、当然そうなるだろうな」


 張邈は袁紹や郭図にへりくだった態度をとったため厚遇されているらしい。


「まあ実際は献帝のおもりを押し付けられてるだけのようだが」


 なんだかんだで張邈やこちらへ寝返ることを決めたらしい逢紀・許攸を通じて冀州の袁紹の軍の配置状況等もだいたいわかった。


 現在は各地にある大街道や河や運河を用いて新たに食料を最前線の黎陽などに運ばせている。


 更に冀州では兵を用いて運河をつくり最前線までの糧道を確保してもいる。


 冬になって黄河や運河などに薄く氷が張って船が使えなくなる前に十分な量の食料を運んでおかないとならない。


 袁家の本拠地である鄴を陥落させれば袁紹はほぼ勢力の維持が不可能になるだろうが、鄴の城郭構造や守備隊の配置予想、水攻めを行う際に利用できる河などの情報を攻める前に知り得たのは大きなことだ。


 それがわかるとわからないでは城攻めの難易度が大きく違うからな。


 史実では審配が守る鄴を攻めるのに曹操はかなり苦労し建安9年(204年)の2月に、袁尚が鄴の守備に審配と蘇由を残し、平原の袁譚を攻撃に向かったときに曹操は鄴を攻撃したが、鄴を包囲した曹操が地下道を掘り進んでの攻撃を試みたが、審配は城内で塹壕を掘ってそれに対処し、その最中に審配配下の将である馮礼が裏切り、突門を開いて曹操軍三百人を引き入れたが、審配はそれを察知していたため、敵をおびき寄せてから城郭の上より大きな石を落とし、門を閉ざして侵入者をみな殺しにしている。


 4月には曹操は鄴までの糧道を繋いでいた毛城を攻略し、兵糧攻めに切り替え、翌月の5月には、曹操が土山・地道を破棄して包囲陣を完成させ、周囲四十里にわたって塹壕を掘った。


 これは、わざと飛び越えられるほど浅く掘ったため、審配はそれを妨害しようとしなかったが、曹操は、塹壕を一晩のうちに一気に掘り下げ、幅も深さも二丈にし、漳水を引き入れて城を水浸しにした。


 審配はそれでも防戦したが、兵糧攻めと水攻めにより8月までに城内では過半数の者が餓死している。


 7月には袁尚が平原攻略を諦め、鄴の救援に向かい、狼煙を上げて審配と連絡を取り、審配は城の北門より兵を出し、袁尚と呼応して包囲を破ろうとしたが、突破することができなかった。


 そしてその間に袁尚は曹操軍に包囲されると、降伏を申し出るが曹操はそれを許さず、袁尚は猛攻撃を受けたため、軍が総崩れとなり中山郡に逃走した。


 曹操は袁尚軍の武器や食糧をことごとく手に入れ、袁尚が持っていた印綬なども手にいれ、曹操がこれらを城内の兵たちに見せつけると、鄴の士気はさらに低下し、8月には東門を守っていた審栄が城門を開いて曹操軍を城内に導いたために、審配はついに生け捕られた。


 それでも審配は、少しも弱音を吐く様子を見せなかったため、見る者は皆驚いたという。


 審配は最期に「我が君は北におわすのだ」と言い放ち、主君の袁尚がいる北を向いて斬首された。


 とは言え、官渡の戦いでは田豊・沮授の持久戦策を無視して短期決戦を提案して実行させ、許攸の家族を逮捕してその恨みを買い、その裏切りのきっかけを作っており、審配は各所から恨まれていた。


 さらに袁紹の死後は袁尚を擁立し、袁家が分裂する一端を担っており袁家滅亡の大きな原因となった人物のひとりでもある。


 鄴の守備についた際に郭図や辛兄弟の家族を収監し、後に処刑したりもしている。


 劉備の部下となり定軍山の戦いで活躍した法正などもそうだが性格が良くなくても軍事には強い例もあるのだな。


 もっともその審配はすでに死んでおり、辛評は戦いに関して大した記述はなく、郭図に至っては出ると負け軍師などと言われる始末である。


「それでもまだなにが起こるかわからぬし、油断せずに行くべきではあろう」


 前線への食料などの輸送を南陽で行いつつ、俺は新たに即位した少帝弁の嫡男である新たな天子へ言っていた。


「陛下ならばより良き帝となることが可能と臣は思っております。

 それ故に以降は天子ではなく聖帝と名乗られるよう願います」


「それはなにゆえであろうか?」


「帝は、偉大・崇高・高貴の三要素を兼ね備えている聖なるものでなくてはなりません。

 どうか古の堯・舜・禹のような存在となられませ」


「なるほど、わかった」


「そして月に一度祭礼を行いましょう。

 その時はこのように唱えてください。


 賊冦之中過度我身(無力な者へ危害を加えようとする賊冦、我が身を過し度せよ)

 毒魔之中過度我身(この世に毒を撒き散らす魔、我が身を過し度せよ)

 毒氣之中過度我身(人に害を与える悪意、我が身を過し度せよ)

 毀厄之中過度我身(人を苦しめる災難、我が身を過し度せよ)

 五急六害之中過度我身(森羅万象の天災人災、我が身を過し度せよ)

 五兵六舌之中過度我身(内乱外敵による災禍、我が身を過し度せよ)

 厭魅之中過度我身(人への嫉妬や呪い、我が身を過し度せよ)

 萬病除癒、所欲随心、急急如律令(万病を取り除き癒せ、欲するところは上帝の御心のままにあり、その成就よすぐなされよ)


 と」


「ふむ?」


「そして聖帝陛下が健やかに過ごされれば国も安泰でございましょう」


「国家国民のありとあらゆる悪意や厄災は、まず朕が受け止めようと上帝に祈るのか」


「左様でございます」


「そなたはなかなかにひどいことをいうな」


「そうかも知れませぬ、ですが聖帝とはそういった物であると臣は考えます」


「それが平和な治世に必要とあれば朕がやることに異存はない」


「ありがとうございます」


 まあこれは日本の天皇陛下が明治以前まで行っていた四方拝の儀式なんだけどな。


 ちなみに羊を要素として持つ字に義がありこれは”正しいこと”を意味すると考えられていそうだが本来は”犠”つまり神への生贄を意味している。


 洋の東西を問わず、羊は神への最良の捧げ物であったのだが、殷や周でも神(天帝・上帝)への捧げ物としての生贄に羊はよく使われており、碑という漢字は本来生贄となる野卑な異民族などをつなぎとめておくための石を示していたのである。


 もっとも秦の始皇帝陵の副葬品である陶製の兵馬俑は、それが生贄の生きた人間のかわりであると思われ、生贄という儀式がかえって国力を衰退させる弊害があることに気がついていたから漢の時代にはそういう儀式はほぼ行われなくなっているんだけどな。


 四方拝の儀式は原罪をすべて背負った子羊となっているとされるイエス・キリストを思い起こさせるのだが、古代ユダヤ教においては、年に1度くじを引き、2匹の山羊もしくは羊を選んで、1匹は生贄として神に捧げ、もう1匹は、『アザゼルのヤギ(贖罪の山羊)』として信者全ての罪を背負わせ、荒れ野に放ったというのだが、誰か一人が災厄を背負うことで平和になると言う思想は、どこから来たか何となく分かるな。


 羊も馬ももともと中国にいたわけではなく西からきたのであろうし。

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