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第135話 決戦前の陣中の食事風景

 董旻率いる董卓軍は決戦に備えて食事をとっていた。


「ふう、やっぱり温かい食事は良いもんだな」


「ああ、それに米が食えるのはありがたいぜ」


 この時代はまだ鋼鉄の釜がないため、いわゆる主食は米・麦・粟などを青銅の鼎でたっぷりの湯の中で、米をゆでてある程度の時間煮たら、湯の中から米をすくいだしたり、鍋を火からおろしてお湯を捨てて、蓋をして蒸らして食べるという方法だ。


 そして米・麦・粟の中で一番うまいのは米。


 麦・粟は粉末にしてからパンや麺に加工して食べればそれなりに美味いが、ただ煮た後で蒸らして食べるだけでも旨いのはやはり米だ。


 おかずは大根の酢の物や豚肉のあぶり焼きの味噌付け。


 基本的に戦国時代や江戸時代などの日本と同じで穀物を多量に食べ、おかずとして野菜の漬物や豚や羊・山羊・狗などの安めの家畜の肉や淡水魚の鯉や鮒などを火で炙って食べる。


 無論、将軍や部曲の隊長クラスだと食事内容も変わり、潰れた牛馬の肉と大根とネギの羹つまり煮込みを作る鼎の上に蒸し器をおいて米・麦・粟などを蒸して食べる。


「ふむ、寒い場所ではやはり羹が旨いな」


「水引もうまくて良い」


 水引とは小麦粉に豚の骨でだしをとった汁を混ぜてこねて伸ばし、それを指でちぎって湯の中に入れて煮て食べるもので、現代のすいとんのようなものであるが、これがやがて水餃子や雲呑や中華麺の原型になり、日本に渡ったものは水飩(すいとん)から饂飩(うどん)へ変化していった。


 こういった粉食文化は遊牧民から伝わったもので胡飯と呼ばれその中でも小麦を使ったものは餅と呼ばれ、日本の「餅」はもち米を蒸して臼と杵でついて丸めたものだが、中国の「餅」は、小麦粉をこねて平らな形にし、焼いたり、蒸したり、油で揚げたりしたものだ。


 その生地も無発酵のもの、発酵させたもの、その中間的なものなどさまざまな種類があり、調理法によって煎餅、焼餅、油餅、菜餅などに分けられまる。


 煎餅はクレープのような薄焼きの餅で、この時代でも食され、焼餅はナンのような生地を少しの油を引いて焼いたもの、油餅は薄くした生地を油で揚げたもの、菜餅は野菜を生地に混ぜて、焼いたり、揚げたり、生地に混ぜずに薄い生地で包んで、煮たり焼くものもあるがそのように発達するのは唐代以降で後漢の時代では水引や煎餅くらいではあるが。


 いすれにせよ硬い干し肉や干し飯、漬物のような保存食だけを食べるのではなく、わざわざ薪や鼎のようなものを運んで、苦労して火をおこしてまで加熱調理するのは、加熱によって細菌や寄生虫を殺して安全に食べられるようにするという理由の他に、体を温めるためには温かい食べ物をとったほうが効率が良いというのもあるし、できたての温かい飯を食ったほうが皆やる気が出るというのもある。


 現代の軍隊レーションでも冷たい缶詰ばかりでは多少味が良くても、やる気がでないのと同じなのだ。


「さて、決戦だ!

 我らの勝利は間違いないぞ!」


 その声を聞いた兵士達は一気に官渡城塞に突撃していく。


「おおー!」


「おおー!」


 兵士たちの士気も万全な状態で董旻は中央の部隊に横陣を組ませ、呂布は右翼に、韓遂は左翼にそれぞれ展開して黎陽への進軍を開始したのである。

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