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七、彼女の望む世界

 その問いかけにアーテルは考える。しかし、やっぱり時を戻さないという選択肢は出てこない。


「勿論です」


 アーテルがぬるま湯のような恵まれた空間におり、刺々しい感情に触れてこなかったからといって、それを享受してそこに浸かり続けるわけにはいかない。アーテルの使命だとかはあったとしても知らない。アーテルにとって大切なのはウィリデが生きている世界。ウィリデとロジュと一緒に笑い合える世界。


 アーテルが望むのはそれだけだ。綺麗で美しい世界を欲しているわけではない。醜さの一切ない浄化された空間のような世界なんて、必要がないのだ。

 だから。アーテル・ノクティリアスは時を戻すことに迷いがない。


「お前の考え、しかと受け取った」


 その声がそういうと同時に、アーテルが立っている空間の地面が光り出した。黄金の輝きに、アーテルはまぶしさで目を閉じそうになるのを必死に止める。


「アーテル・ノクティリアスの願いに従い、月のフェリチタは時を戻すことを承認しよう」


 その言葉に、アーテルは弾かれたように顔をあげた。もちろん目に見える範囲に人はいない。しかし、今まで自分が会話していたものは。

 アーテルのフェリチタ、守り神のような存在である月。それがアーテルと会話してくれていたのだろう。

 アーテルの驚きも筒抜けなのだろうが、その存在、月のフェリチタは気にせずに言葉を続ける。


「アーテル・ノクティリアス。ウィリデ・シルバニアには今世の記憶が残る。しかし、お前の存在は彼の記憶からは消え去るだろう」


 告げられた代償は、大きいものではない。自分ではない記憶の一部だけ。それでも、アーテルにとっては残酷だった。

 アーテルは唇をかみしめる。自分のことだけ、ウィリデは覚えていない。その状況に自分は耐えきれるのだろうか。

 耐えるしか、ないのだ。アーテルが選べる道はそれだけ。彼女に選択権なんてものはない。



「わかり、ました。承ります」


 アーテルの心では、嫌だと叫んでいる。そんな、自分のことだけをウィリデが覚えていないなんて、寂しすぎる。むなしい。


 でも、自分を覚えていないとしてもウィリデが生きているのなら。ウィリデが生きている事実だけがアーテルを強くするだろう。


「ははは。そんな顔するな」


 よほど酷い顔をしていたのだろうか。月のフェリチタからの言葉でアーテルは黄金の瞳を瞬かせる。


「別に嫌がらせをしているわけではない。ウィリデ・シルバニアに記憶を思い出させる方法もある」


 弾かれたように、アーテルは表情を明るくした。彼女の瞳は暗闇の中の一筋の光のように煌めく。全てを、諦める必要はないのかもしれない。


「教えてください。ウィリデはどうしたら私のことを思い出すのですか?」


 アーテルからの切願に月のフェリチタがどう思ったかは知らない。それでも、アーテルの頼みを無下にすることはしなかった。


「まあ、いいだろう。それを教えることはルール違反ではないから。ウィリデ・シルバニアがお前のことを思い出すのは、アーテル、お前と再び恋に落ちたときだろう」


 アーテルの頬が桃色に染まる。恋。それはなんて良い響きの言葉なのだろう。アーテルにとって、ウィリデに恋心を持つことは難しいことではなく、むしろ好きになるだろう。問題は、アーテルがウィリデを惚れさせることができるかどうか。


「本当にそうか?」


 急に発した月のフェリチタの言葉にアーテルは首をかしげる。どの部分について質問しているのだろう。


「お前は本当にウィリデ・シルバニアを好きになれるのか?」


 軽く頭をななめに傾けた後、アーテルははっきりと頷いた。何を、言っているのだろうか。アーテルは、ウィリデのためなら何でも捧げられる。時を戻すという暴挙に出たのも、ウィリデのため他ならない。今更。後悔なんてしない。


「一度死を迎えたウィリデ・シルバニアが今までと変わらないままでいられると思うか? 彼は復讐に燃えるかもしれない。正気を失うかもしれない。手段を選ばなくなるかもしれない。その変貌にお前は耐えられるのか?」


 それはアーテルが考えてもみなかったことであった。ウィリデの人格にすら影響を及ぼしているかもしれない。それを、アーテルは受け入れられるのか。アーテルの中のウィリデを、ウィリデ自身に壊されたとして、アーテルはそれでもウィリデを愛せるのだろうか。


「……。分かりません。それでも、私はウィリデを信じます」


 分からない。分かるはずがない。それでもアーテルはウィリデを信じている。彼の根幹は変わらないと。自分の軸がぶれない強い人であったウィリデが変わらないことを、アーテルは信じることしかできない。


「それならあがいて見せろ。お前が望む世界とやらを実現してみせろ」


 月のフェリチタは突き放すようでありながらも、どこかアーテルに期待しているようであった。


「分かりました。一つだけ、いいですか?」

「なんだ?」


 アーテルは一つだけ気がかりなことがあった。それは弟のように思っている、ロジュのことだ。


「ロジュは、何かペナルティを負うのですか?」


 ロジュが滅ぼしかけた世界ではあるが、それがなかったとしてもアーテルは時を戻すことを提案していただろうし、ロジュは断らなかっただろう。たまたま、順番が違っただけだ。だからこそ、巻き込んでしまったロジュが心配になる。ロジュも代償を払うことになってしまうのだろうか。


「ロジュ・ソリストのことは関与していない。我の管轄ではないからな。ロジュ・ソリストは太陽の子だろう?」


 太陽。それはソリス国のフェリチタを表しているのだろう。つまり、ロジュが何を失うかは分からない。


「ただ、ロジュ・ソリストは妙に太陽に愛されているからなあ。太陽はロジュ・ソリストから色々持っていきたいと嬉々としている可能性はある」


 それはアーテルの気持ちを重くさせた。ロジュは苦しまなくてはならないのだろうか。ロジュを苦しめるのが、申し訳ない。


(ごめん。本当にごめん。ロジュ)


「お前が時を戻さなかったら、世界は酷い状態になっていた」


 それは、アーテルを慰める意味であったのだろう。アーテルがあまりにロジュへ申し訳なさそうにしているから。きっと、月のフェリチタからの気遣い。それでも、アーテルの心は晴れなかった。


「ありがとう、ございます」


 アーテルは静かに微笑んだ。ロジュを苦しめることは気が重いが、それでも月のフェリチタが気を遣ってくれているのは分かったから、それは嬉しかった。それを伝えるために、お礼を言う。


 ロジュに合わせる顔がない。アーテルはロジュが世界を滅ぼしかけたおかげで、時を戻す名目を得ることができた。ロジュが太陽を堕とすのがあと一日でも遅ければ、世界を壊した責はアーテルが負うことになっていただろう。

 ロジュ。どうか、彼が苦しみませんように。アーテルは心の中祈りを捧げる。ロジュの分まで、代償を引き受けられたらよかったが、それは無理みたいだ。だから。彼が苦しまないことを祈る。


 ウィリデにも合わせる顔がないなあ。アーテルは自分の愛する人を思い出しながらそう考える。ウィリデのいない世界に耐えきれなくなって、ロジュまで苦痛への道に巻き込んでしまうとは、ウィリデはどう思うだろう。怒るだろうか、悲しむだろうか。

 ウィリデがどう考えたとしても、アーテルはこの選択に後悔をしないし、引きかえさない。


「それでは、また会う日まで。お前が変わらずにいられることを祈っていよう」

「はい。またお目にかかれる日まで」


 アーテルが返事をしたと同時に、あたりは目映い光に覆われた。アーテルは目を開けていられなくなり、瞳を閉じた。


 ふわりと身体が舞う感覚がして、チクタクと音が聞こえる。音が聞こえなくなり、まぶしさも感じなくなった。ゆっくり目を開けたアーテルが見たのは、自室の天井であった。


「ここは……」


 成功したのだろうか。アーテルはゆっくり身体を起こす。


 このとき、アーテルは知らなかった。時間が戻る前、一度目の生の記憶を思い出す人物が複数人いること。そしてその人物たちがそれぞれ多かれ少なかれ行動を変えるため、未来は少しずつ異なるものになることを知る由もなかった。


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