一、ウィリデの秘密
ウィリデ・シルバニア。
二十歳の時に若くしてシルバ国王になった。深緑色の長い髪に若草色の瞳。一目でシルバ国の人間だとわかる外見をしている。
そんな彼には、ある秘密があった。人には告げられない、秘密だ。嘘みたいな本当の話。
ウィリデ・シルバニアは一度、死を経験している。
そして、世界が滅亡したことも、知っているのだ。
そんな出来事を繰り返すわけにはいかない。
あの目も当てられないような惨状を再び見ることなんてしたくない。
ウィリデは未来を変えることを決意した。
ウィリデはベッドの上でゆっくりと寝返りをうつ。眠気は勿論ある。しかし、それ以上に恐怖が体を支配する。眠いけど、眠れない。寝たくない。睡眠自体に恐怖の感情がある。
自分が死んだ日は、今日のように月明かりが眩しい夜だった。ウィリデは思い出したくもない記憶が蘇るのを感じた。
その夜は、月明かりが美しく輝いているだけの平凡な夜だった。ウィリデは深夜まで王としての仕事をした後、眠りにつこうとしていた。
今考えれば、やけに静かな夜だった。
ウィリデはこの時王になってから六年が経ち、二十六歳だった。ソリス国の留学から帰った後、王となってからもソリス国の第一王子であるロジュとは手紙を交わしていた。
寝る直前に、ロジュからの手紙を確認する。それほど多くのことは書かれていないが、ウィリデを案じる内容ばかりであった。
ウィリデは口元を綻ばせた。ロジュは冷たいと称されることもあるが、人を大事にする人間であることをウィリデは知っている。
ロジュへの手紙の返事を書こうと羽ペンを手にしたが。ロジュへの返事は丁寧に、心を込めて書きたい。そう思ったウィリデは次の日に書くことにして、その日は休むことにした。
返事をその日に書いていたら、何か変わっていたのだろうか。ウィリデは今でもそれを考えることがある。
明かりを消した部屋で、ウィリデは深い眠りへとついた。その眠りは相当深かった。
部屋に人が入ってきたことにすら気づかないほどには。
ウィリデは体中の焼けるような痛みで目を覚ました。自分の胸に剣が刺さっている、と気がついた時にはもう何もかも手遅れだった。直感的に、自分が助かることはないと悟った。
剣を不得意なウィリデにとって、暗殺者への対処は不可能だ。それ以前に、すでに刺されている状態だとどうにもできない。痛みは酷くなる一方だ。シーツにはじわじわと赤が広がっていた。
一体、誰が。何の目的で。
城の警備は、どうなっている。ウィリデへの警備は厳重なはずだ。何が、起こっている。自分の眠りがやけに深かったのも、睡眠薬を盛られたのか。
感情を何も感じない目でウィリデを見下ろす暗殺者は、ウィリデが死ぬ瞬間まで監視するつもりなのだろう。
「誰の……差金だ」
ウィリデは意識を保つのもギリギリだ。しかし、それを聞いておきたかった。
ウィリデを殺したいほど憎んでいる人。果たして誰なのだろうか。ウィリデは嫌われない立ち回りが上手かったから、目に見える敵はいなかった。だから、誰が黒幕か思い当たらない。
「それを教えるわけがないだろう」
暗殺者の声は聞いたことがない。中性的なその声の主をウィリデは知らなかった。
「どうせそいつは死ぬのだから、教えても構わない」
新たな人物が入ってきた。その人物の声は聞いたことがあった。その少し高めでありながらも闇を孕んだその声。
「もしかして、テキュー・ソリスト……?」
ウィリデの出した声を耳にしたのであろう。彼がフードをバサリと外した。
橙色の髪と血のように真っ赤な瞳が顕になる。
テキューはにこりと微笑む。その笑みは毒々しい。
「こんばんは。ウィリデ・シルバニア国王陛下。あなたの死に様が見えるなんて喜ばしいです」
ウィリデはテキューのことを見たことはあったし、声も聞いたことがあった。しかし、実際に話したことはなかった。だからこそ、ここまでの明確な悪意に戸惑ってしまう。
「一体、なぜ」
ウィリデの言葉にテキューは仄暗い笑みを浮かべる。その表情には、良い感情など一つも含まれていないのに、無邪気なものだ。
「あなたが、憎いです。ロジュお兄様に純粋な好意を向けられているあなたが、心底憎い」
テキューがロジュのことをここまで好きだということすら、知らなかったのに、自分がここまで憎まれていることを知り得たはずがない。
テキューから有り余る憎悪を受けても、ウィリデの気持ちは何も動かなかった。同情の余地なんて、一切ない。湧き上がるのはただの怒りだった。
「それに」
テキューは遠くを見つめて目を細める。その表情にあるのは、今まで見たことのないものを見ることができる歓喜。
「あなたを殺したとき、ロジュお兄様がどんな顔をするか、見てみたいのです」
彼の表情からは愉しげな色を隠しきれていない。彼を見ているウィリデは、背筋が凍る思いがした。一体、どんな過ごし方をしたらここまでの感情を持つのだろう。それとも、過ごし方に特異的な部分がないのに、ここまでの感情を持ちうるとすれば、そちらの方が異常以外の何物でもないだろう。
「そんなことで、人を殺していいと、思っているのか?」
「思いません。しかし、それがなんだというのです?」
テキューは笑みを浮かべる。それはどこか歪でありながら、彼は自分の行動に何の躊躇もない。
それがウィリデには恐ろしかった。
この、狂った感情を向けられるロジュが心配になった。
ああ。自分が死んだら、ロジュは大丈夫だろうか。ウィリデが最期に案じたのはロジュのことだった。
ウィリデは妹と弟は自分がいなくても大丈夫だと思っている。
妹、リーサには決断力があり、正義感も強い。弟、ヴェールはまだ若いが、知能が特に高い。ヴェールが少なくとも二十歳になるまでは見守りたかったけど、それは叶わない。しかし、ヴェールはしっかりしているため、ウィリデの次に王となるリーサを支えることができるだろう。
ロジュは。きっと、ウィリデの死に強い衝撃を受けるだろう。救う、と言ったら大げさだが、彼の心に寄り添える人物を自分以外にウィリデは知らない。
「ロジュに、恨まれるぞ」
ウィリデはテキューを睨みつける。しかし、その言葉を聞いたテキューから表情が抜け落ちたのを見て、自分の言葉を選び間違えたことを悟った。
「うるさい、うるさい。あなたに何でそんなことを言われないといけないのですか。ロジュお兄様からの好意を当たり前のように享受しているあなたが、大っ嫌いです。そのロジュお兄様を全て理解しているような言葉も気に障ります。もう、黙ってください」
テキューの瞳が燃え上がるように光る。彼の、ロジュへの想いを軽く見てはいけない、とウィリデは分かった。何を言ったら彼の地雷を踏むか定かではない。
「もう、いいです。僕の手で終わらせましょう」
テキューの瞳が鈍く光る。彼の瞳に宿るのは紛うことなき狂気。それをテキューは惜しむことなく露わにする。
テキューはウィリデの部屋に火を放った。それはテキューのフェリチタである、炎。テキューからの祈りによって、炎は尋常でなく燃え上がった。
「さようなら。次に会うとすれば地獄でしょうね」
テキューは言葉を吐き捨てると、窓から外へと出ていった。最初に来た暗殺者も空気のように気配を消したまま、彼の後に続く。
狂っている、とウィリデはテキューに対して思った。テキュー・ソリストを野放しにするのは危険すぎる。しかし、暗殺者に刺され、テキューによって火を放たれたウィリデに、一体何ができるというのか。
もう、ウィリデは自分の命が尽きるのを待つしかなかった。ロジュにもリーサにもヴェールにも手紙を残しておけばよかった。一応、仕事の手順が書かれた書類は仕事場にあるから仕事に関しては困ることはないだろう。ウィリデの几帳面さが功を奏した。
それでも、やっぱり自分の言葉は伝えたかった。伝えたいことは死の間際に浮かんでくることを初めて知った。いかに大切に思っていて、愛しているか、伝えておけばよかった。
もう一人。可能な限りの愛情を注ぎたいと思っていた人物がいた気がするが、それは誰だっただろう。
もし、機会があるのならば。ウィリデはもっと上手くやれるだろうか。自信なんて全くない。それでも、上手くやりたいと思う。
ここで話が終わっていたら、ウィリデはテキューへの復讐に燃えるだけだっただろう。しかし、ウィリデの死は終わりではなかった。むしろ、世界の滅びへの始まりだった。




