憎しみ(リーサ・シルバニア)
鎖国前のシルバ国。ウィリデが23歳、リーサは17歳。
リーサ・シルバニアはロジュ・ソリストを憎んでいた。本人と会う前の話。
ロジュ・ソリストという人物に会う前、私は彼のことが嫌いだった。その憎しみはまるで炎のよう。燃え上がるばかりだった。本人に会うまでは。
「ソリス国の第一王子殿下はフェリチタから大層愛されているようで」
「それに比べてシルバ国の王族は……」
「ええ。ウィリデ陛下やヴェール王弟殿下はソリス国の第一王子殿下には劣るものの、愛されている方ではありますが……」
「『彼の方』は、ね」
「ええ」
話をしている貴族たちは、嘲笑うようにクスクスと笑う。
壁に隠れて、貴族たちの話を聞いていたリーサはグッと拳を握りしめた。リーサの心を言葉はいとも簡単に抉り、痛みを植え付ける。うるさい。うるさい。勝手なことばかり言って。それでも、リーサには言い返す言葉を持ち合わせていないのが、何よりも悔しい。『彼の方』とぼかしてはいるが、誰のことを言っているかは明白だ。
「ロジュ殿下とは大違いですね」
悔しい。羨ましい。狡い。醜悪な感情が心を覆い尽くす。この感情が汚いものだとは自覚しているが、どうしても止めることができなかった。ロジュ殿下が羨ましい。二種類のフェリチタに愛されるなんて狡い。私には、何もないのに。きっと、ロジュ殿下なら、こんなに惨めな思いをしたことはないのだろう。言いたいことも言えずに怒りに震えながらも、何もできないことに絶望したことはないのだろう。
リーサは溢れそうになる涙を必死に堪えた。ここで泣いたら、負けを認めているようで。人が見ていなくても、リーサは泣きたくなかった。
「こんにちは。楽しいお話でもなさっているのですか?」
リーサの視界が歪んだ時、別の声がした。その声は、リーサにとって聞き馴染みのある声だった。
「ウィ、ウィリデ陛下、こんにちは」
「こ、こんにちは、ウィリデ陛下」
話をしていた二人の貴族が慌てたように挨拶をする。その様子は焦りなんて隠しきれていなかったのに、ウィリデは気にせず言葉を紡ぐ。
「それで何のお話をなさっていたのですか?」
彼の笑みはいつも通り完璧だ。しかし、彼の視線の冷たさに気が付かないほどの愚か者でさえなければ、彼の笑みに優しさが少しも含まれていないことは理解できるだろう。
「いえ、大した話はしていませんよ」
「そうですよ。何でもありません」
焦りをどうにか隠し、誤魔化そうとする貴族に、ウィリデはさらに言葉を重ねる。
「そんな、必死に隠さなくてもいいじゃないですか。悪口を言っていたわけではあるまいし」
貴族は言葉を失った。ウィリデからの警告に気がついたからだ。悪口を言っていたことに気がついている、という警告。ウィリデはニコリ、と微笑んだ。
「もし、こんな王城で悪口なんて言っているなら、不敬罪が確定しますからね」
ウィリデの声が少し低められた。
「次は、ない」
ウィリデの厳しい眼差しを見たその貴族達は震えながら、その場を立ち去ろうとした。そのとき、ウィリデは何かを思い出したかのように呼び止める。
「ああ。そうだ。少しだけお持ちください」
その貴族は、恐ろしいものを見るかのように、ウィリデの方を見た。ウィリデは貴族の様子に気にする様子はなく、笑みを消し去ってそちらを見つめる。
「その口でロジュの名を軽率に呼ぶのは止めていただきたい」
貴族達は、頷くことしかできなかった。ウィリデはそれ以上言うこともなく、背を向けると、貴族は我先にというようにウィリデを見える範囲から出て行った。それくらい、ウィリデは恐ろしさを感じる空気を纏っていた。
その貴族がいなくなった後、ウィリデはくるりと振り返った。リーサがいることはお見通しだったのだろう。ウィリデはリーサに向かって困った笑みを浮かべた。
「いつものリーサなら言い返している場なのに、どうしたの?」
そのウィリデの言葉に、リーサは暗い顔のまま黙っていた。なんて、言えばいいのだろう。ロジュ・ソリストという人物が憎い、だなんて、ロジュを可愛がっているウィリデには言えない。
「何でも、ありませんわ」
そう、言うしかないではないか。この聖人のような兄には、汚い部分を見せたくない。ウィリデは、この人には汚い感情を見せてはいけない、と思わせる何かがある。
「ねえ、兄上」
「なに、リーサ」
「ロジュ第一王子殿下は、そんなに……。そんなにフェリチタから愛されているのですか?」
本当は、ウィリデがロジュのことを大切にするのは、なぜなのかと聞きたかった。ロジュは愛されるなにかがあるのか、と聞きたかった。しかし、リーサはロジュへの感情の話題を持ちかけることを躊躇った。ロジュのことを考えているウィリデは、ただの愛情だけではないものが混ざっている。悲しそうであり、切なげである。そこに踏み込めない何かがあると感じていたからこそ、話題をフェリチタの方へと持っていった。
リーサからの問いに、ウィリデは、遠くを見つめた。そこには何もない。おそらく、ウィリデはロジュのことを思い出しているのだろう、とリーサはすぐに悟った。
「そう、だね。そうとも言う」
ウィリデは即答すると思っていた。それなのに、ウィリデはなぜか歯切れが悪く口にする。それが異様に感じた。そんなに断言できない話を振ったつもりはない。
「なんか、歯切れが悪いですね、兄上」
リーサがそれを指摘すると、ウィリデは苦笑いを浮かべた。ウィリデ自身も自覚があったのだろう。
「リーサ、愛されるって、いいことだと思う?」
「……? ええ。勿論」
リーサがそう思うのは、両親のおかげであり、ウィリデのおかげでもある。それぐらい、リーサの家族は純真に愛を注いでくれた。だからこそ、リーサはフェリチタから愛されていないことにもどかしく感じている。
「でも、ロジュにとってはそうではないかもしれない」
ウィリデは独り言のように話す。彼は泣いていないのに、ウィリデの瞳の若草は濡れているように見えた。リーサは、そのウィリデの切なそうな表情から目が離せなかった。
「愛は、時には呪いにもなり得るんだ」
リーサはウィリデの瞳に縫い付けられていた視線を動かし、ウィリデの表情全体を凝視した。それは、本当にフェリチタの話をしているのだろうか。リーサは疑問に思った。ウィリデは、フェリチタに愛される、という話をしていながらも、その対象は別のもののように感じる。まるで。まるでウィリデは自分からの愛が呪いだと言っているように聞こえる。
「愛が、呪いに。ごめんなさい、兄上。全く理解ができません」
リーサが理解できないのは仕方がない話だ。リーサに今まで注がれてきた愛はいつも純白なものであった。執着もなく、重量もない。切実さも必死さもない。ただ慈しむような愛情しか知らない。
「ごめん、リーサ。変な話をしたね。忘れて」
苦しげに微笑むウィリデが不思議で仕方がない。ウィリデは、何を気にしているのか。全く分からない。
やっぱり、ロジュ・ソリストは苦手だ。リーサの大事な兄にこんな顔をさせるなんて。リーサは絶対に引き出せない。
ロジュという人間のことを好きになれる気がしない。会う前に憎しみに近い気持ちが植えついているのに、それが覆ることはあるのだろうか。自分と違う、フェリチタからの寵愛に近い加護を受けるロジュのことを好きになれるだろうか。無理な気がする。嫌悪感で顔が歪みそうになるのを必死に堪えた。
ロジュ・ソリストさえいなければ。あの完璧な存在がなければ、絶対的な指標は存在することはなかった。きっと、他国の王族もそうかもしれない。ソリス国の貴族もそうかもしれない。ロジュという人物は目指すべき目標として称えられ、尊敬を集めるのだろう。
フェリチタから愛される方法なんて、誰も知らないくせに。先天的なものを持っている人間を目指して、何になるというのか。
リーサは自分が本当に憤っていることは何かを気がついていなかった。勝手にフェリチタからの加護を評価基準にすること自体が気に入らなかったはずなのに、その怒りをロジュという人間へと向けていた。
それにリーサが気づくことができるのは、ロジュと出会ってからであった。そのことを今のリーサはまだ知らない。




