五十六、秘密を共有しているだけ
ラファエルは、黒いフードで髪や顔を隠しながら、歩いていた。馬車は使わず、人混みの中をすり抜けるように進んでいく。彼は人にぶつかったが、姿勢は一切乱れていない。彼の身体能力の高さが垣間見える。
「へえ。ウィリデ様、こんな所に屋敷を持っていたんだ」
昨日の夜、ロジュとの会話を終えて自分の屋敷へ戻ったラファエルを待っていたのは、ウィリデからの手紙だった。場所と時間のみが書かれたそれは、ウィリデが他者から情報を抜き取られないようにしたいのだろう。
「ここ、か」
ウィリデが書いていた住所のある場所は、ひっそりと静まりかえった場所であった。こっそり、人と会うことに適していそうだ。
ラファエルは三回ドアを叩く。ガチャリ、と音がしてウィリデが顔を覗かせる。
「ウィリデ様、何かありましたか?」
「昨日の続きだ。ロジュにはきかせられない話」
ウィリデはラファエルを中へと促す。ラファエルはスルリとへと体を滑り込ませた。
「ええ? テキュー第二王子殿下もですか?」
テキューを目にしたラファエルが思わず顔を歪めた。テキューがいることは予想できていたが、いないでほしいとは思っていた。
「バイオレット公爵令息、そんなに嫌そうな顔をしないでください」
「……。その呼び方だと長いので、ラファエルで構いません」
テキューに名前で呼ばれることに抵抗があるが、長い呼び方で時間を無駄にするのは勿体ない。しぶしぶ許可をすることにした。
「分かりました。僕のことも好きに呼んでもらって構いません」
「分かりました。テキュー殿下」
テキューと挨拶を終えたラファエルがウィリデに小声で囁く。
「ウィリデ様、この家以外にも貴方の持ち家ありますよね? テキュー殿下に教えるということは、捨て家ですか?」
ラファエルはこの家がウィリデの切り札だとしたら、テキューに教えるはずがないと思っているため、この家は重要性が低い、と認識した。自分の隠れ家をテキューに教えていないだろう、と一応の確認を込めての質問だ。
「まあ、そんなところだ」
ラファエルと同じくらいの声で答えたウィリデであったが、その後は二人の方を見る。
「時間もあまりないし、始めるぞ」
その言葉を聞いて、待っていた、とばかりに口を開いたのはテキューであった。
「分かりました。ウィリデ陛下、ロジュお兄様が『覚えていない』とおっしゃったことについて、どう思いました?」
「おかしい、と思う。でも、今まで気づいていなかったな……」
そう。ウィリデが気がついていなかった。それが三人とも持った疑問だった。ロジュの異変にウィリデは気がつかないことがあるのか。
「僕もそれは不思議に思いました。でも、ロジュ様がウィリデ様との思い出を忘れるはずがない、とも思います」
「ロジュお兄様がウィリデ陛下と話すのは、基本的にウィリデ陛下と共通の思い出、知識だから、それについてはロジュお兄様が覚えているということですよね?」
「可能性の話ですが」
ウィリデが気づかなかったのではなく、ウィリデだからこそ気がつけなかったのではないか。ラファエルの予想に、テキューは納得した表情をするが、ウィリデは考え込んでいる。
「でも、それだと記憶を選んで捨てたり、保存したりしている、ということか?」
「普通の人にはできなくても、ロジュ様がやっている、といっても驚きはありません」
自分の記憶操作なんて、普通はできないだろう。しかし、ロジュという人間なら。できると言われても不思議でない。ロジュはそう思わせる、規格外のものをいくつも持っている。
「でも、何のためにでしょうか?」
テキューの疑問はもっともだ。仮にロジュがそのようなことをしていると仮定しても、また疑問が生じてしまう。それに、何の意味があるというのか。
「せざるを得ない何かがあるのか? いや、でも記憶を整理する必要性って一体……」
ウィリデは二人に聞かせる意図なく呟いた。ウィリデを見ながら、ラファエルは声をかけるのを躊躇した。ウィリデは自分の思考に入り込んでいる。その様は、どこかロジュと似ていて、それが微笑ましく見えた。本当の兄弟みたいだ。思わず笑みがこぼれそうになるが、ラファエルは奥歯を強く噛んで必死に堪えた。大事な話を最中に笑うのは緊張感を崩してしまう。
「ウィリデ様は、何か記憶をなくしてはいないですか?」
ラファエルがついでのように尋ねるが、ラファエルにとって、今日確認したいのはこのことだった。
ウィリデは、大事なことを忘れているかもしれない。それがラファエルの予想だった。ラファエルは心臓が嫌な音を立てるのに気がつきながらも表情は平常を装う。
「え、私か? なくしてはいないと思うが……。ラファエルは、何か心当たりあるのか?」
「いえ、記憶がなくなっていないという証明なんて、できないと思ったので」
「まあ、それは確かに」
記憶はあることの証明もないことの証明も難しいだろう。自分の頭にしかないのだから。他の人と覚えていることを他の人と話し合って整合性を取るしかない。だから、ウィリデ本人に聞いたところで、ウィリデ自身の記憶は確かめられない。ラファエルは音を立てないように息を吐きながら、肩を落とした。ウィリデの記憶の有無は、今日判断できないだろう。
ラファエルは気を取り直して、話題を戻す。
「ロジュ様が過去のことを曖昧というのは何となく気がついていましたが。テキュー殿下との思い出もお忘れになっているのですね」
ラファエルと出会ったときのことを忘れていたのだ。そのときも違和感はあったが、昔の話、重要でない話と言われればそれまでだ。しかし、そんなにいくつも忘れているとすると、それは異常だ。
「テキュー殿下、そのときに何かロジュ様のトラウマになるようなことしました?」
「えー……。心当たりはないですが……」
テキューを怪しむようにラファエルは見つめる。テキューは必死に首を振るが、ラファエルはテキューへの視線が和らぐことはなかった。
「ちょっと火事を起こしただけですよ」
「ちょっと火事……? まあ、ロジュ様は炎に関する事でトラウマにならなさそうですか」
ロジュのフェリチタには炎もある。だから、ロジュは炎を苦手にはしていないはずだ。テキューではないか、とラファエルはテキューから興味をなくしたように目線を彷徨わせる。疑われたテキューは頬を膨らませるが、ラファエルは全く気に留めなかった。
「それでは、何故でしょう。ウィリデ様、考えは纏まりました?」
ラファエルはウィリデへ問いかける。ウィリデはラファエルとテキューの会話に口を挟まず、ずっと考え込んでいた。ラファエルからの質問に対し、ウィリデは首を振った。
「いや、情報が足りない」
「それでも、貴方なら何らかの仮説は立てているのでしょう」
ラファエルの薄紫色の瞳に真っ直ぐ見つめられ、ウィリデは視線を逸らしながら、ため息をついた。
「一応は。それでも、根拠のない。妄想と思ってもらって構わない」
「教えてください」
ウィリデは深緑の髪をかき上げてから、ラファエルに目線を向けた。
「本当に、可能性の話だからな」
ウィリデが念を押すように繰り返す。ラファエルは、ウィリデが仮説を言うのに躊躇っていることに、首を傾げた。
「何らかの代償か、あるいは私達の行動の波及」
ラファエルは息を呑む。ウィリデは躊躇した理由が分かった。ロジュの記憶障害のような現象の原因が自分たちにあるかもしれない。ラファエルは表情を歪める。彼の顔から血の気が引いていた。
「可能性だ。不確定情報が多すぎる」
ラファエルの顔色を見たウィリデが、再び予防線を張るように確定でないと言うが、ラファエルの表情は明るくならなかった。ウィリデの予想は精度が高い。それ故、ウィリデが口にしたこと自体がラファエルの懸念要素となる。
「でも、これ以上の情報は集まるのか?」
ウィリデは天井を見上げる。人の記憶に干渉できない。だから、取れる方法としてはロジュと会話をして、彼の欠けている記憶を探ることくらい。しかし、ロジュの出来事を全て把握している人間はいるのだろうか。ロジュの父親、コーキノ・ソリストが監視または見張りをつけていた可能性はあるが……。
「それくらいか……」
ウィリデが思いつく情報収集はそれくらいだ。取れる手段がない。ウィリデにしては珍しいことだ、とテキューは話をききながら感じていた。
「僕はちょっとだけ、心当たりがあるので、当たってみますね」
何でもないことのように言うラファエルに、ウィリデは片眉を上げた。
「え、ラファエル。何か心当たりが?」
「確定ではありません。しかし、もしかしたら何か知っているかも、くらいの人がいます」
「それは誰だ?」
「無関係の可能性があるので、今は言いません。いずれ、お伝えします」
ラファエルの言葉に、ウィリデは真意を探るようにラファエルを見つめる。ラファエルはニコニコと笑うだけであった。ウィリデは軽くため息をついた。
「まあ、いい。何か分かったら教えてくれ」
「勿論です」
ラファエルは笑顔で頷く。彼の表情に欺瞞の色を感じなかったため、ウィリデは引き下がることにした。もし、ラファエルに疑うべき何かが含まれていたとしたら、ウィリデは容赦なく追求していただろう。
「そうだ、ウィリデ様に言っておこうと思っていたことを思い出しました」
「なんだ?」
「慣れない芝居をすべきではないですよ」
ラファエルからの言葉に、ウィリデは声を出して笑った。
「そんなに酷かったか?」
「渋いお茶をわざと入れるなんて、正気の芸当とは思いませんが」
ウィリデはニコリ、といたずらっぽく笑った。そしてジッとラファエルを見つめる。その目に溢れるのは自信だ。
「それでも、間違いではなかっただろう?」
ラファエルは黙ったまま頷く。間違いではない、どころの話ではない。ウィリデが、ロジュのトラウマを克服させたのだ。
ラファエルは、別に本当にウィリデの芝居が下手だったと言いたいわけではない。ただ、気がつく人間もいるから気をつけろ、と言いたかっただけ。
しかし、笑みを崩さないウィリデを見ていると、ラファエルに気がつかせること自体、ウィリデの計画の内な気がしてくる。ラファエルは、それ以上その話を続けないことにした。
「本当に、貴方が味方で良かったですよ」
「それは光栄だ」
ラファエルがぽつりと呟くと、ウィリデはさらに笑みを深める。敵だったら、ウィリデに勝つ日は来なかっただろう。ウィリデ・シルバニアという人物に脅威を感じながらも、ウィリデが敵である世界はおそらく来ない。ラファエルは安堵のため息をついた。
そして、ラファエルの心当たり。ラファエルが思い浮かべていた人物とは。
アーテル・ノクティリアス。ノクティス国の第二王女。
ウィリデには、確定でないと言った。しかし、ラファエルはほぼ確実に彼女が何か知っていると踏んでいる。
アーテルを、ウィリデが知らない。そのこと自体がおかしい。
ラファエルは自分のスケジュールを見直す。アーテルと会う可能性がある茶会やパーティーはどれだろうか。
ラファエル自身がアーテルについて知っていることは少ない。実際に会ったのは一度くらい。
「ああ、いい機会があるか」
ラファエルは思いき、ボソリと呟いた。
ロジュの王太子決定を祝うパーティー。そこには来るだろう。
「どうした、ラファエル?」
自分で納得したラファエルに、ウィリデが不思議そうに尋ねる。何でもない、と首を振りながらも、ラファエルはどのように話しかけるか、など考え込んでいた。
彼らの共犯者のような関係は、秘密を共有している以外の、何も持ち得ない。それは協力関係となっているウィリデとラファエルも同じこと。彼らは、自分の最善と考えることを実行するのみだ。彼らには強い仲間意識なんてものはなく、ただ、ひたすらにロジュのためになる方法を個人で探して動くだけだ。協力をするとしたら、それはロジュのために必要だと感じたときのみ。
彼らは、お互いに秘密を抱えながら、最善手を考える。




