二十六、気持ちを楽にするのはいつも
「ロジュ様、おはようございます。今日は時間ギリギリにいらっしゃったのですね」
「おはよう。少し寄るところがあってな」
「そうでしたのね」
本日も朝からリーサが声をかける。リーサが毎朝声をかけ続けた成果か、今では二人が話していることに対して疑問を持つ人はいない。もしかしたらラファエルのように羨ましく思う人はいるかもしれないが。
リーサは今日の朝に届いたウィリデからの返事に書かれていたことを思い出した。
「ロジュ様、兄上から伝言を預かっていたのを思い出しました」
「ウィリデ陛下、から? なんだ?」
ロジュに向かって、リーサはニコリと微笑む。
「兄上は『ロジュが無理に変わろうとする必要はない』と伝えてほしいと……。ロジュ様、どうしましたか?」
リーサがロジュの表情の変化に、思わず問いかける。ロジュは泣き出しそうでありながらも、口元は微笑みを浮かべていた。
「なんでもない。頼む、リーサ。しばらくこちらを見ないでくれ」
「……。分かりました」
リーサにしか聞こえないくらいの小声で言葉を発した後、ロジュは両手で顔を覆い、しばらく俯いていた。ウィリデは人の心が、状況がよめるのだろうか。ロジュの心が楽になるように贈られる言葉はどこまでも甘い。ロジュの心に温かいものが広がる気がした。
ロジュは人から感情で、訴えられ、縋られるような経験はほとんどなかった。ロジュの派閥で、ロジュにつくと決めた人は、大体ロジュの能力を評価している。ロジュは、「優秀さ」さえ失わなければ、見限られることはなかった。それはロジュにとっては容易だった。
ラファエルは、ロジュの能力ではない感情を理由としている。その信頼を裏切らない自信はロジュにはなかった。ラファエルが裏切らないという信頼もできなかった。
ラファエルのことも、自分のことすらも、ロジュは信用できていない。
しかし、ウィリデからのメッセージでロジュは気がついた。別に、それを考える必要なんてどこにもなかったのだ。信じられるかどうか、ラファエルが将来離れていくかどうかなど、考える意味はない。
相手が感情を渡してきたからといって、自分も感情で応える必要なんてない。
ロジュはいつものやり方でやれば良い。ロジュが望むものをラファエルが持っているか。ラファエルはロジュに何を望むのか。ロジュのいつものやり方、それは契約だ。お互い合意を得られれば、問題はない。
「ラファエル、今いいか?」
「はい、勿論です」
全ての授業が終わった後、ロジュはラファエルを呼び止めた。ロジュの真剣な表情から、なんの話かラファエルには伝わっただろう。
「どこで話しますか?」
「そうだな……。ソリス城でいいか?」
「いいですよー」
ロジュの隣で話を聞いていたリーサは、ソリス城までの道のりをラファエルはどんな心境で過ごすのだろう、と疑問に思った。ロジュからの返答はおそらく「側近にする」もしくは「側近にしない」という今後の人生に大きく影響するものだ。もしリーサがラファエルの立場であったら、緊張してソリス城への道中上手く会話ができないだろう。しかし、ラファエルなら、なんとかできる気もする。彼の明るさが空気を重くすることはあまりないのだから。
リーサの予想通り、ラファエルとロジュの会話が沈黙で気まずくなることはなかった。ラファエルは楽しげにロジュに話しをし、ロジュも無視をすることはなくきちんと返事をしていた。ラファエルの表情には緊張が混ざっていたが、それはロジュと二人きりという状況に緊張しているのか、この後聞かされるだろう結果に緊張しているのか、ロジュには判断できなかった。それでも、上手く会話をするラファエルは流石だと思った。ラファエルのコミュニケーション能力をロジュは高く買っている。
城にはあっという間に着いた。昨日は別の馬車でソリス城まで向かったため、ラファエルと同じ馬車に乗ったのは初めてだが、これほどまで大学からソリス城までの距離が短く感じたのは、初めてだった。ラファエルのおかげだ。
ロジュがラファエルを連れて行った場所はロジュの仕事部屋。ドアの反対側の窓際には、窓を背にするようにして大きな机と椅子が一つ。その机よりもドア側には背の低い机が一つ。その周りには一人がけのソファが六個並んでいる。
ラファエルをソファの一つに案内し、その正面に座ったロジュは口を開いた。
「ラファエル、お前は俺に何を求めている?」
ロジュからの質問に、ラファエルは不思議そうに首をかしげた。求めること、それは側近にしてほしい、一点につきる。
「ロジュ様の側近にしてほしい、ということでございます」
ラファエルにとっては、それ以外に望むことはないのだ。尊敬するロジュを助けるために仕事をする。それ以外に、何を望めばいいのだろうか。質問の意図が分からず、ラファエルは戸惑いを隠せない。
「ああ、悪い。言葉が足りなかったな。それ以外に何か望むことはあるか?」
ロジュから重ねられた質問に対し、ラファエルがすぐに口を開くことはできなかった。
「ございません」
「……。ないのか?」
ロジュにとって、見返りが必要ないと言われる方が困るのだ。困った表情でロジュはラファエルを見つめる。
「例えば、高い能力を維持し続けてほしいであったり、爵位を引き継ぐ時に親族から妨害されないように協力してほしいであったり……。何かないか?」
そのロジュの言葉で、ラファエルはロジュを凝視した。その表情には戸惑いが浮かんでいる。
「ロジュ様、それは僕がロジュ様にそれを望むと思って尋ねていらっしゃるのですか? それとも……、今までそれを望まれることがあったのですか?」
「今あげたのは、大体今までに望まれたものだな」
ラファエルは不思議だった。ロジュは多くの人から支持されているはずだ。それなのに、なぜこんなに人から気持ちを向けられることに慣れていないのだろうと思っていた。その一端を垣間見た気がする。
恐らく、ロジュが条件なしで信じられるのは、ウィリデだけ。
それを無意識のうちに指摘しそうになったラファエルはすんでのところで止めた。ラファエルの中で、警鐘が鳴ったのだ。それは、ロジュの逆鱗に触れかねないと。
ウィリデには無条件で信頼を置いているのだから、他の人も信じてみろ、試してみろ、だなんて口にできない。してはいけない。ラファエルはロジュとウィリデの信頼関係の一部しか知らないのだ。それを言ってしまうと、ロジュとウィリデの信頼関係を軽んじているかのように捉えられてしまうかもしれない。
慎重に、慎重にとラファエルは思考を巡らす。
「ロジュ様、僕にとって、ロジュ様の側近にさせてもらうこと自体が、望みなのです。ですから、逆に僕を側近にする際のロジュ様の望みを教えてください」
ラファエルの言葉にロジュはしばし思考を巡らす。出会ったばかりの彼に望むこと。そんなことがあるだろうか。あっても、よいのだろうか。
「俺の側から、離れないでほしい。俺を見限らないでほしい」
ロジュのその言葉はほとんど無意識のうちにこぼれ落ちていた。自分が口にした言葉に気がつき、ロジュはハッと我に返り、表情を固くした。ロジュの言葉は、まるでラファエルを疑うように聞こえてしまったかもしれない。こんなことを考えていたなんて、自分でも気がついていなかった。自分は、こんな存在を欲していたのか。
ロジュがラファエルを傷つけるかもという懸念に対し、ラファエルが気を悪くした様子はなかった。むしろ嬉しそうな表情を浮かべた。ロジュの本音を聞くことができたのだ。それは嘘偽りのないロジュの言葉であり、今まで触れることができなかったものだ。
「ロジュ様、聞いていてください。我がフェリチタ、太陽へ誓います。私、ラファエル・バイオレットはロジュ様を裏切りません」
ラファエルの言葉を聞き、ロジュは息を呑んだ。このラファエル・バイオレットという人間は一体何を考えているのか。
「ラファエル……。自分が何を言っているか分かっているな? 取り消せないぞ?」
ロジュの声には呆れが混じっている。教室のど真ん中で、ロジュ派へつくという宣言と同義の側近にしてほしい、という話も驚いたが、今のこの件もロジュに真剣さを伝えるには十分だった。
フェリチタへ誓う。この言葉の意味は重い。もし破れば、フェリチタからの加護が薄まってしまい、最悪の場合はフェリチタからの加護がなくなってしまう場合もある。フェリチタからの加護が完全に消え去った人間の末路は、様々なものだが、最悪の場合は死。
だからこそ、フェリチタに誓うのは重要な案件の時のみ。通常であれば側近になる、ならないの話で使うものではないだろう。それをロジュが止める間もなく使うものだから、ロジュはもう、どうにもできない。ラファエルは命を懸けたも同然だ。
「分かった。俺も、覚悟を決めるとしよう」
ロジュは決めた。ラファエルを信じられなくても、ラファエルの望む自分でいられなくても、泥船にラファエルも引き摺り込む覚悟。道連れにするという覚悟。
側近はロジュを支持する派閥につくのとはわけが違うのだ。仮にロジュがテキューの派閥に負けた時、地位が危うくなってしまう。命すら、保証はできない。仮にロジュが処刑される結末になったとしたら、ラファエルも道連れだ。
しかし、ラファエルがここまで真剣に望むのなら、もう、ロジュは拒むことができない。
「ありがとうございます」
ラフェエルの表情は、輝きを放ち、嬉しそうな様子を少しも隠そうとしない。彼の頬は緩み、穏やかに微笑む。表情は無邪気そのものだが、大人びた雰囲気もまた含んでいる。
「ロジュ様」
「なんだ?」
「僕の人生を懸けてロジュ様への敬意を表現していくので、心の準備をしておいてください」
そう言ったラファエルは挑戦的に笑う。先ほどまでの穏やかな雰囲気と打って変わって、荒々しさすら感じられる。
ロジュに側近ができたのは初めてだ。これがどう転ぶかは、誰にも分からない。




