二十五、致死量の感情
次の日、ロジュが大学に着くと、嬉しそうな表情でラファエルが走ってきた。
「おはよーございます、ロジュ様」
「おはよう」
キラキラと薄紫の瞳を輝かせているラファエルはまるで犬のようだ。クスリ、とロジュは笑みを浮かべる。その笑みを見たラファエルは、珍しいものを見たように、より一層瞳を輝かせた。
「ロジュ様の笑顔を朝から見られるなんて、今日は今年一番のいい日かもしれません」
「朝から面白い冗談だな」
心底嬉しそうなラファエルだが、ロジュは冗談だと捉えたようだ。ロジュに発言を冗談だと流されてしまったが、それでも落ち込む様子はない。
「そうだ、ロジュ様。昨日のお返事をいただいていません」
「ああ、側近になりたい、という件か」
「そうです、いかがでしょうか?」
ラファエルは緊張した面持ちでロジュを見る。
「バイオレット公爵はなんて言っていたんだ?」
「いろいろ言われましたが、最後は『貴方の好きにしなさい』って言っていました。だから、大丈夫です」
それは大丈夫なのか、とロジュは思い首を傾げる。ロジュの釈然としない様子を見て、ラファエルは頬を膨らませる。
「そんなに疑わないでください。こちらが母からの文書です」
ラファエルがロジュに封筒を手渡す。ロジュが中の紙を取り出すと、ラファエルの好きにさせる、迷惑をかけることがあれば申し訳ない、という内容が書かれていた。
「そうか……」
ロジュはどうするべきか、目を閉じて考え込む。バイオレット公爵が許可をしたのなら、当主の意向に背いているという理由では断れなくなった。
パチリと目を開いたが、藍色の瞳には迷いが残ったままだ。
「ラファエル、場所を移動していいか?」
「勿論です」
ロジュは席から立ち上がった。これ以上迂闊に周囲の人間へ情報を与えるべきではない、と思ったからだ。それに今は授業開始の一時間前だ。まだ余裕はある。
向かう先は、ロジュの研究室。この大学では、一年生の時から、個別に研究室を与えられる。
ロジュはこの研究室を使うこともあるため、奥の方に大きな机が一つあり、そこにはロジュが研究で使う資料や本が山積みになっている。その近くには本棚があり、本で埋め尽くされている。大きな机よりも扉側には、机一つと椅子が六個置かれている。その机には何もおいておらず、汚れは一切見えない。
ラファエルが部屋に入った後、ロジュは椅子に座るように促す。ラファエルが座るのを確認した後、ロジュは部屋の鍵を閉めた。いつもは部屋にいるときは鍵を利用していないが、大事な話をするのだ。閉めておくのが無難だろうとロジュは考えた。鍵を閉めると、ゆっくりとラファエルの向かいの席に座る。
「ラファエル・バイオレット」
ロジュが静かに声を発する。
「お前は、なぜ俺の側近を望む?」
ロジュには分からない。わざわざ中立を破ってまでロジュの側近になりたいと言う理由が検討もつかない。そんなことをしなくとも、バイオレット公爵家は繁栄している。今代の当主、リリアン・バイオレットは宰相だ。これ以上の権力なんて、あっても邪魔なだけだろう。それにラファエルが権力を欲している人間には見えない。ロジュの人を見極める目が曇っているのだろうか。
「ロジュ様を近くでお支えしたいのです」
ラファエルの表情は真剣であり、祈るような表情をしている。その眼差しから、嘘が一つも紛れていないことは明確だ。
「それは、この前言っていた十一年前のパーティーが関係しているのか?」
「きっかけはそうです。しかし、それ以上に王族として務めを果たそうと努力していらっしゃるロジュ様を尊敬しています」
ラファエルからの返答を聞いて、ロジュは少しの間沈黙する。深掘りをすることはなく、次の質問へ移ることにした。きっかけはそれほど重要ではない。
「ラファエル、お前が側近になったら、俺に何をもたらすことができる?」
ラファエルは考えるように何もない机を見つめたが、すぐに顔をあげ、薄紫色の目でロジュをジッと見つめた。そこに宿る色は、慈愛に満ちていた。その瞳にロジュは思わずたじろぐ。
「全部、差し上げます。僕の持ちうるもの全て」
想定外の返事にロジュは目を見張る。ラファエルは柔らかく微笑んだ。
「僕の知能、技術、人脈、地位、そして私の命まで。全て、ロジュ様にお渡しします」
ラファエルはロジュに向かって躊躇うことなく言い切ると、微笑んでみせた。その目には強い覚悟を秘めており、ロジュから視線を外さない。ロジュは頭を押さえた。ここまでの感情をぶつけられることに慣れていない。上手なかわし方を知らない。この気持ちを無碍にするという選択肢を取れない。
「一旦、分かった」
ロジュはなんとか声を絞り出した。
「少し、一人で考えさせてくれ」
ロジュが平常を装いながらも苦しげであるとラファエルにも伝わってしまった。しかし、ラファエルがここにいてもできることは何もない。ラファエルはロジュの意向に従うことにした。
「分かりました。近くにいた方がいいですか? いない方がいいですか?」
ラファエルはどこまでもロジュを気づかう姿勢を崩さない。しかし、今のロジュにとって、それは余計に苦しめるだけだった。
「先に教室へ戻っておいてくれ」
「かしこまりました。失礼します」
ラファエルが閉まっていた鍵を開けて、部屋を出ていく。ロジュはノロノロと立ち上がると、部屋の鍵を閉め直した。鍵を閉めた瞬間足の力が抜け、そのままドアを背もたれにしてズルズルと座り込む。壁に背を預けたまま、ボンヤリとする。自分の心臓がバクバクと早いリズムになっているには疑う余地もない。
この、渡された感情をどう、処理すれば良いのだろう。胸の奥がズシンと重い。人の感情がこんなに力を持っていることをロジュは知らなかった。家族からは大した感情をもらったことはない。ウィリデは綿のようにフワフワした、ロジュを包むような優しいものだった。リーサからは冗談めかしてあり、深刻に捉えなくてもいいよう、配慮されたものだった。
どうしたらいいのだろう。自分は、この期待に応えられるのだろうか。この盲目的なまでの信頼を裏切らないでいられるだろうか。
感情、というものをロジュは信じきれていない。人の感情ほど根拠がなく、不安定なものはないだろう。十秒後には変わっているかもしれない。一週間後には逆の感情に変異しているかもしれない。自分の感情すらも、信じきれていないのに。
もしも、ラファエルを受け入れ、後に気が変わったと離れていくとして、自分は耐えられるのだろうか。
ああ、考えがまとまらない。それでも、ロジュは部屋を出ると、完璧な姿に戻らなくてはならない。表情に悩みを滲ませてはいけない。ロジュは、王族なのだ。王太子でないとしても。
時間は都合を慮ってくれない。気がつくと授業開始の十分前だ。ロジュの気持ちは全く整理しきれていない。それでも、ロジュはいつもの無表情を装着済みだ。表情を取り繕う時間はあった。ロジュは自分の苦しさ、悩みを一切見せずに教室へと入る。
先ほどロジュの異変に気がついていたはずのラファエルがもう大丈夫なのだと安心するほど、ロジュの様子は普段通りだ。




