二十一、罪であり責である
「だから伝わらないのですね」
テキューがボソリと呟いた声がウィリデまで届く。ウィリデはいつかこんな日が来ると思っていた。テキューが気持ちを伝えたくなったのに、ロジュが受け取らない、そんな日が。その中でウィリデは一番恐れていたのは、信じてもらえなかったときのテキューの反応だ。彼は、彼が感じるのは苦痛だろうか、怒りだろうか。ウィリデは躊躇しながらもテキューの方へと目を向けた。
ウィリデはゾッとした。背筋が凍るかと思った。
テキューの感情をなんと表すのか全く分からない。テキューは怒りと憎しみと苦しみと悲しみをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたようの表情をしていた。彼の纏う空気はどこか禍々しい。そして、彼の真っ赤な瞳は暗さを放ち、いつも以上に底がしれない。ウィリデの近くに立つリーサはその恐ろしい目を見て動けなくなっているくらいだ。このままにしておくと、テキューはまた間違いを犯す。
「テキュー・ソリスト」
ウィリデはテキューの名を呼んだ。ウィリデのよく響く声が部屋中に広がる。仄暗さが宿る瞳がウィリデの方を向くが、ウィリデは全く怯まない。
「それは、お前の罪だ。勿論、お前だけのせいではなく、お前の周囲にも問題はあっただろう。だが」
ウィリデは厳しい表情のまま目を細める。
「私は忠告したはずだ。それを信じなかったのはお前の責だ。……しっかり受け入れろ」
テキューは目を大きく見開いた。彼の赤がこぼれ落ちそうなくらいだ。彼の周りの異様な空気が消え去る。そしてウィリデをじっと見つめる。
「あなたは、いつから、この盤面を想定していたのですか?」
ウィリデは口角を軽く上げた。その笑みは妖しくありながら美しいものだった。彼は問いかけに答えることはなかった。それがさらに彼が持つ底知れない実力を際立たせる。ウィリデが、随分前からこうなることを予測していたのではないか、とウィリデを見ているものに思わせたのだ。
ウィリデはテキューの感情を鮮やかにすり替えた。ロジュへの途方もない執着を一瞬でも驚きに逸らせたのは、ウィリデの手腕だ。
ウィリデの近くで見ていたリーサには、兄が今まで見た中で一番ウィリデ自身の持ちうる能力全てを使って、テキューに対峙しているように見えた。ウィリデの声、表情、雰囲気、そして頭脳。
テキューはそんなに警戒すべき人物なのだろうか。リーサには分からない。
テキューの言うようにリーサは兄が未来でも見ているのではないかと思うことがたまにある。未来を見えずにここまで状況を整理しているのだから、相当ウィリデは先見の明を持っているのだろう。
ロジュだけは、会話を眺めながらテキューの豹変ではない、別のことに意識が向いていた。冷酷さを持つテキューへのウィリデの言葉にロジュは意外に思っていた。ロジュが今まで見てきたウィリデは「王として」話をするときは厳しさを備えていることはあったが、私的な場ではあまり見なかった。ロジュには砂糖菓子のように甘くて、綿で包むように柔らかく接していた。
それなのに、テキューに対しての今日の接し方を見ていると、刃物のような冷えびえとした感情をそのまま突きつけていることが多い。どうしてかはロジュの知るところではない。二人の間で何があったか。知りたいような気がするが、知ってはいけない何かがある気がする。ロジュは考えるのをやめた。深入りするな、と自分の勘がつげている。
「それじゃあ、行こうか。ロジュ、リーサ」
一瞬にして柔らかい雰囲気へと戻ったウィリデがにこやかに二人へと声をかける。
ロジュは何か言葉を発するか逡巡する素振りを見せたが、結局口を開かず、黙って頷いた。ロジュにはテキューが言ったことが理解できない。信じられない。だからこそ、これ以上話しても解り合うことはないとロジュは判断した。
ロジュはテキューに背を向けた。テキューの表情を一度も気にすることなく立ち去った。
ウィリデはロジュに続いて退出しようとしたが、テキューを一瞥した。
「ロジュに危害を加えることがあったら、どうなるか……。分かっているよな?」
警戒を隠さないウィリデのその言葉に、テキューがムッとした顔を見せる。
「僕がロジュお兄様を直接的に害するわけがないじゃないですか」
いつもはにこやかなウィリデが完全に表情を消し去った。ここまで彼から表情が消えることは滅多にない。瞳に宿る色はウィリデの感情を顕わにするのに十分だった。怒り、以外の言葉で説明がつきそうにない。
「お前……。自分の表情を一度鏡で見てみろ。……それに、私はお前の異常さ、狂気さを一度たりとも忘れたことはない。それから、ロジュの心を傷つけることも、許さないからな」
それだけ言い捨てたウィリデも部屋を出ていく。彼の温度をなくした表情は、テキューが視界から消えた瞬間に元に戻っていた。
ウィリデの側に見ていたリーサには、何もわからない。兄のウィリデがテキューに対して敵意を隠さない理由も、ロジュとテキューの今までの関係も。自分は何も知らない。リーサはテキューにかける言葉もなく、ウィリデを追って部屋を出ようとした。
「お待ちください、リーサ殿下」
急に声をかけられて、リーサは動きを止めた。ゆっくりとした動きで振り向く。彼女の癖のある髪がフワリと揺れた。リーサは声をかけてきたテキューの表情を窺うが、テキューは目線を下に向けていて、表情はよく分からない。
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
「私に、ですか……? 何でしょう?」
リーサはテキューが自分を呼び止めたことが意外だった。この中で、恐らく一番の部外者であるのに。しかし、警戒を全く出さず、リーサは微笑んで見せた。その一方、テキューはリーサの様子を少しも気にしていない。
「リーサ殿下、あなたはロジュお兄様のことが好き、なのですよね?」
いきなりの質問にリーサは面食らった。自分の恋心なんて、本当は本人以外の人間に軽く口に出したくはない。しかし、テキューにそれを答えることは、必要だと何となく思った。
「……。ええ。言葉にするなら、そうでしょう」
ウィリデやロジュには言っていなかったが、『言葉にするなら好き』が一番正しい表現だろう。リーサはそれが一番しっくりくる表現だと自分で気がついた。
テキューはぼんやりした目でリーサを見つめてきた。
「あなたの『好き』を、ロジュお兄様は信じて下さったのですか?」
「いいえ。信じてもらえませんわ」
ロジュはリーサの気持ちを嘘だろうと考えていた。リーサの言葉を簡単に信じていない。そのことをあっさりと平気な表情で答えるリーサをテキューが凝視する。
「信じてもらえない、というのは辛くないですか?」
テキューは泣き喚きたくなるほど、苦しい。ロジュへ憎悪が向きそうなのが、自分のことながら恐ろしい。
「もどかしい、とは感じますけれど、自分にも至らない点もございますから」
リーサの言う至らない点。リーサには、誰にも言っていない秘密がある。
会ったこともないロジュのことを一方的に嫌っていた。そんな秘密が。
きっと、ウィリデは何となく察していたのだろう。もしかしたら察しのいいロジュも気がついてしまっているかもしれない。だからこそ、このことを誰にも明かすことはなく、墓場まで持っていくつもりだ。ロジュの不利益にはならないように。勿論、テキューにそのことを伝えるつもりはない。リーサにとっての最も恥じるべき秘密であり、過去の自分を呪いたい。
テキューを見ると、不思議そうに首を傾げていたため、とりあえず笑顔で誤魔化した。
「伝わらなくても、構いませんわ。……伝わるまで、言葉を尽くし、行動で示すのみです。人を変えようとしても変えられません。自分が変えられるのは、自分だけですので」
ロジュからの信用を得られないリーサやテキューにできることは、自分の気持ちを隠さず、自分で行動するのみだろう。ロジュが変わらないことに腹を立てたり、悔しがったりしたところで意味はない。
そのように答えるリーサを、少々眩しいすぎるものを見るようにテキューは見つめる。自分とは全然違う。異質なものは自分の体には上手く馴染まない。昔のウィリデの言葉もそうだった。自分の頭が拒絶した。
しかし、テキューも変化なしではいられない。以前のウィリデの言葉はすぐに消していたが、今のリーサの言葉はテキューの中に重りのように残った。ロジュから拒絶されたばかりだったからだろうか。
すぐに何かが変わることはない。しかし、テキューはこの言葉が自分の中に居座っているのを自覚していた。その変化はテキューに良い影響をもたらすか、悪い影響をもたらすか。それはテキュー次第だろう。
「なるほど……。貴重なお話をありがとうございます。リーサ殿下」
「構いませんわ。それでは、失礼いたします」
ニコリと微笑みを浮かべたリーサは若緑色のウェーブのかかった髪を揺らしながら、今度こそ部屋を出て行った。




