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無力さと決意(ウィリデ・シルバニア)

10年前のとある日の話。

ウィリデがソリス国への留学期間中。

 ウィリデ・シルバニアがソリス城にたどり着くと、特に何も言わなくてもロジュのもとへと案内される。


 何かの本を読んでいたロジュが、ウィリデを視界に入れてぱっと表情を明るくした。そんなかわいい弟分に、ウィリデは頬を緩ませる。


「ウィリデ兄さん、今日は遅かったな」

「ああ。ちょっと用事があってね」


 ソリス国へと留学しているウィリデは、定期的にロジュのところに訪れている。今日はいつもより遅かったようだ。ロジュの心配そうな表情に、ウィリデは安心させるように首を振った。


「特に何でもないよ。ただね、剣術の鍛錬をしていて」

「剣術を……? ウィリデ兄さんが? 苦手って言っていなかったか?」


 ロジュは信じられない、と言いたげに目を丸くしている。ウィリデはその反応を見て、思わず苦笑した。ウィリデは剣術が苦手だ。だからロジュの意外そうな反応もわかる。


「うん。苦手だよ。でも、身を守る手段がほしくて」


 しばらくロジュはウィリデをじっと見ていたが、不意に何かを思いついたような表情を浮かべた。


「少なくとも、ソリス国にいる間は俺がウィリデ兄さんを守るよ」

「あはは、ありがとう。ロジュ」


 ロジュの言葉にウィリデは笑みを浮かべる。ロジュは作った笑みではなく、自然と浮かんだ笑みを返してくれた。


 ああ。良かった。ウィリデは安心する。最初は、怯えを孕んだ瞳で、ウィリデを見ていたのに、今ではこんなに全面的な安心感をウィリデに置いている。


 ずっと、続けばいいのに。ウィリデは叶うはずがないことを祈る。


 それでも、そろそろ戻らなくてはいけないだろう。ウィリデの記憶がそう訴える。


 もうすぐだ。自身の父親であるシルバ国王が亡くなってしまうのは、もうすぐ。


 ◆


 自分の優しい父――ジリオン・シルバニアは、生まれた時から病弱であったという。それに対して、母――アメリア・シルバニアは明るくて元気な人物だったのだ。


 だから、誰も予想をしていなかった。父よりも母の方が先に亡くなるなんて。


 ウィリデたちの母親は、ウィリデが十五歳のときに亡くなった。事故だった。彼女は、あらゆるものに興味を見いだせる人であり、ふらふらとどこかに行ってしまいそうな人であった。


 そんな彼女は、誤って崖から転落し、帰らぬ人となった。


 どこかの国で生まれた言葉。好奇心は猫をも殺す。まさにそんな状況だとぼんやり考えた。


 王妃なんだから、そんな軽率な行動をするな、とか。もっと慎重に動け、とか。思うところはあった。それでも、父は母の自由奔放な所を愛していたことを知っていたから、言葉にはしなかった。


 ウィリデ自身も、そんな母が好きだったのは事実だ。軽やかであり、新しいことを見ては目を輝かせる母が好きだった。


 それでも、愛する妻を亡くして憔悴しきった父を見ていられなかった。心の中で、母を少しだけ責めた。


 父は王であった。仕事に私情を持ち込むことはせず、国をしっかりと治めた。


 しかし、以前より子どもに対して接する機会が減ったのは確かだ。特に、ヴェールは母に似すぎていた。父がヴェールを見た後に、こっそり苦しげな表情を浮かべていることにウィリデは気がついていた。


 気がついていながらも、ウィリデにできることはなかった。父の苦しさに、まともに踏み込める気がしない。ウィリデはひたすらリーサとヴェールを可愛がることしかできなかった。


 ◆


 そんな日々が続いていくと思っていた。しかし、父に呼び出されたときに告げられたのは、思わぬ言葉だった。


「ウィリデ、ソリス国に留学してきなさい」


 急に父から言われ、ウィリデは戸惑った。それでも、父は何をさせたいのか、すぐに悟った。


「ソリス国の次期王が誰になりそうか見極めればいいですか? それとも、ソリス国の雰囲気を見てこればいいですか?」


 ロジュ・ソリスト。テキュー・ソリスト。クムザ・ソリスト。ソリス国には3人の子どもがいる中で、まだ王太子は指名されていない。ロジュに赤い瞳ではないことが主な理由であることは、シルバ国にも入っていた情報だった。

 しかし、実際に会ったことはない。人となりを確かめてこい、という趣旨の言葉だと予想し、ウィリデは淡々と問うた。


「本当にお前は優秀だな」


 そんなウィリデを見た父は、苦笑した。その後優しい瞳でウィリデを見つめたのだ。


「でも、そのような政治的な意味合いだけではない。お前は、シルバ国だけに閉じこもっていていい人材じゃないと思う。もっと、他国をみてきなさい。学んできなさい」


 父はウィリデのことを、考えてくれていたのだ。ウィリデは若草色の瞳を見開いた。


「ありがとうございます。父上。それでは、行って参ります」


 そうして、ウィリデはソリス国に留学した。そしてとあるパーティー。ロジュを見た瞬間、今まではなかったはずの記憶を思い出した。


 ウィリデがロジュと親しくなったことも。父の死後、二十でシルバ国王となったことも。

 

 自分は一度死んだという事実も。


 しばらくの間は、自分の感情が整理がつかなかった。理不尽に命を踏みにじったテキューへの怒り。テキューに簡単に負けた自身のふがいなさ。そして弟妹やロジュを絶望をさせたという悔しさ。


 様々な感情がウィリデの中を渦巻いて、呼吸が苦しかった。嵐の中に置き去りにされたような不安定さだった。自身がどうしたら良いのか、全く分からなかった。


 そんな混乱を抱えながら、約束通りロジュのもとへと訪れていたのだが。その美しい藍の瞳を見ると、気持ちが落ち着いた。深紅の髪を見ると、死するときの血や炎の赤を上塗りされる心地だった。


 ウィリデは、間違いなくロジュの存在に救われた。


 ロジュはウィリデの死を嘆き、その苦しみは太陽を堕とすほどだったことを思い出したから。


 喜んではいけないはずだ。それでも、じわじわと湧き上がる嬉しさを誤魔化すことはできなかった。人に大切に思われている。それがとても尊く感じた。


 だからこそ、ウィリデは決意をすることができた。ロジュも世界も、どちらも守るということを。

 そしてそのために、自分が死なないということも決めた。


 だからウィリデは、以前と違う行動をとるようになった。


 生活の時間帯を変えた。以前は朝型だったが、今回は夜に物事をすませることが増えた。


 関わる人も増やした。恨みは買わないように気をつけながら、できるだけ人脈を広げた。


 もちろん、シルバ国にも定期的に帰った。父と会い、仕事の内容や父の体調を確認していった。前回は何も知らなかったところからだから大変だった。その反省を活かして、父の方法を学んでいった。


「ウィリデ」

「なんでしょう」

「……気がついているのか?」

「何にですか?」


 ウィリデは首を傾げる。その仕草は嘘くさくなっていないだろうか。自分で心配になりながらも、できるだけ顔には出さないように努めた。


 父はじっとウィリデを見つめていたが、やがて目を伏せた。


「私はもう長くないだろう」

「……」


 ウィリデは何と言えばいいか分からなかった。前回はこんな会話はなかった。父の心になんの変化があったかは分からない。気まぐれかもしれない。


 ウィリデにそれを伝えた意味は、なんだろか。


 何も答えないウィリデに、父は言葉を迫ることはなかった。ウィリデが言葉を失うことなんて、想定内だったのだろう。


 彼はウィリデを見ないまま、ぽつりと呟いた。


「アメリアに、やっと会える」

「ちち、うえ」


 その表情は。あまりにも晴れやかだった。


 父は深く母のことを愛していた。それは知っている。そして自分たち兄弟のことも愛してくれている。それも気がついている。


 それでも、母への想いが格別だということがありありと伝わってきて。ウィリデはなんと言えばいいか分からなくなった。


「長生き、してください」


 ウィリデが絞り出した言葉に、父は悲しげに笑うだけだった。彼を蝕む病は、もうすぐ側まできている。そして本人も自覚している。


 自分が多くの力は持っていない無力さを突きつけられた気分だった。


 ◆


「ウィリデ?」


 目の前のロジュに声をかけられてはっとする。不安そうにウィリデを見ている藍を見て、今がソリス城に来ていると思い出した。


 緩やかに首を振りながら返事をする。


「なんでもない」


 ウィリデの手はそれほど大きくない。失ってしまうものはもちろんある。それでも失わずにすむものがあるのなら、力を尽くしたい。


 守れるものは、絶対に守る。この目の前の少年も。


「ロジュ」

「なんだ?」

「……なんでもない」


 ロジュも以前のことを思い出すのだろうか。思い出さないのだろうか。


 ロジュが苦しまなければそれでいい。そう思いながらウィリデはロジュの深紅の髪を撫でた。


 きょとんとしたロジュがふわりと笑う。その無邪気な笑みに心がぎゅっと締め付けられる心地がした。無条件にウィリデのことを慕ってくれる存在が、ひどく尊く思えた。


 そんなソリス国での留学期間が終わるまで、あと少し。

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