十一、腹が立つ
『兄上のことを、再び兄と呼ぶことができますわよ』
先ほどのリーサがロジュに囁いた言葉が呪いのように蘇る。ロジュは鬱陶しそうに目を細め、軽く首を振った。案内された客間のソファに寝転ぶ。
「腹が立つな」
彼はリーサに対して怒りを抱いているのではない。あそこで動揺を見せてしまった自分に対してだ。
あのロジュの驚愕は、肯定にしかならない。おかげでロジュは乾いた笑みを浮かべ、負けを認めるしかなくなった。
そもそも、ロジュの本音が見破られてしまった時点で、ロジュの敗北は確定していた。
ロジュはウィリデのことを昔のように兄と呼びたい気持ちがある。
しかし、彼は自分自身がそうすることをもう許さない。恥ずかしい、とかそんな単純な理由ではない。
シルバ国でロジュがウィリデとあっていた時とは状況が違う。
あの当時、ロジュはウィリデの弟妹に会ったことがなかった。ロジュの世界の中で、「ウィリデの弟」は自分だけだったのだ。
しかし、この前ウィリデの「本物の弟」であるヴェールと会ってしまった。今回はウィリデの「本物の妹」であるリーサとも会ってしまった。
血の繋がりもなく、いつ切れるか分からないような儚さを含む関係である自分とは違い、お互いを大切に思っており、血の繋がりをも持つ人達だ。
彼らと会ってしまったロジュは自分とウィリデの関係が、ウィリデと彼の弟妹との関係に勝ることはない、ということをわかっている。
誰かのためではない。他でもない自分のために「明確な線引き」をしなくてはならない。
ロジュ自身がこれ以上傷つかないために。自分が、いつまでも無条件にウィリデに可愛がってもらえると、勘違いしないように。
ロジュはウィリデを「兄」と呼ばないように自分に課した。
少し胸の奥底に空洞ができたような空虚さを感じるが、それはどうしようもないことだ。
そして、リーサに。まるで思惑が全て知っているかのような口調で言われたのだ。兄と呼びたいのだろう、と。動揺しないはずがない。
リーサは、ロジュがウィリデを昔のように呼ばない理由までは分かっていないはずだ。勘付かれるようなことはしていないはず。
冷静になって考えると、リーサが悟っているのは、ロジュがウィリデを兄と呼びたいという気持ちくらいだろう。
「無様だな」
ロジュは嘲笑を浮かべる。その対象は勿論自分だ。いつも死んだように動かない表情は、こんな時に限って生き返ったようだ。動揺を鮮明にだしてしまった。
シルバ国という場所がそうさせているのか。あるいはウィリデの前だからか。
「はあ」
脳にモヤがかかったように頭が重くなってきた。それに追従するかのように体も重くなってくる。
せっかく用意してもらったのだから、ベッドに入らないと。
そう考えたが、ロジュの体は動かない。そこでやっと自分が疲れていることを自覚したロジュは、睡魔に抗うのを諦めた。
眠りの中に急速に落ちていく。
トントン、と肩を叩かれて、ボンヤリと意識が浮上していくのを感じた。うっすらと目を開ける。はっきりとしていない視界に映ったのは見慣れた若草色だった。
「ウィリデ兄さん……?」
寝ぼけているロジュは、いつもつけている「陛下」という敬称を忘れていることにも気がついていない。兄と呼ばないと決意したのに、その決意を破ってしまっていることにも、気がついていない。
「ロジュ、こんなところで寝ていると、風邪を引いてしまうよ」
ソファで寝てしまっていたロジュにソファの横から覗き込むようにしてウィリデは声をかけるが、ロジュはぼんやりとウィリデを見つめたままだ。
「ロジュ?」
返事がないロジュを心配して、ウィリデは再度声をかける。
「ウィリデ兄さん、ウィリデ兄さんは俺にソリス国王になってほしい?」
ロジュの顔を覗き込んでいたウィリデが動きを止める。
「そう、だな。私はロジュにソリス国王となってほしい」
絞り出すように出したウィリデの言葉を聞いて、ロジュは笑った。その表情はひどく弱々しい。
「そうか。そうだよな」
囁くようなその声は、目の前にいるウィリデがかろうじて聞き取れるくらいだった。
「ロジュは……。ロジュはどうしたいんだ?」
少し緊張した面持ちで尋ねるウィリデとは違い、ロジュの表情は先ほど同様にぼんやりとしたままだ。
「そうだな……。王になりたい、気持ちはある。それでも、俺は相応しくはないと思う。そう思うのとは裏腹に、俺の意見が通る段階を過ぎているのも事実だ」
そういったロジュの表情は、迷いも諦めも混ざっているようにウィリデには見えた。ロジュが自分は相応しくない、と思っていたとしても、ロジュに拒否はできないだろう。
ロジュを王に望む派閥はすでにできてしまい、ロジュの一存で決めることはできないし、派閥の人間がロジュの辞退を容易く受け入れるとは思えない。
寝ぼけているロジュが、今までの中で一番自然体のような気がする。
「もう、疲れた。ソリス国で曖昧な立場の存在でいることが。憐れまれることも一人でいることももう疲れた。はやく、何でもいいから楽になりたい」
眠気のせいで自分の思考に鍵をかけ忘れているかのようにロジュは話す。きっと、これが紛うことなき彼の本音だ。
「……」
ウィリデはロジュにかける言葉を必死に探す。しかし、上手く見つけることができず、口を開くことはなかった。
「ウィリデ兄さん」
静かな声が部屋の中に低く沈み込む。ロジュはゆっくりと右手を動かしてウィリデの左手首を掴んだ。
「俺が王になったら、置いていかない? 見放したりしない?」
虚を突かれたウィリデが動きを止めた。ロジュの藍色の瞳が月の光を反射して夜空のように輝いている。
ウィリデは、ロジュが十年前の別れ、そして十年間の空白期間にここまでの傷を負っていることに気がついていなかった。
特に、五年前からシルバ国は鎖国を行っており、ウィリデはロジュとも連絡を取っていなかった。それも、ロジュの中で大きな爪痕を残してしまったのだろう。
そして、ロジュの言葉から、ロジュの環境が十年間改善されなかったことを悟ったウィリデは胸の痛みが抑えられなかった。
「なんで……」
ウィリデの顔を見ていたロジュから言葉がこぼれ落ちた。
「なんで、ウィリデ兄さんが泣いているの?」
ロジュに言われて、ウィリデは自分の顔が濡れていることに気がついた。彼の若草色は、水で濡れている。
「だって、ロジュが、苦しそうだから」
そう言葉にしたウィリデに、ロジュは仕方がないな、というように微笑んだ。
ウィリデの手首を握っていた手をロジュはそっとウィリデの濡れた目元に動かす。ウィリデはその手を振り払わず、されるがままになっていた。ロジュはそっとウィリデの涙へと触れた。
「ロジュ」
「なに?」
「シルバ国に来るか?」
この瞬間だけは、ウィリデはただのウィリデだった。シルバ国の王ではなかった。ウィリデ自身の本心だった。
ロジュはふわり、と笑った。
「そうできたら、良かったな」
それができないことを二人は知っている。できるとすれば、王位継承争いに負けた時のみ。
「何が正解か分からないけれど、最善は尽くすよ」
「……」
ロジュの言葉にウィリデは返答が思い浮かばなかった。
「ウィリデ兄さん」
「なんだ?」
「世界で一番信頼しているよ。あの時ウィリデ兄さんに会った時からずっと」
ロジュは枷が外れたかのように本心を漏らす。ウィリデにはそれがロジュの本心だということが伝わった。
「ありがとう」
ウィリデは柔らかく微笑んだ。喜びの感情が自分の中に浮かんだことは事実だ。それでもきちんと救いきれなかった後悔も彼の心を巣食う。喜びの感情をも侵食するほど。
しかし、彼は自分の感情を隠すことが上手かったためロジュに気づかれることはなかった。
ウィリデの笑みを見たロジュは満足そうに微笑むと、再び眠りについた。
ベッドに移動することなく寝てしまったロジュを見たウィリデは、もう一度起こすことはせず、ベッドから運んできた毛布をロジュに掛けた。そして音を立てないようにしながら、部屋から去った。
ウィリデは悔いていた。ウィリデがロジュに中途半端に手を差し伸べたことが、ロジュを苦しめる結果となっていた。ウィリデは強く拳を握りしめながら、自室へと戻っていく。




