四十二、雨
リーサが息を呑んだ。どうにか口を動かして、言葉を発しようとしているが、上手く声がでてない。それでも、ロジュは黙ってリーサの返事を待っていた。ロジュがリーサを藍色の瞳で見つめていると、少しだけリーサの表情が柔らかくなった。頬を染めながら、リーサは静かに口を開く。
「ロジュ様、私、一度手に入れたものは手放せるかわかりません。ですから、後悔しないでくださいね」
「別に、俺だってそんなに軽い気持ちで言っていない」
ロジュの言葉をきいて、リーサはこぼれ落ちるような笑みを浮かべた。そんなリーサを見て、ロジュも笑みを浮かべた。自分の胸によぎる不安からは目を逸らしながら。
そんなロジュをじっと見つめるラファエルには気がつかないまま、ロジュはエドワードに向き直った。
「エドワード、ありがとう。大事なことに気がつかせてくれて」
「えっと、ロジュ様。俺はそんなに深く考えていない発言だったのですが……。困らせたなら申し訳ありません」
エドワードは、「自分と友人になっても利点はない」という発言は、意識してだした言葉ではなかったはずだ。貴族としての常識であるし、王族であるロジュは親しい相手を計算するだろうという無意識な決めつけもあるに違いない。だからこそ、ロジュがここまで取り乱したことに動揺をかくせないのだろう。エドワードの動揺をみて、ロジュは困ったように微笑んだ。
「謝る必要はない。本当に、感謝しているんだ。それで、エドワード。お前は俺の友人になってくれるのか?」
「はい、よろしくお願いします」
ロジュはエドワードに向かって手を差し出した。エドワードは恐る恐るといった様子でロジュに手を伸ばす。
「じゃあ授業終わったら、ちょっとシルバ国に行ってくる」
近所に出かけるかのように言うロジュに、ラファエルが慌てた声を上げる。
「急に行くのはちょっと……。いや、ウィリデ様なら嫌がらないし、むしろ喜ぶとは思いますが……」
「そうですよ。兄上は歓迎するとおもいますわ」
ラファエルは歯切れが悪く話すが、リーサが微笑みながら言葉を被せる。しかし、ラファエルは、なおも難しい表情だ。
「いえ、違います。問題なのはシルバ国側ではなく、ソリス国側の方です。僕がまだ側近になっていないとき、ロジュ様は急にシルバ国へ行ったそうですね」
「ああ。なんで知っているんだ?」
ロジュが、急にシルバ国に行こうと思い立って訪問したときの話だろう。リーサのフェリチタが炎であると分かった時。ロジュは、ラファエルの言いたい時期が思い浮かびながらも、ラファエルの言いたい内容は分からず、首を傾げる。
「僕がなんで知っているかというと、それはソリス城で結構騒ぎになったからですよ。母上が、困っていましたから」
宰相であるラファエルの母、リリアン・バイオレットが困るのは珍しい。それでも、ロジュはなんで騒ぎとなったのか理解できていない。
「でも、父上は俺に監視をつけていただろう? それが分かっていたから、あまり気にしていなかったんだが」
自分がどこにいるか把握されていることをロジュは気がついていた。流石にシルバ国内部までは監視が入ってきていないようだったからこそ、連絡を不要だと思っていた。
「ソリス城では、ロジュ様が家出したのではないか、とみんな怯えていたようですよ」
「ええ……?」
ラファエルの言葉に、ロジュが意味が分からないという表情を浮かべた。そんな家出まで疑われるなんて思ってみなかった。
「まあ、ソリス城の都合は置いといても、本日は止めておいたほうがいいと思いますよ」
「何でだ?」
急なエドワードからの制止に、ロジュはエドワードの方を見た。エドワードは窓から外を見ながら、微笑んだ。
「この後、雨が降りそうです」
全員が一斉に外を見上げる。雨の気配は全くない。それでも、エドワードは自信を持った表情でニコリと微笑んだ。
そして、エドワードの予測は当たっていた。二時間後に、雨が降り出した。
家に帰った後、外を濡らしている雨をラファエルは自室からぼんやりと眺めていた。
今日はロジュがウィリデの気持ちが分かったと言った。リーサへの自分の気持ちを信じると言っていた。喜ばしいことだ。そのはずなのに。
どうしてロジュは何かに怯えているように見えたんだろう。
ロジュがリーサに付き合おうと言ったとき、ロジュの笑みは美しいものであったが、何か違和感があった。怯え? 恐怖?
それでもロジュは、人間の移ろいやすい感情には、折り合いをつけたはずだ。それでは、今は何に怯えているというのだろう。
エドワードと握手するロジュを見たとき、ラファエルは自分の中で過った考えは、間違いだったかもと考えるほど違和感はなくなっていた。杞憂なら、いい。それでも。
「ロジュ様を困らせる原因は全部排除したいのになー」
ラファエルの呟きは雨の音にかき消された。
同時刻。ザアザアとうるさい音を立てながら降っている雨をロジュは自分の部屋の窓を開けて外見ていた。外に向かって手を伸ばす。ベランダの手すりに水滴がつく。その水滴に映るロジュの表情は、優しげに空を見上げている。
突如、ロジュは頭に右手を当てた。彼は、窓の横の壁に左手をつく。苦しげに顔を歪めながらも、ロジュの口元だけで笑みを作る。それは、まるで自分に失望したかのような笑みだった。
「好きなのは事実だけど、恋ではないんだな」
ロジュの声が闇に沈んでいった。




