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何処の誰でこうゆう人です、という話

 観光客がよく行くところは香港島だと言われている。事実、しゃれた飯店(ホテル)やブティックがそこに集中している。日本人が知っているビクトリアピークもここにある。

 ただ、香港島にある光景は、地元の人から言わせると香港らしさが無いらしい。ではどこにあるのかと言うと新界や九龍あたりで、特に新界は、昔ながらの香港の面影が残っている場所として知られていた。












「お安くしとくようー」

 カラフルな広東語の店の看板が屋根のように続く下町の通り。茶餐廳(チャーチャンティ。香港では定番の喫茶店)の隣で、一人の少年が靴磨きの商売をしていた。

 


「お安くしときますよー、靴、磨きませんかー」


 少年がいるところは英国統治時代の建造物が残っている一角で、多湿の香港の気候で変色したコンクリの外壁に、黒い穴みたいな窓が並んでいる。錆で腐食した鉄の柵がその窓を覆う。


 道路の半分近くを露店が占め、建物の一階にも様々な店が並ぶ。そこをたくさんの人々が行きかう。少年は頬杖をつき、目の前の光景を眠そうに眺めつつ、ごそごそと上着をまさぐった。何を探しているのかと思ったら煙草だった。

 次に少年はライターライターとつぶやきつつ、また上着をまさぐり、中々出てこないのか脱いで逆さに振った。するとライターと一緒に何か光る小さなものが地面に落ちた。

 コロコロ転がるそれを、突っ走る自転車や通行人を器用にかわしながら少年は拾って元の場所に戻り、仕事道具の前に座り込んだ。

 やがて吸い殻がうず高くなったころ、少年の鼻腔に油と香辛料の臭いが漂いだしてきた。となりの茶餐廳からである。

 いまだに客は来ない。そもそもこんな場所で、革靴を磨こうなんて人はそういない。

 場所変えるか、少年は独り言をつぶやき、道具をしまいかけた。その時だった。


「やってもらおうか」


 低い、響きのいい声とともに靴の磨き台に、足が乗せられた。いらっしゃいと客を見上げた少年の顔がほころんだ。


「なんだ、あんたか」


 その客の靴は、どう見てもお安くないものだった。少年はいつもひそかに、スポーツカーの様な靴だと思っていた。どっしりして、なのに多分履いたら羽根より軽いのだろう。履いた人が二度と脱ぎたくないと思うくらいに。


 待った甲斐があったと少年は思った。新聞を手にしているその客は、少年にとって上得意であった。


「なあ、おいらが磨いたら逆に汚れねえ?」布をあてがい、汚れてもない靴を磨きながら少年は言った。「どうせ、お屋敷にもっと上手い奴がいるんだろ?」


「いや、こればかりは君が一番だ」


 と言う声は穏やかだった。少年は磨きながらこっそり客の顔を見た。昔の香港映画に出てくるような、男前がそこにいた。


 でもジャッキーチェンとかじゃない。そんな骨太というか正義の味方面ではない。どちらかと言うと、マフィアの親分面である。

 少年がそう考える理由は、彼のお得意様に沢山その筋の連中がいて、この客の醸し出す雰囲気が似ているからなのだが、そうとは言いきれない感じもあった。


 ただ、普通の人間ではないのは確かだ。身に付けているものだけではなく、何かが。


 少年は客の後ろで待っている車に目をやった。少年は車にはくわしくないが、ベンツに違いないと決めていた。事実そうだった。


 少年は思った。ベンツがこれほど似合う人物もそうはいない。


「で、今日はなんでこんな場所にわざわざ靴磨きに来たの?」

 そう少年が尋ねると、客の男は新聞を広げながら言った。ちょっと遠出するんでね、と。

「それってもしかして危ないところ?」

 少年の言葉を聞いた客の男は、新聞から目を離して少年を見た。

「なぜそう思うんだね?」

 少年は靴を磨きながら肩をそびやかし、流れる汗をぬぐった。

「なんとなくそう思っただけさ。こんなところで長く商売やってるとさ、いろんな人が磨きに来るからね」

 少年の答えに、客の男はしばし新聞から目を離して何か考える風だったが、やがて苦笑いを浮かべて言った。なるほどな、と。


 やがて客が新聞を折りたたみ始めた。少年は靴のつやを出し、最後の仕上げをした。


「はい、終わったよ」

「ご苦労さん」

 磨き台の隣に置いてある帽子の中に、少し多めの札が入れられた。毎度あり、と少年は礼を言い、また上着をまさぐり始めた。やがて彼はそこから、何かを取り出した。それは一枚の金貨だった。

「幸運のお守り」

 あんたにやるよ、と少年は言った。

 金貨は形と模様からしてスペイン金貨のようだった。力強い女性の横顔が彫られている。少年の客は金貨を軽く上に放り投げ、パシッと受け止めた。

「君の幸運を守る金貨でもあるだろうに」その声には笑みが含まれていた。「私が貰っていいのかな?」

「おいらにとっては、旦那が生きて帰ってくることが幸運さ。だってお得意様にいなくなられたら困るもん」

「そうか。なら頂いておこう」


 金貨が日の光を反射して輝き、高そうなスーツのポケットの奥にしまい込まれた。

















 リー家は元々、大陸側(中国)で先祖代々地主を営んできた。詳しい場所までは伝えられていないが、かなり北の地方だと言われている。その規模は大きく、家柄も清朝の初めまでさかのぼれるほど、由緒正しいものであったらしい。

 そんなリー家が香港にやって来たのは、まだこの地が漁村だったころのこと。


 当時の香港は今の様なビル群などもちろんなかったし、当然これと言って他に産業もなかった。だから何故リー家がここに来たのかは未だに謎である。聞くところによると、何代目かの当主が突如土地をすべて売り払い、香港行きを決めたのだと言う。


 一体何を考えている、先祖伝来の土地を売り払うとは、と散々言われたらしいが、彼らが移住したあと、内陸では政変や革命が立て続けに起きた。ことに文革は地主階級に壊滅的な打撃を与えたと言うから、あのまま大陸に残っていたら、今頃コウアンはおろか、リー家すら存在しなかったに違いない。


 移住を決めた当主に先見の明があったのか。それともただの気まぐれなのかは定かでないが、とにもかくにも香港に来たことで彼らは命をつなぐことが出来た。彼らは多分ここでしか出来ない商売を見つけ、この地に根を下ろすと、名士として徐々に名をはせ、力を蓄えて財を築き上げた。


 ――そして、今に至る。





 香港の湿気が霧となって屋敷の外に立ち込める早朝。複雑な木目の床を歩く靴音を聞きつけると、リー家の使用人は仕事の手を休め、敬礼の辞儀をする。さては屋敷の主人かと言うとそうではない。


 彼らの主人は鷹揚な人物で、お辞儀の仕方を間違っていようが気にしないし、そもそもお辞儀をしていなくてもあまり気に留めない(と言うか気づいてない)。


 やって来たのは、リー家を取り仕切る執事だった。

 執事は使用人たちのあいさつに返事をしながら、掃除が行き届いているか、調度品や家具に曇りはないか、カーテンは曲がっていないか、使用人の服装に乱れはないか、などを点検していった。コウアンの屋敷は使っていない部屋が多く、いや、そもそも使っていない屋敷があるのだが、執事の点検はすべてに及んだ。

 執事は見回りを終えると、上屋敷の客間にベッドシーツが二ミリ歪んでいるものがあること、新しく入ったメイドの一人が、お辞儀のさい、腰の角度をおよそ五度ほど間違っている、などの内容を女中頭に伝えた。

「旦那様が起きてくるまでに、直して報告するように」

「承知しました」

 執事は燕のように踵を返してコウアンの寝室がある屋敷に向かった。リー家の屋敷は三つあって、下屋敷、中屋敷、上屋敷と分かれている。香港の上り坂に沿ってそれらは建てられており、コウアンが使っているのは、正門に一番近い下屋敷だった。


 ちなみに近隣住民が屋敷だと思ってるのは門であり、門番一家の住居である。


 執事は廊下に添え付けられている、琥珀色をした柱時計を見た。彼の主人は夕べ遅くまで仕事をしていたから、いつもより起きてくる時間は遅くなるはずである。

 けれども時間に余裕があるわけではなかった。コウアンの一日の予定から、今日一日の献立すべてを早急に決めねばならない。なぜなら彼の主人はいたって気まぐれで、ちょっとでも目を離すと勝手に外で食事をしてきたりする。健康によろしくない上に毒殺の危険性があると再三注意しているにも関わらず、である。

 執事がコウアンの住む下屋敷の台所に入ると、すでにコックと栄養士が控えていて、料理のサンプルを用意していた。執事はそれらを入念の味見して確かめると頷いた。

「よろしい。旦那様にお出しするように」

 後はコウアンの着るスーツを……今日は仕事とはいえ妙齢のご婦人に会うから、相手の気持ちを暗くするような色目の服は避けねばならない。土産に持って行く花束や宝石の類も選ばねばならない……。

 執事がそんなことを考えていた、その時だった。

 コウアンが部屋にいない、との報告が執事の元にもたらされた。




「説明しろ、どう言うことだ」

「はい、あの」部屋付きのメイドは真っ青になって震えていた。「凄いいびきが聞こえてきたので、もしや何かお体の具合でも悪いのかと思いまして」

 無礼を承知で入ったメイドは、コウアンのベッドにかけよった。

 コウアンは頭までシーツをかぶっていた。旦那様、とメイドが話しかけ、恐る恐るシーツをめくった。すると、そこにいたのは……。

「いたのは?」

「犬……でした」

 コウアンの愛犬は意外にも雑種の犬でメス。しかもやたらとデカかった。それはセントバーナードの様な、大型犬の血を引いているから、ではない。

 執事はまだこの時は落ち着いていた。

「ならば、中庭をさがせ。散歩に出ておられるのかも知れない」

 申し訳ございません、とメイドは中庭に飛んで行った。ほかの者も屋敷中くまなく探し回った。か、彼らの主人はどこにもいなかった。執事は門番を呼び出した。

「旦那様は出てはおられません。間違いねえですだ」

 門番はプライドを傷つけられたように言った。

「出入りする人間はすべて覚えておりますぜ。おらの記憶に間違いねえですだ」

「で、では」執事から落ち着きが消えつつあった。いやもうかなり慌てていた。「どこにいらっしゃると言うのだ」

 ジョギングに出るならボディガードが必ず伴走する。ただそのボディガードが三日前ほどから不在だった。ハワイで休暇を取っているからた。

 するとほかの使用人が言った。車庫ではないか?と。

 コウアンは日本車をコレクションするのが趣味で、時々自分で磨きに行く時がある。

「それはもう確かめた」

 執事は熊のようにうろつき回った。

 そこに部屋係が戻って来た。居合わせた者たちの期待の視線が集まる中、メイドは泣き叫んだ。


「お庭にいらっしゃいません!」


 それを聞いた執事の顔から、急速に血の気が失せていった。






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