第三十三話 無力の結末
レンに優しく揺らされ目を覚ますと、事故に遭うこともなく、電車は僕の知らない地名の駅に停まっていた。
桜宮。「さくらみや」なのか、「おうみや」なのかはわからなかったが、とにかく見覚えのない地名だ。
あるいは忘れているだけなのかもしれないけれど。
小さな駅は無人で、古びたコンクリートの壁は何かの染みや落書きで汚れていた。
「駅の外に迎えが来ていますから」
レンは僕の手を引いて歩いた。もしかすると心配されているのかもしれない。その気遣いが、どうしたのものか、心地よくてついつい甘えてしまいたくなる。
前を歩く少女の髪が揺れる度、仄かな甘い香りが鼻をくすぐる。
蟲床を判別する際に重要だと言った匂いだっただろうか。それとも彼女自身の匂いなのか。いずれにせよ心安らぐもので、誘われるように僕は足を動かしていた。
小さな駅を抜けると、その周囲は草木が生い茂り、手入れがロクにされていない様子の風景が広がっている。欠けた部分が多く、短い石階段を下りた先には、車一台がぎりぎり通れるかという狭さの道路が一本走っており、ちょうど下りたところに一台の黒いセダンが停まっていた。
レンに後部座席へと促され、彼女と隣り合って座る。運転席には初老の男性が座っており、ミラー越しに目が合うとまぶしそうに眼を細め、口に笑みを作った。
「出してください」
レンのその言葉を受け、車のエンジンがかかると、車はゆっくりとその細道を動き出した。周囲が草に覆われているせいで、草を住処にする虫にでもなった気分だった。
「ここから一時間くらいですよ、錬次」
「そうなのか。結構田舎な場所にあるんだな」
「まあ、そうですね。山の中です。虫がたくさんいて、真夏には蜂の駆除なんかもしなきゃいけないんですよ」
「そうか」
「中には親指以上の大きさのものもいて困ったものです。あとは、桜が綺麗なんですよ、私の家の周り」
「桜か」
「ええ、春の季節に来るのが一番見応えがあって良いかと思いますよ」
「春、か」
「一緒に見ましょうね、桜」
「……そうだな」
会話が途切れると、車内は砂利を転がすタイヤの音で満たされた。
車体が揺れると、時折レンの肩と自分の肩が触れ合う。特に何も喋ることはなかったが、少しだけ落ち着かない。以前にもこうした経験があったような気がする。ただ、それは事故の記憶よりも曖昧な、夢の内容を思い出すような作業だった。
隣に座る彼女の息遣い、服の擦れる音、触れた個所から伝わるわずかな熱。手繰る糸は掴んだような気がしているのに、引いてみても手ごたえがない。
ただ糸が長いだけなのか、先に何も付いていないのか。考え出すと、少しはマシになった気分がまた沈みそうになったので、僕は眠くもない目を無理矢理閉じた。
日の光が当たっているせいで視界は完全な暗闇にはならず、灰色に似た色が広がっていた。
純粋にまぶたを閉じるという行為は、思ったよりも長くは続かなかった。眠りたくなった時は自然と閉じようとするように、まだ存分に活動できる時は自然と開いてしまうのかもしれない。
そう考えると、電車で眠ったのはあまり賢い判断だとは言えなかっただろう。あちらであれば、公共の場だということで言葉の続かない気まずさに言い訳が出来ただろうが、こちらでは特にそういった事情はない。
理由があれば気まずさが紛れるというのもおかしな話ではあるが。
隣を見ると、レンはぼんやりとフロントガラスを見つめていた。レンもここまでの出来事を胸中で整理しているのかもしれない。
そうだ、僕も考えなければ。
考える。
篠本さんと正人の生死。西條の言葉の意味。感染者たちへの対応。これから僕たちはどう動き、どういった結末を迎えるべきなのか。
皆が幸せになるような終わり方。少年漫画のお約束のようなその言葉は、現実にしようとすると実にファンタジーなものだったのだとわかる。当たり前だ。都合良く納得の行く幸せなど、簡単に見つかるはずもない。
事態を綺麗に収めたとしても、綺麗な終わりになるとは限らないのだ。
様々なことが手遅れだった。何かを止められるとか、救うとか、そういった重要な役割を担うには、僕はあまりにも無知が過ぎた。
結局、僕にはどうにも出来そうにない。主ノ蟲の力が使えたところで、どういった風に願いを叶えるのが正解なのかがわからない。
世界をやり直す。西條の言葉だが、正直出来るものならやってみたいものではある。正人は早まったのかもしれない。僕たちは、あの狂人の言うことを聞いておくべきだったのかもしれない。
どうすればいい。どうすればよかった。
馬鹿馬鹿しい。教本などないのだから、完璧な道筋を辿れるはずもない。この後悔は全くの無意味だ。反省が生かされることはない。ゲームとは違い、一度きりなのだから。
やり直しが利けば確かに、その点は活かされるのだろうが。
無駄に滑車を回し続けていた頭の中の労働者が休憩に入ったところで、窓の外の風景が深い森の中へと変わった。
どこまで続いているか知れないまっすぐに生えた木々の中、舗装もロクにされていないらしい粗道を揺られていく。ふと携帯電話に目をやると、『圏外』の二文字が予想通りに画面左上に表示されていた。
「すぐに抜けますよ。酔いそうなら窓を開けましょうか」
「いや、大丈夫」
レンの言う通り、その道はすぐに開けた道路へと変わり、舗装されて見晴らしの良い景色が広がった。左手に山壁があり、それに沿うように道があった。
「あれ?」
「どうかしましたか?」
「いや、なんとなく。見覚えがあるような気がしてさ」
僕の言葉を受けたレンは周囲の道を見回し、何かに気が付くと、少し顔を俯けた。
「ああ、ここは……。覚えていませんか」
「また僕は忘れているのか」
何か地雷でも踏み込んだかとレンの顔色を窺いながら聞いてみると、レンは「ええ」と短く答え、その後に言葉を繋げようか悩むように口をもごもごと動かした。
「でも、忘れていても仕方がないような気もします」
「?」
「ここは――」
レンの言葉の間にも景色は移り行く。言葉に意識を向けつつも、記憶に検索をかけて何を忘れているのかを考える。
いや、見たことはあるのだ。心当たりがあったから、僕は妙に既視感を感じたに違いない。レンの反応からすれば割と大きなこと。僕に、もしくはレンに関わる重大なこと。
「あ」
僕が声を発するのとレンが口を閉じるタイミングはほぼ同じだった。
その一文字と共に僕は記憶の発掘に成功した。なんだ、少し前まで思い出していたことではないか。
「ここ、僕の事故現場辺りか」
「はい、そうです。正確にはもう少し先ですが」
そのまま車は静かに進んで行った。見覚えがあるのは当たり前ではないか、焼き付いていてもおかしくはない。
あの事故の記憶の風景と照らし合わせる。するとどうだろう、不思議としっくりと来ない。僕の記憶のものと、外にあるものとは別物であると告げる。
そのわけはなんとなく理解した。綺麗すぎるのだ。事故の跡など感じられない。
時間が経った。僕の中に残る光景は既に随分過去のもの。僕は窓の外を眺めることになんの苦痛も感じることはなかった。
「……」
「意外と冷静ですね」
「そうだな、思ったより。もっとドラマとか漫画みたいに取り乱すと思ったけど、そんなことなかったな。やっぱり、ああいうのはフィクションならではなのかも」
それに、今はそれどころではない。
車に運ばれて行った場所は木々に囲まれた立派な屋敷だった。篠本さんの家にも負けていない。蟲床を抱える家は随分裕福なところが多いようである。
緑の葉を蓄えた木々と塀に囲まれた屋敷の中は、穏やかな葉擦れの音が響き、日の光がほどよく肌を温めた。視界の右側に移る池はひらひらと光の旗を揺らす。時折魚影が蠢いている。
「何か、思い出しますか」
傍らに立つレンが静かに尋ねる。
「……何も」
「そうですか」
レンはただ微笑んだだけだった。彼女が覚えていてほしい記憶は、恐らく僕の中にはないのだろう。せめて、都合よく夢の中に記憶の断片でも見ることが出来れば。
ああ、もしかすると、僕の目的はそれでもいいのかもしれない。どうしようもないこの状況を諦めて、彼女の幸せを叶えることでも。
……幸せなのだろうか?
あの惨状は見て見ぬふりをし、記憶を取り戻すために隠れ住む。そんな生活が果たして望ましいものと言えるだろうか?
それに記憶を取り戻すというのもまた、夢のような話のように思えてしまう。どちらにせよ、僕の望んだことの実現はかなり難しいもののように思われた。
なら、何をするべきなのか?
「錬次、こちらですよ」
歪んだ楕円の飛石を歩く中、ぼんやりと歩いている僕を見かねたのか、レンは僕の右手を取って先を歩み始めた。
もし、このまま何もしなくとも、この手を失う時はすぐそばに近付いている。確証はないが、そんな予感がある。僕に与えられた選択権はひょっとすると、残りの時間をどう過ごすか……だけなのかもしれない。
屋敷に入ると、大きな和室に通される。篠本さんの件で少々和室というものにトラウマが出来ている気がする。妙に緊張して身体がぎくしゃくとしている。
「さて、ここに荷物などは置いておきましょう……って、ありませんでしたね。書物等を管理している物置小屋に案内します。めぼしいものが見つかりましたらこの部屋――いえ、今日は天気が良いですし、縁側に出ましょうか」
レンは僕たちが入ってきたのとは反対側にある障子に目を向けた。障子越しにも暖かな光が和室へ流れ込んできている。
「では、行きましょうか」
レンの声で案内される。
古めかしい蔵でたくさんの紙の束と格闘した。中には紙が崩れそうになっていたり、文字がかすれて読めなかったりと歴史を感じさせるものもあり、捜索は困難の一言であった。
二人でやるのだからそれなりに覚悟はしていたつもりだったが、いや、想像以上に骨が折れる。
埃でむせ、突然降ってきた蜘蛛に大声をあげ、紙の束を崩して悲鳴が響いた。
作業は暗くなるまで続いた。縁側で和やかに読むなど夢のような話だった。
紙をめくり、書物を積み重ねる。回数を経るにつれ、一つ一つの動きは最適化されていく。
レンの提案で休憩を挟み、軽食を摂り、軽口を叩きながら探した。きっとここに来る前の自分が見れば、「何を呑気に雑談している」とか、「なんとかする方法を早く見つけるべきだ」とか、口うるさく言われるだろうなと思いながらも。
不謹慎ながら、このひと時は救われていた時間だった。
「見つからないな」
「そうですね」
「なあ、レン。もしかしてさ」
「はい」
「対処法なんて、ここにはないんじゃないかな」
「さあ、わかりませんよ。ここには研究結果が集まっているのですから。蟲床に関する資料は世界一だと考えています。現状を打破するために集められるものは、もはやここにしかないと考えます」
ゲームのように誰かが都合よく情報をくれるというわけでもありませんし、とレンは取り出した本をまた平積みに重ねた。
「あのさ」
「はい」
「もし、もしだけど」
「もし?」
「諦めて、レンがレンでなくなってしまうその時まで一緒にいよう、とか言ったら怒るかな」
「いいえ、私は怒りませんよ。むしろ、この状況ではそうするしか方法はないのかもしれないですし、その」
レンは言葉に詰まる。会話の代わりに沈黙と、古い紙の独特な埃っぽい臭いが鼻をくすぐる。
「私は、ここでまた二人の時間を過ごすことが出来るなら、それでも構いません。あの時の、二人の時間を取り戻せるのなら」
レンは作業の手を止め、僕の方へ歩み寄り、そのまま僕の腕の中へと身を寄せた。
そのまま小さく呟く。
「少し、縁側の方へ行きましょう。実はその暇がなくて、少々苛々していました」
物置から出ると、暗闇はそのまま続き、月と星の光がまぶしい紺色の世界が広がっていた。
レンは僕の手を引いて、庭を大きく迂回して池の側に歩いて行く。すると、恐らくは自分たちが荷物を置くために寄った和室の外側へと辿り着いた。そこには赤く染まった葉を落とす大木が一本立っている。僕が何も言わずに座り込むと、レンは意味ありげに笑いを洩らした。
「? 何かあった?」
「いえ、再確認しただけです。自分の幼稚さを」
僕の身体にぴったりと身体を密着させ、レンは座った。少女の匂い、体温、柔らかさ。月の光に照らされ白銀じみた白い髪。改めて思う。彼女は魅力的だ。
「あら、雄の匂いがしますね。興奮しましたか?」
「いい感じの空気だったのに……」
「いつも通りじゃないですか。いつも通りが一番ですよ。錬次。もっと寄ってください。いえ、もう膝の上に乗っていいですか? ちょっと下脱ぎますね」
「いつも通りを軽くオーバーしてるからな」
「そんなことないですよ。ほら、早くベルト緩めてくださいよ! 何してるんですか!」
「暴走しすぎじゃないか? いや、待て待てズボン下ろしにかかるのはやりすぎだ阿呆」
レンに手刀を叩き込むことでこの暴走には一区切りが付いた。油断も隙もありゃしない。しんみりしたムードなどお構いなしである。
「ふふっ」
笑い声にとっさに身構えたが、どうやらそういった雰囲気ではないことに気が付く。
「やっぱり、楽しいですね。こういうやり取り好きですよ」
「僕も別に、嫌いじゃないよ」
「おや、ツンデレですか? では、錬次が身体を許すのも近そうですね……」
「そういう意味じゃないからな」
「わかってますよ、わかってます」
そう言いつつ、レンは僕の膝の上に倒れ込んできた。しまった、これは完全に油断していた。
「悔しいですね。こんなに好きなのに、触れ合える距離は限られているなんて」
「すっ……あのな、別に、そんな、ほら、距離は近いだろう」
「そうじゃなくてですね。ほら、出来ないじゃないですか」
「出来ないって」
「セックス。性交。子作り。……いや、どうして錬次、そんな「ああ、こいつ言っちまったよ」みたいな顔してるんですか。ぼかして言う方がよっぽど恥ずかしいでしょうに……はあ」
さすがにそういう話題に対しての免疫は出来ていない。少々鍛えられたとはいえ、まだ思春期並の耐久値であることは自覚している。
「錬次。私、本当に好きだったんですよ。昔からずっと。錬次のこと」
「ど、どうしたんだ急に。結構精神にダメージというか、赤面せざるを得ないというか、かなり恥ずかしいからだな」
「もし死ぬのであれば、錬次の愛で殺されたいですね」
「……少々判断しかねる話題だな」
「そうですね。半分はいつも通りですけど、半分はまあ、シリアス寄りですかね? ほら、皆理想の死に方ってあるでしょう? 男のロマンの腹上死とか。老衰でゆっくり眠るようにとか。――だって、私は時間が残り少ないですからね。笑い抜きで、本気で死に方は考えておかないと。変な死に方したら嫌ですし」
そうしたら痛いより気持ちいい方がいいですよねえ、と笑いながらレンは言う。
軽い調子で話される言葉に僕は返事を返すことが出来ない。なんだか、意味もなく泣いてしまいそうだった。涙が寸前まで迫って、後少しで洩れ出てしまうといったところ。何か言葉を喋ろうものなら、そのまま一緒に涙も落ちる。そんな状況だった。
いや、意味もないわけがない。悲しかった。怒りが波のように押し寄せていた。
お決まりの文句だ。
どうして、彼女だったのか。
どうして、僕だったのか。
これは抽選結果への文句だ。選択権がないことへの怒りだ。対処出来ないのはきっと、僕たちの未熟なのだ。それも選び出そうとしたものに向けた怒りとなる。どうして無力な僕たちを選んだのかと。
このままでは、レンに待っているのは早すぎる死だ。僕を襲うのは喪失感だろう。僕は何をすればいいのか。
西條の言葉が甦る。僕には主ノ蟲がある。
死の間際。強い欲求。僕は、せめて彼女だけでも幸せにしなければ。
西條の言う通りにやり直すか? それとも寄生した欲ノ蟲を消滅させる? いや、それだと後に続く蟲床たちは救われない。だとすれば、蟲の存在そのものを消滅させるのがベストなのか。
しかし、そうなると恐らく。
僕の頭にはごく一般な考えしか浮かばない。きっとこれを行えば。誰しもが思い至る可能性であるということは想像に難くない。しかし、そんな凡庸な願いであったとしても、誰も得はしない、幸せにもなれないかもしれない、それでも今よりは救われている世界になるのではないか。
そう、思うことが出来た。
「レン、ごめんな」
口は半ば無意識に動いていた。考えがそのまま声になったようだった。
「なんですか急に」
優しく問う声の主は僕の頬を手を添えて、輪郭を丁寧になぞるように撫でた。
「名前、思い出せなくて」
「どうして謝るんです? 錬次のせいではないでしょう。どうしようもなかったことだとわかったじゃないですか。くじ引きで当たってごめんと言っているようなものですよ」
「それでもがっかりさせた。大事なことを忘れてしまったから、謝らないといけない」
「確かに、残念ではありましたがね。あの時過ごした思い出も、私の名前も忘れてしまって、覚えているのが私だけになって。
悲しいものでした。ここに来てもしかしたら、奇跡みたいなことも起きるかもと思いましたが、そう上手くことは運ばないものですね」
でもね、とレンは続ける。
「私はあなたが生きていてくれて本当に良かったと、心からそう思っています。思い出なんかよりも、そっちの方がずっといい。こうして手で触れ合えて、記憶の中だけの存在になってしまっていたら、きっと私は早々にこの争いを降りていたでしょう。
――私はあなたのおかげで今まで過ごしていられた。心からそう思います」
静かに告げられた言葉は夜の静寂に確かに響いた。
ほんのりと色付いたレンの頬は、その内容が愛の告白であることに気付いている故だろうか。かく言う僕もどんな顔をしているのか。気恥ずかしく、耳が熱くなっているのは確実だろう。
もちろん、レンからは幾度も好意を明かされてはいたけれど、今回のものは妙に神聖なもののように感じられた。
「なんだか恥ずかしいですね。こうやってらしくないことを言うの。親に向けた手紙とか、こんな感じなんでしょうかね」
「……いや、感謝の手紙とはちょっと違う気がするけどな」
「同じく気恥ずかしいはずでしょう。書いたことありませんけど」
「ないって、そうか。なんかごめんな」
そういえば、篠本さんが蟲床に両親はいないとかなんとか、そういう話をしていたような気がしないでもない。迂闊に踏み込んでいい話題ではなかった。
僕の気遣いに気付いたらしいレンは困ったように笑いながら、
「いいんですよ、顔ももう覚えてないですし。魅上色夜で生きた時間が長すぎて、それより昔のことは、もう」
親、と言えば。篠本さんは父親的な存在がいないことはないと言っていたような気がしたが、どうだろうか。いかにも得体が知れないというあの顔が妙に頭に残っている。
……まあ、もうどうしようもないことかもしれないが。
「なあ、レン。もし良かったら昔のこと、話してくれないかな。改めて自己紹介もして、その、出会いの仕切り直しみたいなさ」
「なんですか、それ。でもそれもいいかもしれませんね。もう思い出してくれないことは確定のような気がしますし、今更出し渋っていても仕方ありませんよね」
「妙に棘のある言い方だな?」
「怒ってますよ? うっかり錬次を殺してしまうかも」
「それって心中?」
「物理だとそうなりますけれども、私が考えている殺害方法は悩殺なので」
「ああ……」
「腹上死ですね」
「いや、それも結果的に心中になってしまうのでは?」
「ふふっ」
本来笑えない冗談のはずだけれど、僕たちは大いに笑った。不謹慎にも、この状況がたまらなく幸福な気がしたのだ。
ありふれた文句で言えば、時が止まってしまえばいいのに、だ。
珍しく声を上げて笑うレンの姿にしばらく見惚れていた。ひょっとすると昔の僕は見ていたかもしれないが、こんなに口を開けて笑う彼女は初めて見る。
こんなに楽しげに笑うのだ、この女の子は。
「ははははっ、はあ、あんまり見つめられても困りますよ、錬次」
「珍しかったもんだからさ」
「珍獣扱いですか」
むすっとしつつ僕の膝から起き上ったレンは、改めて僕に顔を向ける。
「じゃあ、改めて名乗りますよ。いいですか! 一回しか言いませんよ!」
「お、おう! 今度は絶対忘れない!」
「当たり前です! 今度忘れたらもう、あれですよ! 全裸散歩!」
「な、何でもしてやる!」
「いいですかぁ! 私の名前は――」
「はい、盛り上がってるところ失礼いたしますよっと」
話に横槍を入れるとは聞いたことがあるが、物理的に槍のように入ってくるのは初めてである。美しい静寂に包まれた庭園は土埃舞い上がる戦地のような有様に早変わりした。
空から文字通り飛んで来たであろう九字切八重子は、僕たちの前に仁王立ちの状態で現れた。
「いやいやすいません! お熱いところにお邪魔しちゃいましてねぇ。いや、こちらも仕事なので遠慮はしないんですけれどもね」
目に見えて機嫌を害しているレンに代わり、とりあえず当たり前のことを聞いてみることとする。
「あの、何しに来たんですか?」
「そりゃ気になりますよね? 舞台的にはクライマックスですし、後は二人が接吻しつつエンドロールが流れ、徐々に画面を引いて終了といったところですか。妙な終わり方になりますけれども、とまあそれは置いておいて、って話でもないんですね」
「はい?」
「このまま自分たちの世界に籠って終了、というのは望ましくないんですよ。私の仕事的にね」
「仕事? 八重子さんの仕事って、誰かの依頼か。睡郷のだけじゃなかったってことか」
「いえいえ、依頼ではなく本来の仕事の方ですよ。言ったでしょう? なんでも屋じゃないんです。結構立派なお仕事してるんですよ~、と、そんな感じなんで一つ質問いいですか久東さん」
「質問?」
「はい。かぁんたんな奴一つですよ。ずばり、この状況どうにかする気あります? ここにあるものが役に立たない前提で」
「ここにあるものって、なんだよ」
「情報ですよ、そりゃあ。蟲床に関する書物。あなたが頼みにしていたもの。表面上はここに来た目的でもありますか。本当のところは単に逃げ場所を探していただけでしょうけど、ね? 合ってますよね、魅上色夜さん」
人の隠し事を指摘するような口調で八重子さんはレンに問いかけた。
沈黙。レンは八重子さんを責めるような目で睨んでいた。つまり、ここにある書物でこの事態が好転するなどという期待はしていなかったと、その思惑を肯定しているようなものだった。
不思議と僕の心境に変化はなかった。もうそれでも構わない気がしていた。
「で、どうなんです? どうにかする気はあるんですか? ここから進展は、諦めて終了ではないとしたら」
「……わからない。正直手詰まりだ。主ノ蟲の力でも使えばなんとかなるのかもしれないけれど、もし使うのであればもう少し時間が経ってからにしようと思っている。レンがどうにかなってしまった、その後に」
「なるほど?」
先ほどの音を聞きつけたらしい人々が屋敷の中から顔を覗かせ、こちらを窺っていた。八重子さんはそれを見て肩をすくめる。
「ゆっくり出来る状況でもなくなってきましたか。用事自体はすぐ済むのでいいんですが」
さて、と八重子さんは夜空に向かって大きく伸びをする。
「じゃあ、もうあなた方は動く気はないということで、構いませんよね」
「…………」
「私は、錬次の言葉に従います」
「と、言うことですが」
動く気はない。そういうことになるだろうか。
逃げて、犠牲に目をつむって、ここでささやかに幸せな時を過ごす。許されていいのだろうか。
レンを見る。まだ名前を聞いていない。忘れて失われてしまった時を取り戻したい。彼女を幸せにしたい。
やり直すのはその後でもいい。なんでも叶うのであれば、それでもいいではないか。
「僕は、レンがいなくなるまで何もしない。ここで過去に失ったものを取り返そうと思う」
「そうですか」
八重子さんはあっさりとした返事を返した。
「妙にすっきりと折れましたね。何か原因があるんでしょうか、やはり女? 女でしょうかね。ラブパワーの前には人は皆自己中心的になるということでしょうか……」
「な、なに?」
「いや、ここまで頑張って気力を保っていたのに随分と簡単に折れるんだなあ、と思いまして。散々煽ったつもりですし、責任というものをビシバシ感じさせたつもりだったんですが。恐ろしいですね。ひょっとすると蟲の力? 主ノ蟲と言えども、禁欲ノ蟲なぞと語呂の悪い露骨な言い方をされていたとしても、その性質は変わらなかったと、そういうことでしょうか?
なんとも、ままならないものです。もどかしい。直接干渉できればいつものようにさっくりと解決出来たでしょうに。ええ、わかっていますわかっています。依頼主の言うことは絶対ですからね、わかっていますとも。
――ねえ、久東さん。自分の思考回路がおかしいことには当然気付いていらっしゃらない?
彼らの死にどうしようもない無力を感じたはずです。どうにかしようともしたはず。今この時に主ノ蟲の力を使ってしまい、なんとかしようとするのが通常の発想なのでは?」
一呼吸。
「ん? ああ、そうでした。主ノ蟲に願った事柄が一つあったんでしたね。ひょっとするとそのために? だとするとやはり、どうしようもありませんか。精神ですら死(、)の判定に引っかかるとはさすが、と言いますか……まあ、仕方ありませんか」
ひとり言のように、恐らくは僕相手にまくしたてられた言葉は誰かへの文句のようにも取れる。
僕に対しても向けられているだろうが、もっと、何か、大きな仕組みに向けられているような、そんな内容だが。
八重子さんは深くため息を吐いて握りこぶしを作る。
「仕方ないので、一度。ありがたいですね、やはり保険は大事ということですか」
リセットしましょう。
その言葉を聞いたような、聞いていないような。聞き覚えのある声の絶叫がまた、聞こえたような?
頭部に走った衝撃。唐突に消滅した視界。いや、消えたのは――――。




