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蟲床フラストレーション  作者: 桜谷 卯月
第三章 色ノ章
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第三十一話 共有

夢を見た。

知っているけど知らない場所。どこか馴染み深い気はするけれど、どこか遠くの世界のような違和感が広がる場所。

 あの場所はあの子と一緒に思い出を育んだはずの場所。

 哀愁を感じさせる白い花弁の散る風景。包み込むような柔らかな日の光。

 身体が大気に溶けだして行くような感覚。縁側はほんのりと古い木の香りを漂わせて、まぶたをほんの少し重くさせる。

 いつも同じ場所。思い出されることを待っている場所。

待つことの喜びを教えてくれたのはあの子だった。

恋心を教えてくれたのはあの子だった。

僕は、彼女の事が好きだった。

いつもここで待っていれば現れる。あの子との約束の場所なのだ。

 小走りな足音。ほら、今にやって来る。

 この木の花と同じような真っ白の髪を弾ませながら。



 顔がやけに熱い。目を開けるとカーテンの隙間から日が入り、僕の顔だけを照らしていた。さすがにこんな熱い時期に太陽に好かれたとして嬉しくはない。

 身を起こすと、そこはソファの上だった。僕はあの後、子供のように泣き疲れて眠ってしまったらしい。記憶が曖昧でよく覚えてはいないが。

 そうだ、とレンを探す。周囲を見回すと、キッチンで動き回っている白い髪を見つける。

 すると、向こうもこちらに気付いたようで、手に持った包丁を置いてこちらへと近付いてくる。

「もう大丈夫ですか?」

「ああ、おかげ様で平気だよ。悪いな、朝ごはん。手伝うよ」

「いえ、今日くらいはいいんですよ。というか、未来のお嫁さん候補として料理の一つでも振るわねば、なんか、その、女子としてどうなのかと」

 レンは照れ臭そうにしてそそくさとキッチンへと戻って行った。可愛い奴め。

 しばらく微笑ましいレンの姿を眺めていたが、不意に睡郷の事を思い出す。

 朝は酒の飲み過ぎでよく床に寝転がっていたりした。早起きして水を渡してやって、だるそうに伸びをしていた。風呂に入るから脱がせろともよく言われた。困った姉だった。

 もうそんな光景は戻ってこない。

 そう思うと、空気を必死で掴もうとしているような気分になる。

 僕は彼女の意思を受け止めなくてはならない。命を懸けて繋いだ情報を伝えて、幸せにならなければいけない。

 重く溜まった何かを息と共に吐き出した。まずはレンと篠本さんに話をしよう。それから皆で知恵を絞り合う。二人とも僕よりは考え事が上手そうだし、良い案が浮かぶかもしれない。

 下手に隠すのはやめにしよう。僕一人でどうにか出来る問題ではないのだ。

 キッチンから弾ける音とほんのりと肉の焼ける香りが漂う。冷蔵庫の中身から察するに恐らくウインナーだろう。

「って、レン? 手料理ってウインナー焼くだけとか言わないよな?」

「何言ってるんですか! さすがにそれだけではないですよ!」

「目玉焼きか」

「エスパーですか」

「まあ、いや、なんとなくだよ」

 もしくは玉子焼きかスクランブルエッグか。エスパーじゃなくとも簡単な推測ではある。などと非常にどうでもよいことを知的っぽく表現したところで特に意味はなく、カッコいいかと言われればそうでもない。

 その後、目玉焼きにウインナー、グリーンサラダと実に朝食らしい朝食を胃に収めた後、僕とレンは何をするでもなく、テレビのニュース番組をなんとなく眺めていた。

 謎の通り魔の被害者は増えて行く。冗談めかしてゾンビなんていうところもあるが、正直死んでいないことを除けばそのまま過ぎて笑えたものではない。

 一人一人を探しまわり、治療していければこれ以上増えることはないのかもしれないが、それは今となっては途方もない作業となるだろう。それに治療した後、その人が無事で済む保証もない。

 僕は行動するのが何もかも遅すぎたのかもしれない。

 もしかすると、全て取り返しのつかないところまで来ているのかもしれない。

 僕は上手くやれるのか? 

「大丈夫ですよ」

 不意にレンの手が僕の手を包む。レンの手は温りが、僕の冷たくなった手には熱いくらいに感じられた。

「ああ、ごめん。ちょっと緊張してるみたいだ」

「大学受験前日のもう後がない浪人生みたいな顔ですよ」

「あー……今後の人生かかってるって点では似てるかもしれん」

「なんだ、結構余裕じゃないですか」

「馬鹿言え、胃が痙攣して食べたモノが逆流しそうだよ」

「いくら錬次のものでも吐瀉物は私食べようとは思えませんねぇ」

「そんな性癖だったらさすがに引くよ」

 ほんのり和らいだ空気を打ち壊すかのように滅多に鳴らない携帯の着信音が鳴る。画面には……非通知の文字。

 恐る恐る通話に応じると、何者かのため息が聞こえた。

「……もしもし?」

『驚いたな、本当に生きてやがったとは』

 篠本さんだ。

心臓が跳ねた。覚悟はしていたつもりだったが、いざ話してみると喉は息を吐き出すばかりで上手く発音させてくれない。

「……」

『良かったよ、生きててくれて。こっちも冷静になった。話したいことがいくつかある』

「勝手だな」

 口から飛び出したのは何故か強気な言葉だった。

『でも、忘れてもらっちゃ困るのは先に疑わしいことしたのはお前サイドだってことだ。確かに殺されかねないことをやらかしたんだぜ? あの八重子って女は』

 お互い様だろ? と。からかうような口調で彼女は言った。

『まあ、その話は置いておこう。オレたちはもっと大事な話をしなきゃいけない。そうだろ?』

「そうだな、どこで話そうか。僕の家ならいつでも空いてるよ?」

『残念だが正人も付いてくるぞ』

「そりゃ残念だ」

 そう言うと電話はすぐに切れた。これは僕の家に来るということでいいのだろうか。

 短い通話だったのにも関わらず、携帯を握る手は汗に濡れていた。指先が冷たく、心臓が僕の体内から逃げ出さんばかりに脈打っている。

 逃げ出したらパニック映画の始まりだ。

「なんでこんな緊張しなきゃいかんのだ……」

「食ノ蟲の?」

「ああ、そうだよ。正人も来るってさ。いよいよって感じだ。これでどうなるか」

 説得に成功すれば平和的な方法で事態を収拾する方法もあるかもしれない。とりあえず、これは確実に成功させなければいけない。と、考えれば考えるほど上手くいかなさそうで恐ろしい所ではある。

 いわゆるフラグというやつか。

 そんな軽口が浮かぶ辺りまだ心に余裕はありそうなので、そこそこ上手い話が出来ることを期待したい。割と切実に。

「それにしても、いつ頃来るかわからないと結構プレッシャーがすごいな。どうしたもんかな」

「ヌけばいいんじゃないですかね」

「スリルを加えてどうする」

「まあスパイスでしょう。性癖開拓しましょうよ。軽いノリで行きましょう」

「姿によっては出会い頭に殺されそうだけどな」

 馬鹿な会話が心地よかった。毎日こんな時間が取れれば幸せなものだ。

僕はソファに寄りかかり、目を閉じた。緩やかに睡魔が暗闇を漂う。睡眠というのは案外いつでもとれるものだ。朝、昼、夜。三大欲求というだけあって、人によっては半日以上を眠って過ごせる人もいるだろう。

 そう考えれば、睡ノ蟲の影響というものは大したことはなかったのではないだろうか。それを体感していない身で言うのは、睡郷に、歴代の蟲床たちに怒られてしまうかもしれないが。

考えれば人間なら当然感じるものだ。それが少し強い、もしくは異常なものでも、病気と説明することは出来る。

 蟲さえ、蟲さえいなければ。彼女たちは生きていけるというのに。

 肩にそっと重みが加わる。甘い香りが鼻腔をくすぐる。レンの頭だとすぐに気付いた。

 ……ああ、懐かしい。

 ふと浮かんだ感情に自分自身で戸惑った。しかし、本来それは当然感じるべきものだったのだろう。僕が忘れているだけで、こうして寄り添って眠るような関係が僕たちの正しい関係なのかもしれない。

 蟲床なんてものは関係なく。

 年頃の男女として。

 運命の相手なんて面白おかしく言ってしまうのもありかもしれないが、とにかくそういうものだったのかもしれない。

 実現は、どうだろうか。先の見えない今にするような想像ではないのではないだろうか。

 ぼう、と目を薄く開いたところで、すっかり聞き馴染んだ家のチャイムが鳴った。


 篠本さんはいつもと変わらず、ただ、服装は半袖の黒いシャツにジーパンという実に動きやすい格好だった。正人に関しては片脇に布に包まれた長い物を抱えていた。恐らくあの刀ではないかという推測は出来る。わかったところで何をするわけでもないが。

 篠本さんは立ったまま話を始めた。

「ひとまず、よく死ななかったな」

「よくも殺してくれたな」

「いや、生きてんだろ」

「常人だったら死んでたんだからもう殺人でいいだろ。僕は一回死んだつもりだ」

 ここ最近においては普通の会話と言って差し支えないだろう。常人は冗談だと思って笑うだろうし、僕にしてみれば笑えなくて笑えてくる。篠本さんの顔は全く笑っていなかったので僕は引きつった笑みを浮かべた。

 スプーンの上にボールを乗せて歩くというのは僕自身やったことはないけれど、この会話には似たような雰囲気があるように思われる。

「まあ、とりあえず座ってくれ。ソファは見ればわかるよな?」

「オレをなんだと思ってるんだ……ああ、そういう挑発か? ああ?」

 怖い。どうせならさらに軽い調子で冗談の一つでも返してやりたいところではあるが、現在の彼女の雰囲気はそれを許さないように思われてならない。下顎を物理的に持って行かれそうだ。

 客人二人がソファに座ったのを確認し僕はその対面する席に、レンはお茶でも入れてくるつもりだろうか、キッチンに向かって行った。

「まず何から話したものかな。とりあえず真っ先に言っておかないといけないことは――――睡ノ蟲の蟲床、幻夢川睡郷は死んだよ」

「死んだ? 正体すら知れていなかったはずだがな。お前が殺したのか」

 声を低くして篠本さんが問う。正人は眉一つ動かさずに無言で話を促している。

「時間切れだったんだよ、蟲床の」

「なんだそれは。まるでオレたちの中に時限爆弾でも入ってるような言い草だな」

「事実その通りだったんだ……入ってるのは爆弾じゃないけどな。弾けるのは火薬じゃなく蟲床の命。起こる現象は爆発ではなく乗っ取りだったけど。不老不死は……その」

 篠本さんは半目になってこちらを睨む。顔には「何言ってんだこいつ」と書かれているのがわかる。それとは対照的に正人は僕の目を食い入るように見ていた。

「おい、それはもしかして、お嬢の屋敷に押し入ってくるアイツらみたいになるってことじゃないよな?」

 篠本さんの屋敷での騒動を思い出す。複数の足を持つ異形の生物。あれが感染者の末路だとするのならば、睡郷を放置した場合にはアレになっていた可能性は否めない。

 僕は今、蟲床は最後化け物になって死ぬと言っているのだ。

 僕の無言に正人は狼狽する。その様子を見て気が付いたのか、篠本さんもこれを冗談として捉えることはやめたようだ……悪い冗談のような話であることに違いはないが。

「……そうか」

「何が起こるとかは」

「聞かねえよ、聞きたくない。それより助かる方法とかは見つけてないのか」

「今は、なんとも」

「お手上げってか」

 篠本さんは力なく笑い、眉間を抑えて深いため息を吐いた。

「で、でも、西條瑛悟が何かを知ってる。蟲床を研究していたメンバーの一人だ。そうわかったんだよ、だから」

「西條……なるほどな、あの保険医か。だったら色々説明が付く。奴は血を採取していたし、もしかしたら蟲の現物も持っていたりするのかもな」

 あの化け物共は結局何かわからないが、と付け足して嘆息。

「不老不死は、幻だったってわけだ」

「そもそも、不老不死なんてものを求めること自体が間違いだったんでしょう」

 レンが麦茶と菓子の乗った盆を目の前のテーブルの上に置いた。そして僕の隣へとそっと腰を下ろす。

「人には過ぎたものだったんですよきっと。カッコいい彼氏欲しいとか、老後に安定した生活が欲しいとかそういう馬鹿げた願い位がちょうどよかったんじゃないですかね」

「随分余裕じゃねえか」

「私自身不老不死云々にあまり興味はありませんでしたしね。ダメージは少ない方かもしれません。もちろん腹は立ちますが、これをどうにかする方法を考え出すのがこの場では重要でしょう」

「一刻も早く見つけて、悪趣味な展開を避けるようにしないとな」

 僕の言葉に篠本さんの射るような視線が向けられる。

「避けるったってどうやって? まさか病院で手術とでもぬかすつもりじゃないだろうな? あまり無責任なことを言うなよ? 殺したくなる」

「お嬢、ちっとは落ち着けって。病院に頼るって手も手段としてないわけではないし、それ以外があるかもしれないだろ」

 そう言う正人の目は僕に話を促していた。あまり信じてもらえるような内容の話は持ち合わせていないのだが、果たして。

 僕は二人に主ノ蟲に関しての情報をあらかた開示した。あの夜にあった怪しげな人物については僕自身曖昧な所があるので伏せたが、日記に書かれた内容は日記と共に見せた。

 しかし、その上でその内容に納得した様子は二人には見られなかった。

「願いを叶えるってそんな御伽噺のランプの魔人じゃあるまいし、荒唐無稽と言わざるを得ないんだがな」

「そ、そうだな。でも、その話が本当なら……」

「信じるに値しない。宇宙人と同レベルだろうが」

 篠本さんはばっさりと言い捨てる。僕とて願いを叶えるなんてものが一体の生物に出来るとは到底思えない。本来出来てはならない。身体を乗っ取るなど可愛いものだ。八重子さん辺りと比べれば……それでもまだ足りないだろうか。

 ただ、今は藁にもすがる思いで信じて欲しいものだ。もうすがるものはこの他にはない。代案があるのならば教えて欲しいところだ。

「僕は死んでない。あの状態で傷一つないこの身体も奇跡と言えば奇跡じゃないか?」

「それはまだ許容出来るレベルだ。なんでも出来るってのとは違うだろ? なんでも出来るって言うなら今すぐ蟲の存在自体を消してくれよ。出来るならな」

「それは」

 今すぐ出来るかと言われると答えは出せなかった。僕自身どうすれば使えるのかわからないし、この場で証明するのは厳しい。

 この要求は一応予想していたが、対策自体は考えられなかった。全く、我ながら信用も糞もあったものではない。

「出来ないのか? なら信用は出来ないな。まあ、嘘か本当かはともかくその話は胸の内に留めておくさ。本当なら最高で、嘘なら不謹慎な馬鹿の戯言だ」

 篠本さんは立ち上がり、僕の隣で麦茶を飲んでいるレンを酷く疲れた目で見下ろした。

「お前を殺すことも、可能性としてはあり得るんだろうな」

 それだけ残すと目の前に置かれた麦茶を飲み干し、篠本さんは玄関へと向かって行った。

早足で向かう篠本さんを追おうとした正人は申し訳なさそうな顔でこちらを見て小声で囁いた。

「悪いな、ただこっちも余裕ないんだ。俺もその話はあまり強くは信じられないけど、お前は信じてるよ。……頼むぜ、親友」

 その後、正人も後を追って姿を消した。

 後に残されたのは結露で濡れたガラスのコップ。僕の目の前に置かれているものはまだ枯れ葉色の液体がそのままの状態で残っている。ただその周囲は水に濡れていた。

「やっぱ、上手くいかないか」

「さて、どうしましょう。……と言ってもやることは変わりませんね。錬次が篠本涼子にこのことを話したのは西條に抵抗された時のことを考えてということでしょう? 彼女は私たちにはない戦闘力がありますしね」

「それもあるけど、争いは避けたいだろ。後からどうのよりは最初に話しておいた方がいいし、わかってくれたなら平和に事は終わるかもしれない」

「……そうですね、平和に」

 終わるわけがない。レンの言葉の後にはそう続いているように感じられた。


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