第二十一話 桃色は甘いわけではない
荷物が重い。男子が荷物の大半を請け負っていた。おかげで腰やら肩やらが悲鳴を上げている。
僕たちは正人を先頭、僕を最後尾に木々の中を歩いていた。
普段から使われているのか、森はそこまで歩き難いということもなく、歩く道は整備されているようだった。
何度か開けた場所を見かけたので、おそらくその辺りが拠点になるのだろう。
「なあ、錬次。なんで俺が先頭なんだ?」
「前と後ろ固めといた方が安全だろ。さすがに女子にはな」
「いや、それだったら先頭はお前でもいいだろ?」
「熊とか怖いしな」
「おい!? 俺は餌じゃないからな!?」
「うるさいから熊も逃げるって」
「ああ、熊はうるさいと逃げるって言いますね」
「へえ、正人くんうるさいんだ」
「ああ! ほら水上さんにまで変なイメージ付いただろ! おい! どうしてくれ」
「佐藤くん、黙らない?」
「ごめん」
篠本さんの一言に一瞬で静かになる正人。いいモノを見たような気がする。
…………そういえば。
「なあ、正人。お前って、篠本さんと前から知り合いだったりする?」
「なんでだ?」
「魅上さん、水上さん、で、篠本だろ? 妙に親しげじゃないか」
「久東くん、失礼じゃない、その発言」
「すいません」
篠本さんの一言に一瞬で静かになる僕。どうやら正人限定の弱点というわけではなかったらしい。思えば、男子生徒だったら誰しもこういう反応を返すのではないか。何せこの御方、アイドルと言っても過言ではない女神、篠本さんである。
「変なこと訊くな……錬次。そうなることはわかっていたろうに」
「いや、そうなんだけどな。今考えたら、篠本さんのことそうやってフレンドリーに呼んでるのって、正人だけなんだよな。恐れ知らずというかなんというか。お前がホモじゃなかったら全男子生徒から吊るし上げだったんだぞ」
「へえ…………え!? なんだそれ初耳だぞ!?」
「あ、私も聞いたことがあります。正人さんはホモだから放置してもいい。むしろ女子の一部勢力から絶大な支持を得ている、とかなんとか」
「んな支持いらねえよ……てか、俺の呼び方なんてそう考えてるわけじゃないぞ。魅上さんはセクハラ扱いされたからだし、水上さんはいきなりは失礼だと思ったし、だけど篠本は錬次から散々話聞いてたから、なんとなくって感じかな」
「まあ、私も気にしてはいないけれど、親しげ、ねえ」
「私もそれは篠本さん可哀そうな気が」
「同感ですね」
「というわけで正人、これからお前下僕な」
「流れるようにいじめるのやめてくれるか……?」
正人を弄り続けているうちに、再び大きく開けた場所に出た。
大木に囲まれ、日の光は他の場所よりも少ない。葉の屋根が出来ているようだった。
僕が呆けていると、篠本さんが横倒しになった木の幹に腰をかけ、持っていた荷物を足元に投げ出した。
「ここにしない? 近くに川もあるようだし」
「え、そうなのか?」
「音がするでしょ?」
篠本さんが耳を澄ますように耳に手を当てる。僕もそれに倣ってみる。
静かにしていると、歩いている時には気付かなかった水の流れる音が確かに聞こえた。
「じゃあ、ここにするか、錬次」
「そうしようか……。二人も異議申し立てはない?」
「私は錬次と一緒なら針山の上でもいいですよ」
「私は皆と一緒なら!」
「じゃ、決まりかな」
肩にのしかかってくる荷物を枝葉にまみれた地面に降ろす。滞っていた血が一気に巡って行くのを感じる。足から力が抜けて、その場に座り込んだ。
「疲れましたか?」
「まあ、若干」
「では、失礼して」
「ナチュラルにズボン下ろしにかかるのやめような」
「そうだよ魅上さん! 人前でヤっちゃダメだよ!」
「そうですね……鳴葉の言う通りかもしれません。場所を移しましょう、錬次」
「いや、うん、そういう問題じゃないんだよ」
まさか水上さん、レンの影響を受けてしまっているんだろうか。主に良くない方向に。将来、レンのようにならないといいのだが。
見上げると木漏れ日が目に触れる。ほのかに甘い樹木の香りが鼻腔を満たす。未だ残暑の森の中、鳥が涼しげに空を舞っていた。
「いいな、こういうの」
「野外で初体験というのも刺激的ですね」
「水上さんってアウトドア好きそうだよね」
「あ、わかる?」
「錬次、露骨にスル―されるのとても辛いです」
背中からのしかかってくるレン。色々柔らかいがもう慣れたもんである。そのせいか、最近は執拗に押し付けるというより擦りつけるというかとにかくパターンが徐々に変わってきているから要するに、
「や、め、ろ」
「流れるようにヘッドロックはやめてくださいイっちゃいます神々しい光が見えます」
「エスカレートし過ぎだからな。発情期の猫かお前」
「発情期は否定しませんが」
「……ああ、確かに」
思わず頭を抱える。なんだか色ノ蟲がどうのこうのというより初めからレンってこういう性格なんじゃねえの? とか思い始めている自分がちらちら顔をのぞかせている現状に対してもそうだし、そんなことをレンに言わせてしまったこともそうだ。
なんと甘く、不甲斐ない。
「でも、まあこの年頃の女の子は孕みたがり多いんじゃないですか。ほら、アイドルファンなんか、よく孕みたい孕みたい言っているそうじゃないですか」
「そ、そうなのか?」
「ええ、私はそっちは疎いので噂程度ですがね」
恐ろしい世界を知ってしまった。あと、ツッコミ損ねたけれど、さすがにこの年代だからそこまで盛るっていうのは若干無理がある。
「ね、鳴葉」
「うん……って私はそんなんじゃないよ!?」
「この前小さい男の子見ておいしそうだって言ってたじゃないですか」
「それはあの子が持ってたホットドック……」
「あの子の、そんなに大きかったんですか?」
「ちがっ……ああ、もう! なんでよりによって紛らわしい食べ物かなあ!」
レンに振り回される水上さん。うん、痛いほどよくわかる。僕も最初は苦労した。
こうして二人で冗談を言い合っているところを見るとほっとする。レンも普通の女の子で、こうして生活出来る。そう思うと自然と頬が緩んだ。
「おーい錬次、にやけてないでテント張るの手伝えよ」
正人がテントを広げて悪戦苦闘していた。もしかして、テントを張るのは初めてなんだろうか。だとしたらこのまま放置しよう。
「なあ、錬次。今、放置しようとか思わなかったか」
「なんでわかったんだよ。ホモか」
「今のホモ関係ねぇだろ!? なんとなく表情だよ!」
僕は僕でテントを張り始める。骨を通すやら杭を打ち込むやら、特殊な技能が必要なわけでもなく、至ってシンプルに事は終わった。テント張りにそんな技術を求められても困る。
「なんだ、錬次。お前登山部だったのか」
「はあ? 登山部はテント張りのタイムアタックあるくらいなんだからコレの比じゃないだろう。ホモにおだてられてもホイホイ付いて行ったりはしないからな」
「ふうん、テント張るの、上手いのね」
「上手いってほど、じゃ…………」
篠本さんの方を振り向くと、自然と声がフェードアウトして行った。気を遣ったのか逃げ出したのか、どちらにせよ、良い判断だったと思われる。
篠本さんは、何故かテントの生地に包まって蓑虫状になってそこに佇んでいた。顔には羞恥の色が見え隠れしている。
その場の誰もが一斉に顔を背けた。ある者は恐怖に、ある者は笑うまいと身体を震わせて。
僕だけ、そのタイミングを完全に逃していた。
「ええ、と……」
「久東くん、テント張るの、上手いのね」
「上手くは」
「久東くんって、テント張るの上手いんだ」
「だから」
「へえ」
「ごめんなさい張らせていただきます」
篠本さんから丁寧にテントの生地をはぎ取り、二つ目のテント張りに取りかかる。ため息は洩らさぬよう、気を付けて。
僕の作業を覗き込むようにしてレンと水上さんが自分のテントを手に取る。
見よう見真似で、各自準備を進める。よかった。自分以外のテントを張るのが一つだけで本当によかった。
ふと、視線を篠本さんに向けると、何故か不機嫌そうにこちらを見ている。
さあっと血の気どころか体中の体液がざわめき始める。体内で体液たちの井戸端会議、もしくは迫りくる危機に対してなんらかの対策でも立てているんだろうか。
こちらの気も知らず、森の木々はざわめいて最高のBGMを演出する。
――――――ざあ…………ざわ、ざわ、ざわ。
空気を読んだのか、鳥のさえずりさえ絶えた。なんだ、この処刑前の囚人の気分。要するに最悪の気分だ。
「久東くん」
「はい」
「…………教えなさい」
「へ?」
きっとその場の人間全員がシンクロして、「篠本さん可愛い」という感想を持ったであろうことは想像に難くない。ただ、僕だけは本性を知っているので、多少複雑な感情なわけだが。
「で、何する?」
「錬次、お前それ早いだろ。あと大雑把過ぎねえ……?」
テントは張り終え、ひとまずやることはなくなった。さて次は、となるのが普通ではないのだろうか。正人にはてなマークを向ける。
「具体的に決まってないから訊くんだろ?」
「もやしだけじゃ切ないから、とりあえず魚釣ってこない?」
篠本さんが馬鹿にしたような目でもやしを眺めている。確かに、夕食がもやしだけというのはなかなか辛い。貴重な体験にはなるだろうが。
「…………そういえば、火ってどうやって起こすんだ?」
もやしを眺めていて気付いた。僕たちはテント、釣り具とバケツ、あともやし。その他のものはテントに色々と入っているんだろうと考えていたがどうやら違ったらしく、自前で持って来たもの以外は特にない。
「「「「…………」」」」
全員が沈黙する。想像したのは恐らく、近代に入って恐らく使われることが大変希少になったあの方法だろう。
「おいおいおい、木を擦って火を出すのって、あれ相当大変だぞ!?」
「大体は油にライターなんかで火点けるわよね」
「そうですね……私も錬次のを擦るくらいしか」
「してないからな」
股の間に顔を出したレンの顔を足で締め付けつつ、火を起こす方法を考える。
火打石はない。どうしても、火を起こすとなると二通りしか思い浮かばない。しかし手間はかかる。三日連続で使わなくてはいけないから、管理も大変だろう。
「ふむ……」
「はあ、はあ、錬次……ヤバいです。ヤバいです。理性が」
「どうやって火起こしたらいいかな」
「はあ…………はあ…………ああ、もう、いいですよね。あー……」
「やっぱ木を…………レン、待て。待て待て待て悪かった舐めるな服の上から舐めるな!」
「じゃあ生で?」
「舐めるな」
股間がしっとりした。さすがに今回は若干やり過ぎ感がある。水上さんも顔が真っ赤である。さすがに心臓が暴れている。
レン本人は残念そうに指なんか咥えていた。
「……レン? お前大丈夫か?」
「はい? え、何かおかしかったですか?」
「いや、行動がおかしいのはいつも通りだけど、ちょっと度が過ぎているような気がしてさ」
「そうだよ水上さん! そ、その、舐めるのはまずいと、思うよ!」
「おいしいんですが……そうですか」
「まずいはそっちの意味じゃないけどな。…………大丈夫か」
一応小声で訊いてみる。レンは僕の耳元に顔を寄せて、同じく小声で答えた。
「……大丈夫だと思います。少し欲求不満が溜まっているだけかと」
「そっか」
「心配させてすいません」
顔を離すと、レンは困ったように笑っていた。
「お前ら、それで付き合ってないっていうんだから不思議だよな」
「え!? そうなの!?」
正人の一言に水上さんが信じられないという目で僕たちを見ていた。
「か、身体だけの関係ってヤツ、なのかな?」
「水上さんも結構エロいね」
そう言ってやると水上さんは顔の前で車のワイパーのように手を振った。しかし、自分でもあながち間違っていないと思ったのか、その後その場で蹲ってしまう。精神攻撃から身を守る構えである。
「鳴葉がいやらしいなんて、私と友達になった時点でわかりきったことじゃないですか」
「いや、わからんだろう。火と水みたいな関係かもしれない」
「火と水だったら友達になれないと思うんですよね……というか、これだけユリユリしてるのにそれはないでしょう」
「百合なのか」
「舐め合った仲です」
「舐めてないよ!?」
水上さんが顔を真っ赤にして暴走気味の会話に乱入してくる。ナイスなツッコミだ。ツッコミ不在だったらどうしようかと思っていた。
そのツッコミにレンが頬を膨らませる。
「じゃあ、鳴葉は私のこと嫌いですか?」
「いや、好きだけど」
「性的に?」
「ではないよ!」
そんな会話をしながらレンは水上さんに絡む。水上さんは苦笑いでかなり劣勢だ。もしかしたら今日中にそっちの方面に目覚めてしまうかもしれない。残念だが、僕には力になれそうもない。
というわけで。
「火は正人がなんとかするとして、篠本さん、釣り行く?」
「へえ、私をパシる、もしくはハブろうってわけ?」
「いや、僕も一緒に行くよ。釣り竿は三本あるんだからさ。レンと水上さんは遊んでるから調理班とか……正人は火を起こすから、僕たちは釣ろう」
「ふうん……まあいいけどね」
篠本さんが悪そうな笑みを浮かべる。
僕自身この選択は少し怖いが、篠本さんと話したいこともある。一ヶ月、その手の話は篠本さんとしていないのだ。
彼女を宿にしているのは、果たして食ノ蟲か睡ノ蟲か。それだけでも知りたいと思うのだが、果たして上手くいくだろうか。
「おい、錬次! 俺が火起こしってどういうっ……」
「錬次、どこへ行くんです?」
「ああ、ちょっとそこまで篠本さんと釣りにね。レンと水上さんは薪とか、食べられる植物とかあったら採っといてくれ。さすがに正人は大変だろうからな」
「…………わかりました。お気を付けて」
「? おう」
抗議するホモと何故か冷たい目で僕を見送ったレンに背を向け、釣り具両手に僕と篠本さんは川の音のする方へと向かった。
川への道は近いと言うには遠過ぎ、遠いと言うには近過ぎた。微妙な距離である。目には見えるが、なかなか辿り着かない。
その道中、篠本さんはやけに不機嫌だった。
「…………はあ」
「篠本さん、どうしたんだよ」
「ああ? オレがなんだって?」
「あ、うん、いや、苛々してるなあ……とか、思って」
おっかなびっくり指摘すると、篠本さんはさらに顔をむすっとさせて僕を睨む。
むすっとである。
いつものようにギラギラしていない、気だるげな猫のような…………それじゃないなら寝起きのライオンのような。そんな顔だ。
油断は出来ないが、基本的に篠本さんは元僕が好きだった人。と言うかまだ時々ドキッと来ることもある。なので、こういう篠本さんは素直に可愛いと思ってしまう。
「荷物?」
「ンなんじゃねえよ。釣りって言うと、さ。その……」
「あ、虫?」
「魚に触らないといけないだろ……?」
「…………」
最近のニュースで若者の魚離れが進んでいるという話題があったのを思い出した。調理が難しい、そもそも魚のさばいたものが売っている、触れない、気持ち悪い、無理、と様々なコメントをする若々しい奥様たちがそれが若者の低能を嘆く番組の題材とは深く考えていないのか、最大限の笑顔を振りまいていた。
さて。
僕は生温かい笑顔を篠本さんに向ける。
「篠本さん、魚苦手なの?」
「うっ……いや、食べる分に問題はないんだ。けど、あの、くぱって開いたえらが」
「篠本さん、くぱって言わない」
「は?」
「あ、ごめん。今の条件反射だから気にしないで」
下なネタの臭いがするとすぐこれだ。レンも妙な習慣を付けさせてくれた。
「とにかく、オレは魚嫌いなんだ」
「そっか……そりゃ失敗したな。篠本さんが調理……ってこれも魚に触ることになるのか。火起こしは女の子にやらせることじゃないかな、って思ったし」
最後の一言に篠本さんは眉根を寄せる。
「女の子、ねえ。女の子贔屓なのはいいことだけどさ、それ、オレに適用していいのか?」
「当然。篠本さんはそれはそれは魅力的な女の子だとも」
「へえ…………それはこういうトコロか?」
そう言って篠本さんは自分の胸を釣り竿の柄でつつく。つつく度にその大きな胸はゆっさゆっさと揺れる。生唾さんが喉を通過なされる。素直に感想を述べよう。
「…………いや、違う。その胸はすごく魅力的で揉みしだきたいけどそうじゃない」
「お前今すごいこと言ったの気付いてるか」
篠本さんが呆れ顔だった。撫でまわしたいくらいの方がソフトだったろうか。
こうして話している間にも僕は釣りの準備のため、竿を組み立て、針を付け、付属していた餌の暴れる白い幼虫を針に突き刺す。
「よっと」
ひゅん、と竿が風を切る音の後、水の中に餌の落ちた音が静かに後を追った。
「…………」
「………………」
川の音と緩やかに泳ぐ釣り糸が、会話を自然と途絶えさせた。
会話がない分、僕の神経は手の中にある釣り竿のグリップに集中する。かすかな振動、重み、糸の動き。釣りは素人だが、急いては釣れないということくらいは知っている。
竿は常に揺れている。しかし、川の流れによるものだ。強い引きがなければ。
「…………なあ、それ、引いてないのか」
「ああ、まだだね」
「そっか」
「うん」
「…………」
篠本さんは退屈そうに川辺に生えた背の高い草をむしっている。釣り具は傍らに投げ出され、ひたすら草をむしっている。
僕の意識が二分された、その時。釣り糸が唐突に川の流れに逆らって動き、竿が大きくしなる。
「来たっ」
興奮が湧きおこる。しかし、衝動のままに勢いよく引いてしまうと魚が針から外れてしまうことがある。慎重に、確実に、なるべく素早くリールを巻く。
竿はなかなか重く感じる。糸を引くにつれ、日を跳ね返す銀が見え隠れする。最後、僕はひと思いに引き上げた。
「…………へ?」
こちらの様子に注目していたらしい篠本さんは目の前に迫って来たそれをただ見ていることしか出来なかった。
僕の手のひらほどある魚が放射線を描きながら宙を舞い、篠本さんの顔に張り付いた。
「あ」
「………………」
「しの、もとさん?」
篠本さんの顔から血の気が引いて行く。
「あああああああああやだやだやだやだやだやだやだやだやだ」
悲鳴を上げて篠本さんは魚を森の方へと投げ捨てた。宙を舞う魚。銀色は木に濡れ雑巾のように叩きつけられた。
「何すんだ! お前殺すぞ!?」
涙目の篠本さん。僕の胸倉を掴み、前後に揺さぶる。幼くなくても揺さぶられっ子症候群まであと少しというところ。そういうおもちゃのように僕の首は揺れる。
「いや、ごめん。今のは運命の悪戯だ」
「じゃあお前がここで死ぬのも運命の悪戯かな」
「胸を揉むから許してくれないか」
「とりあえずその股にぶら下がってるヤツ、引きちぎるか」
「痛い痛い痛い痛い」
篠本さんが握りつぶすように手をゆっくりと握る。僕の生殖器官の末路が鮮明に浮かぶ。
「嫌なモノ近付けたのは謝る。本当にごめん。だから僕の男生命を奪わないでくれ」
「元はと言えばお前が胸を揉むだのしだくだの言ったからだからな」
警戒する獣のように睨みつけてくる篠本さん。仕方なく篠本さんにこれ以上干渉するのを諦め、息も絶え絶えな魚を拾い、生簀のバケツに入れる。
死んだように動かなかった魚は、それが嘘だったかのようにバケツの中を元気良く泳ぎ回っている。仮病の上手い奴だ。
しばらくその様子を眺めていると、急に篠本さんが立ち上がる。思わずバケツを蹴飛ばしてしまった。魚が跳ね、非難するように僕の頬に水をかけた。
「ど、どうしたの」
「いや、面白いこと思いついた」
ぱさり。篠本さんの着ていたTシャツが落ちる。
……………………?
また一枚。今度は、黒い、胸を覆っているはずの下着が落ちる。
僕は魚と意思疎通を試みる。この状況、相談できる相手が欲しかった。
「さて」
草を踏む音がこちらに近付いてくる。僕の想像が正しければ、篠本さんはあられもない姿を晒しているはずである。
「ほら、顔上げろ」
「ぐっ!?」
髪の毛を思い切り引っ張られ、顔を上げさせられる。
「うおおお…………!」
目の前には、左腕で胸の先端だけを覆った篠本さんが、少し頬を赤らめて、しかしいつも通りの悪そうな笑顔を浮かべていた。
僕の心内環境といえばチョロいもので、荒れに荒れて復興までに何年かかるかという被害を被っていた。
「見せてやる。揉ませてやる。舐めさせてやる。なんだったらそれ以上のこともしてやるよ。…………その代わりに、久東錬次。お前はオレに服従しろ」
「…………!」
胸にあった熱気が急速に冷えて行く。妖艶に笑う篠本さん。僕は純粋に性欲でレンを裏切ってこちらに付け、と言われているのだ。
好きだった女の子。それだけで自然と鼓動は速くなるというのに、昼間、外、目の前で今にもこぼれそうな、むしろこぼれたのを押さえているだけの胸。
男なら据え膳食わねばなんとやら。この場合交渉なわけだが……正直、辛い。
目を離せず硬直していると、篠本さんが視線を落とした。
「……こっちのテント張りもなかなかだな」
「篠本さん、それ、オヤジっぽいけど」
篠本さんは靴を脱ぎ、綺麗な素足を晒す。そのまま、僕の太ももを足で撫でまわし、熱い吐息を耳元に吹きかける。
全てが僕を欲情させるための行動。籠絡するための戦略。わかっていつつも、何故この状況が唐突に完成したのか、そのことばかりに頭が回り、上手く理性をコントロール出来ない。
意志が揺らぐ。そもそも何をためらう必要がある? 服従したからといって、レンに協力出来なくなるわけじゃない。そう考えれば、僕はこの目の前の幸福を堪能してもいいんじゃないか?
僕の手は、自然と欲望の塊へと引き寄せられていく。
あと少しで届く。あと少しで、温もりと柔らかさが、この手を癒してくれるだろう。
ぱちゃっ。
「!」
僕の手が温もりと柔らかさに包まれ、そのまま地面へと押し倒される。
つまり、僕が触ったわけではなく、篠本さんがこちら側へ倒れてきたのだ。ああ、これは死んでもいい。割と本気でそう思った。
鼻腔をくすぐる女の子の匂い。何もまとわない、胸の柔らかさが直に僕の胸を包み込む。のしかかる人の重さが、何とも言えず興奮する。
「篠本さん……」
「――――あ、ああ」
そんな桃色一色な状況であるにも関わらず、篠本さんは引き攣って涙目になっていた。一瞬で身体の主導権を取り戻す理性。
「……大丈夫?」
「と、と、取ってくれ。これ、取って」
篠本さんが僕の手を臀部まで誘導する。つまり尻なわけだが、僕は篠本さんの手で、そこまで手を運ばれたのだ。僕の意思ではない。僕の意思ではないんだ。ここ、大事なところ。
「は、早く! 中にいるから……!」
「はい!?」
僕の手が篠本さんの肌に触れる。一瞬何が起きたのかわからなかった。
僕の手は導かれるままに、篠本さんのジーパンの中へと潜り込んでいた。そして、その中にある下着の中へ。
「え、ちょっと待って、篠本さん!? 早まらないで」
「いいから! 中にいるんだ、早く!」
「中にって……」
とりあえず冷静に考えてみよう。
篠本さんは慌てている。この状況でエロい話というのは明らかに筋違い。なのでこの一見誘惑の一環に見えるこの行為は、実は必死で気付かぬ内に、だろうか。
下着からは手を抜く。間違いが起きかねない。主に僕の理性的に危ない。感触がアウトだった。
なるべくジーパンの方へ手を寄せ、中を捜索すると、冷たく張りのある何かがそこにあった。僕はその時点で、今起きたことをすんなり把握した。
僕はそれを掴み、引きずり出す。
「お、おい! どこ触って……あっ、や」
「取れたよ」
「へ? …………あ、ああ、ありがと…………う…………」
篠本さんの言葉はどんどんフェードアウトして行った。恥ずかしそうに顔を背けるという行為が意外で、僕はしばらくその様子に見入っていた。
もしかすると、レンと篠本さんの仲が悪いのは、お互いが似ているからなんだろうか。そんな仮説が浮上するのも束の間、冷静になった篠本さんは僕の腹を一度殴った後、何事もなかったように先ほど座っていたところに戻って行った。
結局、釣れた魚は人数分はない四匹。
あの後も篠本さんは釣りをしようとはせず、孤独な戦いを続けて四時間。まだ日が高いとは言え、夏の最盛期と比べれば暗くなるのは早い。帰りは暗い森の中だ。明かりはない。
僕は早々に釣り具を片して帰路についた。篠本さんは何も言わずに僕の隣を歩いている。
「お前、あのことについて何も言わないのな」
「そっちが何も言って来ないからだよ。どちらかと言うと僕はいい思いしたしね」
「はっ、サイテーだな、お前」
「確かに胸触った挙句パンツの中にまで手突っ込んでしまったしな~」
てっきり殺意オーバードライブで八つ裂きにされるものだと思っていたが、篠本さんは少し恥ずかしそうに顔を逸らしただけだった。
…………意外だ。
だから、なのか。二人だけのこの時間がとても息苦しく思えた。まるで、純粋に篠本さんが好きだった頃へ戻ってしまったかのようだ。意味もなく言葉に詰まり、挙動不審が当たり前だった無知な少年の頃。
随分昔のように思えて、ほんの数カ月前の出来事なんだよな、これが。
「これでオレが妊娠したら責任取れよ」
「結婚? いいよ」
「は!?」
「冗談」
篠本さんが顔を真っ赤にして拳を振り上げる。普通に腹を殴られた。
振り上げたのに腹というフェイントだった。
「つまんねえことを言うな」
「うぐ……いや、妊娠してたら責任は取りますがね……」
「む」
篠本さんはまた顔をうつむけた。どうやら直接的な愛の言葉が苦手らしい。
木の枝を踏む音。葉をすり潰す音。飛び去って行く鳥の羽音。どこかしっとりとした夜の空気。穏やかな世界が、無言を促す。
口を開いたのは赤く頬を染める蟲床の少女だった。
「進展は、あったのか」
「ん?」
「蟲床に関して、だよ」
「ああ……」
蟲床という単語が僕の背筋を冷たい指で撫でる。慣れたくはないけれど、やはり心臓に悪い。胃にも悪い。
周囲に人目がないことを確認して、答える。
「まったくないよ。長い目で見てるけど、心配になるくらい何もない」
「そうか」
目を伏せ、空を仰ぐ。それは考えている仕草に見えた。
「なあ、久東。知りたいか、蟲のコト」
「教えてくれるならな」
「本気で、言ってるか?」
「当たり前だろ。早く終わらせれば被害を受ける人はいなくなるし、レンは解放されるわけだし」
「その程度に考えてるんなら、知らない方がいいぞ」
「は?」
篠本さんは歩調を早め、僕から遠ざかって行く。
「お、おい!?」
「そろそろ合流だ。この話はまた今度にした方がいい――――でしょ? 久東くん」
篠本さんの言う通り、レンと水上さんの話し声が聞こえてくる。蟲床の男勝りな少女から容姿端麗文武両道の女神様へ。
背を這う虫を追い払えぬまま、二人の世界は終わりを迎えた。
五つのテントに囲まれた焚き火。正人は達成感を露骨に顔に出して僕たちを迎えた。
「おお、錬次! 見ろよこれ!」
「お前……マジでやったのか」
「おう! ……てか、それしかないだろ?」
「たぶん先生に言えばライターくらいは貸してくれたと思うんだが……」
正人は固まっている。誰もが正人のようにがむしゃらに木を擦って火を点けられるわけではない。救済措置はとられているはずである。
「それ、言えよおおおおおおお!!」
「いや、気付けよ」
こうして成し遂げる力があるのは素直に評価出来る。正人のサバイバル能力は僕より断然上だろう。ただ、少し頭が緩い。
「まあ、いいけどさ」
「お前って異常に前向きだよな」
「魚、釣って来たんだろ?」
「ああ、四匹な」
「なんだよ少ねえなあ…………ってあれ、四匹? 人数分なくね?」
「お前は魚嫌いだろ?」
「いや? え? なに、俺の分がないの!?」
「で、でも佐藤くん、ほら、キノコあるよ? 食べられるしおいしいよ!」
水上さんが毒々しい色をした傘の大きなキノコを正人に見せる。言葉の最後にはしっかりと小声で「たぶん」と付けた。急に正人が気の毒に思えた。
とりあえず準備しなければ食べるどころではない。食材の問題は先送りに、僕たちはせっせと食事の準備を始めた。
僕、篠本さん、正人はとりあえず食器の準備。食器は《夢現》に出向くことで紙皿や櫛、箸などが手に入った。包丁やまな板も調達し、調理班はレンと水上さん……なのだが。
「鳴葉」
「なに、魅上さん」
「魚って、どうさばくんでしょう。そもそも、包丁の持ち方これで合ってますか?」
「えっと……とりあえずお腹開けばいいんじゃないかな。包丁は、うん、それで、いいかな?」
なんか、ダメな感じだった。
「なあ、錬次。あれ」
「ああ、正人。言わなくてもいい。相当ヤバいぞあれは」
「これって魚がすり身になって出てくるパターンじゃないか?」
「はは、笑えない」
ズダンッ
包丁が降り下ろされる音なのに、頭に浮かんだのは処刑台のギロチンだった。
正人と顔を見合わせる。篠本さんは呆れて顔に手を当てている。考えている時間はない。
「正人、料理は?」
「あれよりは出来ると思う」
「篠本さんは?」
「底々」
結局、そこからは当初考えていた役割など関係なしの共同作業。美味い飯は苦労しなければ得られないということか。
料理、というより魚の内臓を取り出したり、レンと水上さんが採って来たキノコや木の実(ほとんど食用ではなかったが)を切ったり潰したりすることほんの数分。
焼き魚にその他植物。そんな控えめな食事は火の爆ぜる中、静かに食されて行った。
さすがに気の毒だったので、正人には周囲の魚から少しだけ身を分けられた。
その後、自然な流れなのかどうかはわからないが、特にすることもなかったからなのだろう。夜の森に煌々と輝く焚き火を見ながらの雑談タイムが始まろうとしていた。
「水上さん、レンの事魅上さんって呼んでるけど、なんで苗字?」
「いや、なんとなくだよ。別に色夜ちゃんって呼んでもいい、の?」
「……まあ、構いませんよ?」
レンはむず痒そうな顔で答える。そういえば、レンはこの名前が嫌いだと言っていた。少し複雑なんだろうか。
……レン、か。この記憶を思い出さないと、ちゃんと謝れもしないんだよな。
わいわいと騒いでいる人の輪の中、篠本さんが急に立ち上がり、森の中へ歩いて行く。
「篠本さん?」
「ちょっと、お花を摘みに行ってくる」
照れたような顔でそんなことを言ってのける。あの仮面はなかなか剥がれそうにない。
それを見送ると、レンが突然に隣に寄り、耳元で囁く。
「……たぶん、自慰ですよ。おなにー」
「レンさん、どうしたの? 欲求不満かな?」
「確かにそれはあるかもしれませんが、あの顔はお花摘むって言うより蜜壺ひっかきまわすって感じじゃあないですかあ……」
「わかんねえよその感覚。わかりたくもねえよ」
「お前ら……なんて会話してんだ……?」
「お花……蜜壺……」
正人が呆れ顔で見ている。水上さんは赤い顔で会話の端々を拾って何やら妄想している様子。ああ酷い酷い。
「あ、あの、私もお花摘んで来るね?」
「鳴葉、今の流れだと完全に私の言った方に聞こえちゃいますよ? どもってるところとか」
「そんなことあるわけないよ!? もう……!」
水上さんは早足で森の中へ消える。篠本さんと同じ方向だ。こちらの方向には指定されたトイレがあったはずだからそっちを使うんだろう。森の中でハプニング、なんてことはないはずだ。
「あ、トイレと言えば、風呂はどうする?」
正人が唐突に声を上げる。
「なんでトイレと言えばなんだよ?」
「清潔って意味でとか……とにかく! どうする? 女子は入りたいって言うと思うんだが」
「まあ……そうだろうな」
レンをちらりと見る。控えめにそっと頷いているのを見て、思考を巡らす。
水はある、が綺麗かどうかは正直わからない。川の水だ。ドラム缶を風呂にする、というのもドラム缶あればこそ可能な選択肢である。あとは《夢現》で調達出来る事を期待するしかない。
「……僕もお花を摘みに行くか」
「男子は熊を狩りに行くんじゃないですか?」
「今の環境だとそれは冗談にならない」
「材料取りに行くのか? だったら俺も行くぞ」
「私も行きます」
「あー……いや、火の番が必要だから、レンは残ってくれるとありがたい」
「錬次っ……! 私よりそのホモを選ぶんですか!?」
「いや、ホモの方が重いもの運ぶのに使えるからさ」
「ホモを修正してくれ頼む……!」
ふくれっ面のレンを残し、正人と共に、先に女子二人が消えた道を行く。
密かにハプニングを期待していたのは、内緒だ。
「うわっ」
《夢現》を見て思った最初の感想はその一言だった。
建物に問題があるわけではなく、その現状である。
トイレを求めてきた女子やら、物資を求めてきた男子やら、そこは人の海だった。
トイレ待ちのそわそわとした女子の中に、苛々と腕を組み、指で一定のリズムを刻む篠本さんを見つける。僕らに気付くと、篠本さんはやれやれといった風に両手を肩口で左右に開いて上げた。
「面倒なことになってるな、これは」
「…………おっ、でもドラム缶あるみたいだぞ。建物の中の方だけど」
正人は人の波を掻き分けてドラム缶へ辿り着いた。その隙を突いて篠本さんが話しかけてくる。
「どうなってるのかしらね。こんなに御手洗いが混むなんて、先生方も想定外だったでしょうね」
「まあ、草むらでって言っても、草むらってほど草も生えてないしな。男子も覗こうとしている奴がいないとも限らない。……いや、絶対いるだろうし」
僕だって少し期待していた一人である。居心地が少し悪い。
「そうね、確かに野外で下半身露出して排泄物を垂れ流すのなんて、抵抗あるわよね」
「言い方が少し素寄りになってる」
「あら」
うっかり、と手を口元に当てる。その直後、誇らしげなにドラム缶を抱えた正人が戻ってくる。
「よし、帰るぞ」
「ドラム缶、一人で行けるか」
「大丈夫だけど?」
「じゃあ、他にも何か持って行く。先に行っていてくれ」
「そっか」
正人は特に何を疑うでもなく、拠点へと戻って行く。直後、篠本さんが僕の腕を掴む。
「ど、どうしたんだよ?」
「いや――――ちょっとオレ、我慢の限界が近くてな……」
ぐいぐいとどんどん人気のない場所へと引っ張られて行く。篠本さんの言葉の意味をいまいち理解出来ないまま、目的地と思われる場所でその足は止まった。
篠本さんは周り見回し、僕たち以外に人がいないことを確認すると、木の陰に入ってしゃがみ込んだ。
とりあえず僕もしゃがみ込むと、耳に拳が飛んできた。文句の前に細く白い指が目に襲来する。
「アホかお前は。女子の小便を間近で凝視する奴がどこにいる。この変態」
「あ、え、す、すいません!」
思わず敬語になりつつ、その木の反対側まで摺り足で移動する。冷汗が背中をしっとりと濡らした。
ジッパーを下ろす音。絹擦れの音。少しの静寂。
心臓が力強く拍動する。早くなり、感覚が鋭敏になる。
小さく、地面を打つ水音が聞こえ始める。
聞いてはいけないと思いつつ、その音は妙に鮮明に耳を通る。やがて、溜まった水に注がれる音に変わり、徐々に勢いがなくなって行く。
恐らく、人生で一番興奮した瞬間だった。……僕はちょっとまずい性癖があるかもしれないな、と思いつつ、最後にごまかしが利くように祈りながら耳をふさいだ。
「久東」
ふさいでいても聞こえる音量で篠本さんが呼んだ。ゆっくりとそちらを向くと、未だジーパンを下ろしたままだったので慌てて目を逸らす。
「どうだった? 貴重な女子の排泄音。生音だ」
「どうと言われましても困ります」
「興奮したかって訊いてるんだよ」
そう言いながら服装を整え、篠本さんが近付いてくる。
「いやあ、しまったしまった。用を足したはいいが、拭くモノがなかった」
僕の手は白い手に包まれる。何故か、その手は手を洗った後のように濡れていた。僕の思考は今の言葉に直結する。
「ちょっ…………!」
「それは草に付いていた水滴だけどな」
頭を木に叩きつけた。すごく恥ずかしい。純粋に死にたい。灰になって大気圏外へ散り散りになりたい。
そうしていると、篠本さんは頭を僕の胸へ預けてくる。さらなる追撃を予感して僕は精神的防御態勢を強化。
「こんなに鼓動速くして、お前って可愛いよな」
「ホント、篠本さんってサドだよな」
嘆息しつつ答えると、デコピンが僕の鼻を襲う。
「お前がからかいやすいせい、だよ。ほら、早く戻るぞ」
僕の反応がそこまで愉快なのか、上機嫌に歩く篠本さん。
機嫌が取れたなら良しとしよう……。それにしても、篠本さんは恥ずかしくなかったんだろうか。だとしたら女の子としてどうかと思う。
「あ、あと」
綺麗なターンにプラス何かを投擲。慌てて受け取ると、それは丸めたティッシュだった。
「それ、適当に捨てるか、お前が有効活用するかしてくれ。他人にあげたら、いくらオレが寛容だとは言えさすがに殺す」
それだけ言って歩きだす。僕はというとその場に固まって、このティッシュの正体を考えていた。といっても正体は明白だ。結果として篠本さんは拭くモノを持っていた、ということである。
僕はそれをポケットにしまおうとして、思いとどまり、しばらく躊躇した後、《夢現》に設置されていたゴミ箱へ丁重に納めた。
「なんだ、もったいない」
篠本さんが猿の間抜けさを嗤っていた。
どこか気まずい二人きりの帰り道だった。それは釣りの帰りの時の感覚とよく似ている。違うのは夜か昼か、何かを持っているかいないかくらいのものだ。
「なんか、今日の篠本さんって誰かを連想させるよな」
「どこかの魅上さん、とかか?」
「……」
暗闇の中、先行する篠本さんの背中が笑ったように揺れた。
「面白いこと言うな、久東は」
「そこまで面白いことかな」
「具体的にはどこが似てるんだ?」
「どこがってそりゃ……」
「エロいところか」
言おうとしていた言葉とシンクロする篠本さんの言葉。口ごもる僕をしてやったりという顔で覗きこんで来る篠本さん――――――というのは僕の想像上の話。
心臓を握られたような錯覚。汗の代わりに噴き出しているのは氷水。視界を覆う暗闇が一層濃くなる。地面を形作っていた枯れた枝葉がぐずぐずと崩れ出し、僕の足を絡め取る。
目の前にいるのは先ほどまで笑い合っていた、ただ男口調な女の子ではない。
猛禽か、あるいは獅子の類か。僕を捉えた鋭い双眸が、闇夜に光る。
「似てるっていうか、やってることはそのままなんだけどな」
「そのまま……?」
「ああ、そのまま。色欲に駆られている振り。蟲の影響を受けている振りだ」
「…………振り? 影響は受けてるんじゃないのか?」
僕は篠本さんの言葉の意味がよくわからず、訊き返す。
「蟲床の影響をそんじょそこらの欲求不満と一緒にしてもらっちゃ困る。あの程度なら苦でもない。真似出来るようなフラストレーションが、苦であるはずはないんだ」
獣は続ける。
「胃が絞られるような空腹を感じたことはあるか? 口を開けば唾液があふれ、腹の虫が物資を運べと叫んで来る。それはただの欲求不満だ。蟲はそれをさらに増幅する。引き籠りがする一日の絶食と、飢餓に苦しむ地域の子供の毎日。その差が現実と非現実の差。真似なんてもってのほか、それは失礼だし、不可能だ」
いつになく饒舌になった篠本さんに不安を覚えつつ、その言葉の意味を考える。
「つまり、蟲床によって発生する欲求不満は耐えられるようなものじゃなくて、レンのソレは軽過ぎて、だから、レンは嘘の振る舞いをしてるってことか? でも、どうしてそんなことを」
「どうして、か。考えられることは限られてくるが……そうだな。蟲という存在の脅威性を誤認識させたいから、じゃないか」
「それこそどうしてだよ」
「考えても見ろ。お前、今まで蟲にどんな認識を持って来た? 実は大して危ない存在だとは思っていないんじゃないか? お前は蟲の影響を受けないから仕方ないのかもしれないが、それにしたって危機感がなさ過ぎる」
確かに、というと蟲が危険ではないと思っている風に聞こえるかもしれないが、正直なところ、接触が少なくなっている今、食ノ蟲感染者に襲われた当初よりは認識が甘くなっているのは否定出来ない。
「お前が今考えていることは大体想像出来る。食ノ蟲感染者がどうのこうのと考えているんだろう? 違うんだ。オレが言いたいのは、蟲床のコト。魅上色夜のことだよ」
「レン?」
何かが動かされる予感がした。日常をかろうじて支えていた、何か。
「お前は、魅上が誰かを感染させるという可能性を考えたことはないのか?」
その言葉は、魔法のように僕を縛り付けていた。




