第十九話 一ヶ月
一ヶ月が経った。
何も起こらず、何もせず。一ヶ月という時はあまりにも早く過ぎた。
いや、何も起こらなかったわけじゃない。犠牲者は増えた。一日一人なんて早いペースではないけれど、一ヶ月の間に十五人。それもこの家の近所だ。
家の周囲には、警察官がうろつくようになった。
僕が篠本さんは蟲床だ、とレンに打ち明ければ何かが劇的に変わったかもしれない。何が、なんてわからないけれど、何かが。
そもそも、僕らは争わずに終わらせると決めたのだ。そのためのキスだ。蟲床を正常な人間に戻すための、主ノ蟲宿主による体液の粘膜付着。血液だけは細心の注意を払い、傍から見れば実にうらやましい、僕たちにしてみれば命懸けの生活を送った。
篠本さんを警戒はするが、殺し合いをしようというわけじゃない。だから、これでいいのかもしれない。
何もないのが、そもそも平凡で、当たり前なことなのだから。
それでも、どうしても焦燥感が残るのは、いつかは解決しなければならない問題であり、解決するのは他でもない、僕たちでなければ、という意識があるからだろう。
そのためには、一分一秒たりとて無駄にしてはいけない。そのはずだから。
…………今日も、進展は見られない。
「あ、そういえば来週、林間学校だから。以上、解散」
「「…………は?」」
元々いい加減な教師が担任ということはわかっていたが、このことをきっかけに、どうにもその認識は再度改め、そもそも教師陣にハブられているから情報が行き届いていないんじゃないか説が有力になり始めた様子(僕の中で)。
行事があると一週間前に知らされた僕たちクラス一同はとりあえず一瞬呆けた表情を浮かべ、その後にテンションは急上昇。足にばねでも付いているのではと思うほど跳ねまわる生徒が現れる始末。奇声と言うか咆哮と言うか、は教室外にも響き渡り、教室内に居た人間たちは突然アンプに繋いだギターを耳元で、それも大音量で掻き鳴らされたような状態に陥っていた。
要約すれば。
林間学校が来週にあるのでハイテンション。皆うるさい、である。
驚いたことに、今日そのことを知らされたのは僕たちだけではなかったようで、その騒ぎは隣のクラス、そのまた隣、と伝染して行く。何が驚いたって、担任教師がハブられていないことはもちろんだが、こんな急な行事が存在したことである。
年間行事予定に載っていただろうか……? 見覚えがないような気がする。どうでもいいことではあるが。
「おい! 錬次! 林間学校だってよ!」
正人が暑苦しく詰め寄って来る。本気で鬱陶しいので、僕の中で最も鬱陶しそうな対応をプレゼントする。
「知ってる知ってる。同じ教室にいたんだから知ってる。暑苦しいな、ホモかお前」
「なんでもホモネタに持って行くなよ!? ……まあいい、今はこの雰囲気を楽しむことにしようじゃないか!」
「ホモを認めた、か。大人になったな、正人」
「いや、認めてはいねえよ!? 置いておこうってだけだからな!?」
「はいはいホモホモ」
地団太を踏む正人を呆れて見ていると、僕の右肩にそっと、誰かの手が乗せられる。
「楽しみね、久東くん」
「…………そうだね、篠本さん」
そこには、輝く笑顔の仮面を被った篠本さんが立っていた。本性を知る前なら動悸、息切れ、めまいなどの症状は当たり前のように顔を出してしどろもどろこの上ない僕がこの場に爆誕していたのだろうが、今は素直に喜べない微妙な心境である。
これでもまだ、知ってしまった頃に比べれば格段に和らいだ方だ。冷汗は出なくなったので、それは間違いない。
「でも、なんだってこんな唐突に」
「さてね。でも、まあいいんじゃないかな。楽しいことは多いに越したことないでしょう?」
「まあ、異論があるわけじゃないんだけど、気になるじゃないか。まさか、今日この時まで忘れてました、なんて間抜けなことがあるわけないだろうし」
「そんなことがあれば生徒からは喜びの声が上がるかもしれないけど、保護者からは批判の嵐ね」
篠本さんは楽しげにそんなことを言う。観察していてわかったことだが、篠本さんはどうやらダークな話(他人の不幸話とか悩み)がなかなかお好きなご様子。良い趣味をしていらっしゃるのである。怖い怖い。
「じゃあさ、錬次、今日皆で買い物に行かないか?」
「正人お前、まだそういう行事をやりますよ、と言われただけだろ。何が必要だとかまだ何も言われてないんだが、何を買うつもりなので?」
「そりゃおま、お菓子とか?」
「遠足かよ……」
「みたいなもんじゃねえの? 林間学校って、確か山とか行くやつだろ? 遠足だって山とか行くところあるし」
正直なところ、僕もよくわからない。何せ、これはこの学校に通って初である。この初という言葉には、僕が体験するのが初めてという意味以外にも、聞くのすら初めてというのも含まれる。
直前まで知らされていなかったところを見ると、相当無理にねじ込んだとか? 教師の事情はよくわからない。教師になろう、なんて考えたことはなかったし、彼らの働く姿を見て何か感想を持つこともなかったし。知ったこっちゃねぇのである。
いや、それにしても、正人の浮かれ具合もわからないでもない。クラスがお祭りムードで、僕ですら少しわけのわからない高揚感が脳に居座っている。
しかし、買うものすら定かではないのに買い物に行くほど思考がぶっ飛んでいるのはどうかと思う。よって、正人の眉間にやや強めチョップを一撃。
「痛っ! ちょ、錬次何すんだよ!?」
「まだテンション高いな。もう少し絶望させないとダメか」
「怖い! 錬次怖いぞその発言! 目! 目に露骨な悪意!」
一か月前に比べ、そこそこ涼しくはなったが、やはりコイツは暑苦しい。ツッコミを聞くたびに何故か苛々する。これも一つの才能だろうか。
居たがる正人を無視して中途半端に痛いチョップを連続して繰り出していると、不意に白い影が教室の出入り口付近で止まった。白い影というか髪なのだが。
「錬次」
「おお、レン。そっちもそんな感じか?」
「ええ、まあ概ね。まったく、もうちょっと上品に鳴けないものでしょうかね」
「それはちょっと意味合い変わってくるからな」
「そうですか? まあ、良い声で鳴け、というのを良い声で騒げ、と変換すると確かに無理がありますかね。主にエロさ的な意味で」
「そうだな、頭的な意味でお前はいつも通りだな」
「えへへ」
「褒めてない」
軽いチョップを一撃。攻撃を受けたレンは頬を染める。反応、おかしくないか。おかしくないな。レンだしな。
「それで? 結局錬次は買い物行くのか、行かないのか?」
「買い物というイベントは発生するわけか……別に行くだけならただだからいいんだけど、金は無駄に使わない主義だからな。たぶん何も買わないで終了だと思うぞ、僕は」
「まあ、一応来るんだよな? だったらいいじゃねえかよ。行こう行こう! それで、他の御二方も来るかい?」
正人は篠本さんとレンに向けてそんな台詞を吐く。瞬時に殴って火星まで飛ばしてやりたかったが、残念なことに僕にそんな超人的な筋力はないので実現はとても難しい。世の中、何かをしたいと思ったことほど実現には遠いモノだったりするのである。
「今、錬次から随分と邪悪なオーラを感じたんだが」
「安心しろ。中国の最高刑くらいしか考えてない」
「死刑じゃねえかよおい! 物騒だな!」
「拷問じゃないだけ潔くていいじゃない?」
「篠本? 篠本までそんなことを言うのか? あれ? お前らそんなに仲良かった!?」
「まあ」
「ねえ?」
目の前には篠本さんの悪戯な笑み。しかし、決して仲が良いわけではない。断じて。例えるなら、そう、ガキ大将に恐る恐るつるむ子分Aとか、テロリストとナイフを突きつけられた人質とか、そこら辺である。いずれにせよロクな関係ではない。いや、可愛いんだけど。可愛いんだけども! まんざらでもないけども!
「……まさか、お前が成し遂げるとはなぁ」
「成し遂げる? …………ああ、なるほど。いや、違うけどな」
恐らく、最初に本命が篠本さんだったことを言っているのだろう。そして、今はその目的、篠本さんと付き合うことを成し遂げつつあると。幸せな奴め。そんな甘ったるい関係だったらもっといちゃついている。こちとら死と隣り合わせというか、猛獣と同席というか。
「そうですよ、違いますよ正人さん。錬次は私のご主人様ですから」
「レン、どうしてご主人様だ」
「なんとなく、ペット的な意味あいたっ、ペットていたっ、ペット的な意味で」
「何故止めない」
「いえ、普通に気持ち良かったので。気持ち良かったので。快楽を感じたので」
「淡々とマゾ発言はしなくていいからな」
「豚と呼んでください」
「レン超可愛い」
「もう、錬次やめてくださいよ、こんな人前で愛を囁くなんて、いや、嬉しいですけど」
「あれ、レンさん今日は妙に多方面から攻めてくるね。そうだ、帰りはあの犬たちに会って行こうか」
「れ、錬次、そんな、こと、するんですか……!」
「いや、そんな割と本気で泣いてやるなよ……」
仕方なくレンの頭を撫でてやる。上手いこと使われているような気がしてならないが……。
「魅上さん!」
どこか嬉しそうな色を孕んだ女子生徒の声。彼女は、僕にとってこの一ヶ月の時間を過ぎた象徴ともいえる存在だった。
何せ、彼女はレンの友人だ。レンに普通の友人ができたのだ。……そもそもこの学校にレンの友人がいない、というのを知ったのすらつい最近なのだが。この友人、という枠組みの中には僕たち、いわゆるいつものメンバーは含まれないものとする。
彼女は、水上鳴葉という。短いポニーテールが特徴的だ。そして、涙が出そうになるほどに感動したのが、彼女はノーマル女子だというコト。ありがたや。
「鳴葉、どうしたんです?」
「いや、お買い物一緒に行かない? とか思ってたりしてね」
「へえ、水上さんも買い物か。やっぱり皆浮かれてしまうものなのかね」
「おいおいおい俺の時と随分反応違くないか」
「条件反射だ。ごめんごめん」
「相変わらず誠意ゼロだよなあ……!」
「逆に考えても見ろ。足元にゴミがあるのと花が咲いているのはどっちの方が気分がいい? 花だろ? ゴミなんてむしろ捨てなきゃいけないだろう?」
「そうよね、ゴミは焼却よね」
「さっきから錬次と篠本はどうして俺を攻撃する言葉しか言わないんだよ……」
スピリチュアルな風に言えばそういうオーラだからとしか言いようがないわけだが、とりあえず弄っておけばいい、という立ち位置の人間だから仕方ないのだ。この扱いが変わるには正人は何度転生すればよいのやら。
「どうします、鳴葉。こちらでも買い物へは行く予定でしたし、一緒に来ますか?」
「へ? いやいいよいいよ!」
「そんな遠慮しなくていいよ水上さん。別に僕らは長年連れ添った仲良しグループってわけでもないし」
「あら、酷いこと言うのね久東くん?」
「本当のことだろうよ。気楽に入って来ていいって意味さ。絆が脆い分だけ入るのも簡単だろ?」
「それ、結構歪んでると思うわよ久東くん……」
水上さんはそんなやり取りを動物園を巡る子供のような顔で見ている。ふむ、癒されるな。ノーマル女子ってこんなに良いモノだったか。
「わかった。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
弾んだ声で水上さんは答える。まるで、この後の買い物が愉快なモノであることをあらかじめ知っているかのように。
翌日、学校によって健康診断が行われた。林間学校前に行われるのは、当然のことと言える。
持病の有無やら採血やら、特に変わったものはない。至って普通の健康診断である。唯一変わったところ、というか不満なのだが、
「アンタが血採るのか……うわぁ」
「うるせぇよ。俺だってンな面倒なことしたかないさ」
ぼさぼさの髪は相変わらず、よれた白衣に身を包んだ髭面のこの西條というおっさんは、かなり眠そうな声で僕の腕にエタノールを塗りたくっている。ぶっちゃけるとこの男、あの黒いジャックから技術と凛々しさを抜いたような感じなのだ。信用ならない。
「ほら、力抜け」
「抜いてるよ」
「嘘付け。ほら、行くぞ~一、ニっ」
「~~~~おまっ! ニで刺すなよ!」
「別に三まで数えるなんて言ってねえだろうが。おお、お前、意外と血の色綺麗だな。腹は黒そうなのに」
「仲裁するのやめようか?」
「後でジュース奢ってやるよ…………!」
血を採り終え、ガーゼの付いたシールを張り付ける。その作業は、悔しいが手慣れていて医者っぽかった。ダメな大人のクセに。
そういえばこのダメ男、一応教員だったか。
「それにしてもさ、何か聞いてないのか」
「何かって、林間学校のことか」
「そう」
西條は面倒臭そうに頭をバリバリと(本当にそういう音がする。洗っているんだろうか)掻き、さらに面倒臭そうな目で僕を見て面倒臭そうに答える。
「知らねえよ。知るわけねえだろ。保険医に何がわかるんだよ」
「アンタだって一応学校の……それはともかくとして、アンタはもうちょい保険医らしくした方がいいと思うわけだが」
「してるだろ、採血。白衣着てるし。保険医っぽいだろうが」
「保険医が率先してたばこ吸うなよ」
はいはい、と手で追い払うような仕草をして次の順番の人を呼び入れる。
…………血と言えば。
「なあ、まさか回し打ちなんかしてないよな?」
「……おい、そんないい加減な仕事はしちゃいねえよ」
「だよな」
いや、心配なのだ。バイオハザードという単語を使う事態に陥ってしまう可能性もある。西條は不快かもしれないが、事態を知っている僕からすれば、確認しておくに越したことはない。注射器の回し打ちなんてしてたらそれ以前の問題だけれど……さすがにそこまでクズではなかったようである。
西條はまた、バリバリと頭を掻いた。
帰路につくと、レンが腕を擦っているのに気付いた。位置を見るに、どうやら採血の跡らしい。無意識なのか、どこか呆けた様子。
「痛むのか?」
「いえ、なんだか気になりまして。血が出ているというのは落ち着かないんですよ」
「あー……そうか」
「気にしなくてもいいですよ。悩みは人それぞれなんですから」
そうは言われても、完全に地雷を踏んだ気分だ。一度そう思ってしまうと、レンの笑顔も僕に気を遣っているのがわかってしまう。非常に申し訳なくなる。いっそのこと怒ってくれればまだ気が楽だ。
「レン、怒っていいぞ」
というわけで、言ってみることに。
「へ? 怒るとはどういう……?」
「だから、その、ほら。気の遣えないヤツだ、とかさ」
「別にそんなことは思ってないですよ。錬次の優しさは伝わってますから。でも、そうですね、もし一つ言うなら、もう少しいちゃいちゃ」
「残暑長引くな」
「ここぞとばかりに話逸らさないでくださいよ」
レンは拗ねたように頬を膨らませる。シリアスになれば、いつもの調子で雰囲気を和ませようとするのがレンという人間の性格だ。それはため息となってこぼれる程度には、僕に申し訳なさを感じさせる一因となっている。
少しくらい、怒ってくれても良いだろうに。
それが我がままだとわかっていながら、しかし望まずにはいられない。それくらいには僕らは気を許せる仲のはずだから。それとも、やはりあの《記憶》を思い出さない限りは――。
「レン――――昔は、こんな日があったかな」
「……こんな日、というのは?」
「こうやって馬鹿みたいな冗談を言い合ったりさ」
「私が性的な知識を身に付けたのは中学始めですから、さて、どうでしょう」
「……待て、早くないか?」
「そうですか? そういうものだと思っていましたが……。保健体育の教科書に載っている男の子の図は冷静に見られる程度には知識は付いてましたよ、その頃は」
「冷静にというと?」
「それはまあ、この男の子では女の子に十分な快楽を与えることは出来ないな、とかですかね」
「そんなむごいことを言ってやるなよ……どんな中学生だ」
「別に普通じゃないですか。その時期の女子というモノは自慰を覚え、男性に興味を持ち、下ネタ大好きな……という感じでは?」
「そうなのか!? てか自慰って……」
「? してない女子はさすがにまれでしょう?」
「やめろやめろやめろはいはい! 僕に妙な現実を吹き込むな!」
「かく言う私も一日三回」
「………………」
「想像しました?」
「いや!? 違う違う! そっか、そういう年頃の子って結構過激なんだな~少女漫画の影響かな~とか考えてただけだだだだだだ」
「錬次……意外と初心ですね」
レンは新しいおもちゃを見つけた子供のように悪戯な笑みを浮かべ、怪しく目を輝かせる。そもそもそういう話に慣れるような環境にいた覚えはない……!
「リアルなのは勘弁だ」
「まあそうですね。さすがの私も自分の性処理の話となると、例え錬次と言えど、少し恥ずかしいものがありますね」
「普段も恥ずかしがれよ……」
「羞恥に歪む顔が見たいですか。ですが残念ですね、羞恥に歪むのは錬次の方です」
「僕に何が起こるんだよ……」
「何が起こるんだ……? と言ったは良いものの何も怒らず、恥ずかしい思いをします」
「確かにそれは恥ずかしい」
僕が想像したのとは別種の恥ずかしさだが、羞恥心に種類も何もあるまい。恥ずかしいもんは恥ずかしい。
……見事に話、逸らされてないか。
「はあ…………まあ、いいか」
「どうしました? ため息吐くと幸せが逃げるらしいですよ」
「幸せに足が付いているとは思わなんだ」
「瞬間移動ですよ」
「超能力の使い手だったか」
他愛もない話。一ヶ月続くこの平凡な内容。普通の学校生活だ。欲ノ蟲なんて微塵も関与しない、彼女と出会う前まで当たり前にあった生活だ。
そして、全てが済んだ後に訪れるであろう生活でもある。
普通の人間の当たり前。
――――――だから、今は訪れるべきではない時間ではないのか。
どうにもならないのは承知している。今この時、どうにかなる可能性は十分にある。非現実は確実に現実を浸食している。ちびちびちぎって来ているのか、がっつり食らいついて来ているのかは全くわからないけれど、それは絶対のリアルだ。
リアル…………横文字にするとアンリアルクイーンなどと名乗った少女、九字切八重子が思い出される。あれから一度も会っていないが、彼女の登場は非現実の濃度が増していることを意味しているとは考えられないか。
馬鹿馬鹿しいまでの異常性。より高い非現実性を受け入れれば、些細なものは気にならなくなり、平凡は違和感すら覚えるようになる。
違和感。僕の感じているモノの正体は、この曖昧すぎる数文字でしか表わせない。
「ああ、くそ、胃が痛くなってきた」
「…………焦っちゃ、ダメですよ」
水面をなぞるような穏やかな声。レンも同じなのだろう、その声は、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「錬次、蟲床は見つかりませんでしたか?」
「見つからない。訊いてくるってことはそっちも同じか」
「ええ、残念ながら」
残念というよりは当然、という色を込めての返事だった。
残暑の熱さが身に応える。早く終わって欲しいものだけれど、さて。
それから特に会話もなく、家に辿り着く。
部屋に着くやレンは僕の口を口でふさぎ、僕はレンを布団に叩きこむ。目覚めるまでに夕食の準備をしなければならないので、ここからは素早く動かなければならない。
少し多めの夕食を作って、リビングで待機しているのがここ最近の久東錬次ルーチンワークである。人によってはこの現状を見て、怠惰だと言うかもしれない。仕事をしているにも関わらず、変化のない作業は呼吸するのとなんら変わらない、故に怠惰であるという、そもそも怠けているとはどういうことなのか、などと議論になりそうな……全て綾が昔言っていたことである。確か、アイツが帰って来る度にインスタントしか出していなかったことから発展した議論だったか。
「まあ、インスタントは怠惰かもしれんが……ルーチンワーク関係あるか?」
返答はナシ。時計の秒針が空しく響く久東家である。レンの寝る部屋に行けば可愛らしい少女の寝息と、レンさんの過激な寝言が聞こえるかもしれないが、別にそこまでするほど音に飢えているわけではない。というか、テレビを点ければニュースキャスターやらタレントやらがリビングを盛り上げてくれるだろう。
実は静寂を求めていた僕である。
「買い置きは……さすがにあるよな」
タマネギやらニンジンやらがパッと目に入ったので今日はカレーにしようそうしよう。そう脳が決めてしまえば手は勝手に動いて行く。半ば無意識……ではない。そんな馬鹿な。そんな特殊技能があるのならもうちょっと手の込んだモノを作りたいものである。
三人分より少し多めに分量を……と、ここで思い至る。
ここ最近、綾が姿を見せていない。
飯を食べさせてくれる男が出来たのなら万々歳、しかし、どこかで野垂れ死にでもされていてはそれは事である。それに、これは考えたくないことではあるが――――蟲の感染者のこともある。
ロクでもない姉だが、無事でいてほしい。素直に心配している。そういう自分がいれば良かったのだけれど悲しいかな、飯の分量について困るくらいにしか思っていない。なんとなく、綾なら大丈夫、という謎の確信があるのだ。
というわけで、僕は今日も三人と少しの量に設定して、調理を始めた。
二章、開始です。




