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第八節 オオカミの死 女の死 ゴーレム病の少年 決意の朝

 オオカミは倒れた。首を突き刺したナイフは脊髄に達し、獣の運動能力を奪ったのだ。

 悲し気な鳴き声を一つあげ、倒れて動かなくなった。

 シオンは荒く呼吸をしたまま、這いずるようにオオカミから遠ざかった。


 左腕を見るとぐにゃりとあらぬ方向に曲がり、牙で穿たれた穴から血が流れ出していた。

 紅く流れる血は人間の本能的恐怖を呼び起こし、冷静さを失わせる。興奮と恐怖で手足の震えがとまらない。

 だから少女は自らを強いて適格な行動を起こそうと努めた。まずは止血だ。

 手荷物の中からロープを取り出し、腕を縛る。獣から受けた傷だ、そのままにしておけば肉が腐り、腐毒が全身を侵して死に至るだろう。

 うまく行っても腕が腐れば切り落とす事になるかもしれない。恐怖が汗となり全身から噴き出していく。

 だがこんな事で倒れるわけにいかない。


 やっとの事で体を起こし、女が座る木の方へ向かう。

 松明の灯りに照らされた女の服は、流れ出す血で赤く染まっている。

 これは助からないだろうとシオンは思った。だが出来るだけの事はしてあげなくては。


「貴女、名前は?」

 女は荒く呼吸をし、瞳には力なく呼び掛けにも反応しない。血を失い過ぎているのだ。


「嫌、死にたく……ない……死に……」


 呪い(まじない)のように呟き続ける女に、シオンはその最後の時まで体を抱いてやることしか出来なかった。

 何か身元の判るものは無いかと、女の持ち物を探るが少しばかりの水と食べ物しか持ち合わせていない。

 さて、どうしたものか。取りあえず集落に戻り、治療と休息をとるのが先だ。それから集落の人達と供に戻ってくるしかない。

 少女が女と、殺したオオカミのために短い祈りを捧げていると、不意に草葉のざわめきが聞こえた。

 逃げたもう一匹の方か?何てことだ。

 シオンはナイフを構えてゆっくり後ずさる。オオカミに背を見せるのは自殺行為だ。


 しかし草影から顔をだしたのはオオカミではなく、小さな少年であった。

 歳の頃は10かそこらか。クロウタドリの羽のように濃い色の黒髪。頬は痩せ、栄養状態は悪そうだ。

 ボロのような上着も半ズボンも、土と草にまみれている所を見るに、散々山の中を歩き回ったのだろう。

 シオンはナイフを納め、ゆっくりと少年に歩み寄った。


「大丈夫、こわがらなくていいわ」


 少年は唇を震わせながら、母親の居場所を尋ねた。さっきの女がそうなのだろう。

 しばし逡巡したが、結局シオンは少年に母親を会わせる事にした。少年の小さな肩に触れて気が付いた。

 少年の手足は固く冷たい金属でできている…… ゴーレム病に侵されていたのだ。


「どうして山に登ったの?」


 母の亡骸の前で、声も上げずにただ立ちすくむ少年に、たまらずシオンは声をかけた。


「お母さんが、山に行こうって言うから……」


「どこに行くつもりだったの? お父さんは?」


「わからない…… お父さんは見たこと無い」


 何てことだ。少女は察してしまった。女は今際の際まで少年の事を口にしなかった。それに食べ物も自分の分しか持っておらず少年は手ぶらだ。

 最初から女はこのゴーレム病の少年を、オオカミの出る山に置き去りにするつもりだったのだろう。Contrapassum《因果応報》とはこの事だ。

 ふつふつと怒りがこみ上げる当人はもう死んでしまっている。それに止むに止まれぬ事情があるのだろう。

 どちらにせよ、抗議する相手もいない。少女はそっと少年を抱き寄せた。


「私はシオン、君の名前は?」


「ギュムナ……」


 少年はそう呟いたきりただそこにじっと座っていた。少女は傷の痛みも忘れ、少年を守るように抱きしめたまま気を失った。



 ----------

「もう、シオンはそんなに、本が好きなの?」


「すきー!お母さんの本の話、もっときかせて!」


「まったくもう、それじゃぁクレイオスを呼んできなさい 二人で一緒に読みましょうね」


「うん! おにーちゃーーん!!! お母さんが本を読んでくれるって!」


「ほんとう!? いまいくよシオン!」



「あらあなた、今日は何を買ってきたの?」


「ああ、丁稚のコレアンダーが森の中で拾ったという本だ シオンは本がすきだったろう?」


「随分大げさな装幀ね、何が書いてあるのかしら?」


「それがなぜか開かないんだ でも値打ちがあるんじゃないかと思ってね」


「不思議な本ねぇ」


「倉に入れて置こう そういえば最近、妙な病気が流行ってるそうだ 気をつけるんだぞ」


「まぁおそろしい…… あなたも気をつけてくださいな」

 ----------



 少女が夢現つのまま瞳を開く。小鳥の声がする。緩やかな日の光も。ここはどこだっけ?

 まだ脳が覚醒しきっておらず、未接続のままの記憶と思考がごちゃごちゃになっていた。

 まぶしい。差し込んだ日の光を、左腕を上げてさえぎる。袖が血まみれだ。どうしてこんなに汚れのだろうか。

 そこでようやく、今度はよりはっきりと目が覚めた。そうだ、オオカミに噛まれたんだ、あの少年は!?


 慌てて体を上げると、少年はすぐ傍らに座っていた。少し驚いた顔をしている。よかった、居てくれていた。


「あれ、腕が……動く?」

 シオンはやっと左手が動く事に気が付いた。オオカミに噛まれ、振り回されたせいで骨も皮もズタズタにされていたはずの腕が。

 よく見れば、腕は奇妙な金属が取り付けられ、添え木の代わりにされていた。傷口も綺麗に洗われて、糸で縫われている。

 ほんの一晩たっただけというのに、痛みも腫れもかなり引いていた。


「もしかして君がやったの?」

 少女は傍らの少年に尋ねた。


「うん…… わからない、手がかってに動いたの」

 見ると少年の、金属に変わり果てた手からは幾つもミミズのような管が伸びている。だがそれはすぐに引っ込んで見えなくなってしまった。


「ねえ、ええと ギュムナ?」

 少年は答える代わりに顔を向けた。


「お母さんの他に家族はいるの?」

 少年は俯いて、小さく首を振った。


「私と一緒にくる?」

 少年は小さく、頷いた。


 少女は少年を引き寄せ、強く抱きしめた。この子を守ってあげなくては。そしてあの母親の代わりとならなくては

 自分が魔女に育てられたように。

 少女は強く決意した。

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