第二十九節 傷目のバーリー 本の魔女
「本当にいんのかよ魔女なんて」
惨劇の翌日の昼ごろ、三人は出発した。目指す先は森の中、歩いて1日程度の距離だ。
すぐ近くとは言えいつまた教団が襲ってくるかわからない、急ぐ必要があった。
「エデュバはきっと居る そして私に何か伝えようとしている ……何かはわからないけど」
「どうして本から出てこないんだ? わざわざ直接会わないといけないのか?」
「わからない…… あの教団と関わってからこうなった きっと何か関係あるんだと思う」
「ま、とにかくその地図のとこに行けば何かいろいろわかるかもしれないって事だな」
道すがらの街道は混雑していた。
町から逃げ出す者、町へ戻ろうとする者、様々だ。
過積載だったのだろう、壊れた馬車と死んだ馬の前で途方に暮れる家族、泣きわめく迷子、疲れはてて道端で眠る女。
なんと酷い有り様だろうか。彼らの多くはただの町人で、なんの力も無い者達だ。
家を焼かれ、家財も失い、これからどうして生きて行けというのか。
そんな事を思い、シオンは唇をきつく噛み締めた。
「そう落ち込むなよシオン、お前のせいなんかじゃないってば」
「そうだよシオン シオンは悪くないよ」
「うん、ありがとう……」
とは言ってもやはり気持ちは晴れる事はなかった。
昨日は凄絶な一日だった。あまりにも多くの事が起こりすぎて、 まだ頭の整理が付いていないのだ。
夕暮れ、森の手前まで来た三人はそこで夜営の準備を始めた。
シオンは言わずもがな、ギュムナも手慣れた様子で火を起こす。
すぐに簡易的なテントが出来上がり、三人は簡単な食事を取った。
その夜、シオンは口数も少なくただ本を膝に乗せて火に当たって黙りこくっていた。
「魔女ってどんなヤツなんだシオン?」
沈黙に耐え兼ねたオイコスが口を開く。
「見た目はちょっと怖いけど、凄く優しくて…… そう、お母さんみたい 実際、私にとってエデュバが親代わりよ」
「そうか…… そういやお前、あの時、あの化け物の事お兄ちゃんって言ってたよな、どういう事なんだ」
「……間違いであってほしいけど 私の父と兄はゴーレム病になったって話は前にしたでしょ? 今どこに居るのかわからないって話も」
「ああ、前に聞いたな」
「あいつ、兄がしていたのと同じ、銀のキツネの首飾りをしてたの」
「マジかよ、見間違いじゃないのか?」
「私も信じたくないけど、間違いない……」
「魔女なら、ゴーレム病を治す方法も知ってるんじゃないか?」
「判らない…… でもあれはもう、私のお兄ちゃんじゃない……」
消え入るような声だった。彼女がいつも気丈である分、ことさらに弱弱しく聞こえた。
「そうしょげるなって ほら、俺がお前のお兄ちゃんになってやるから な?」
「要らない」
「酷くない?」
-------
その森のことをアールドブラの人々は恐れを込めてこう呼んでいる。「人さらい」と。
森は広く、深く、あちこちにある湧き水のために泥濘が点在している。
オオカミや熊が目撃される事もありとても危険な場所だ。
だがシオンにとってここは懐かしい場所でもあった。少女はこの恵み豊かな森で生きていく術を学んだのだ。
「この森、確か幽霊が出るって噂あったよな 長い髪をした女の幽霊がうろついてるんだってよぉ~」
オイコスは白眼を見せながらギュムナに顔を向ける。
「うぇー、ほんとにいるのシオン?」
「んー? あーそれなら多分私の事だよ 私がここで暫く暮らしてたから」
「うわ幽霊こんなとこに居たよ こわっ! ていうかこの森に居たのに魔女には直接会わなかったのかよ」
「うん ていうか本当に会えるのかもまだ判らないし…… もしかしたら特に何も無いかも… シッ、二人とも静かに」
シオンは身をかがめて、森の奥を凝視する。二人もそれに従い、身体をかがめて後に付いた。
「どうしたのシオン? 何か居る?」
「熊よ かなり大きい」
「熊? なんでこんな時期に? まだ冬眠の時期じゃねえのかよ?」
「穴持たずね たまにいるのよ 多分大きくなりすぎて冬眠できなかったのね」
「大丈夫なのシオン?」
「大丈夫、刺激しなければ普通は人間を襲ったりはしないから……」
しかし、そう語るシオンの背後でドスドスと土を蹴る音が響きだした。そして太く低い唸り声。
「こっちに来るぞっ!?」
「えぇっなんで!?」
熊は森の生態系の頂点に君臨する生物だ。分厚い皮と強靭な筋肉は時に槍やクロスボウも跳ね返してしまう。
そして数百キロの巨体でありながら、足場の悪い森の中を恐ろしい速度で走る事が出来る。
か弱い人間では到底振り切ることは出来ない。
シオンは覚悟を決めて剣を抜き放った。しかしそれは蛮勇という他はない。
3メートル近い巨体は、立ち上がれば視界をすっぽりと黒く覆ってしまうほどだった。
「みんな、ゆっくり下がって 絶対手を出さないで」
もしこの大熊が襲い掛かってきたらひとたまりもない。今はこの場を離れる事が先決だ。
だが慌てて足を踏み外したオイコスが尻餅をつき、大きな悲鳴を上げる。
大熊は鼻息荒く、オイコスの方を凝視した。
「こっちよ! こっちを見て!」
このままではオイコスはバラバラの金属片にされてしまうだろう、そこでシオンは両手を広げて熊の気を引いた。
一かバチかだが、オイコスよりは自分の方が逃げ足は速い。全員死ぬよりはマシだ。
熊は片目に大きな傷があった。その凶悪そうな顔をシオンに近づける。
少女は死を覚悟した。爪の一撃か牙の一撃か、それをかわせれば何とか逃げ切れるかもしれない。
しかし熊はそのどちらもしなかった。少女の匂いを嗅ぐと、まるで甘える子犬の様な声を上げたのだ。
シオンは訝しそうに熊を見た。巨大な身体、ナイフのような鋭く太い爪。傷のある目……。
「ま、まってあなた、もしかしてバーリー? 大熊の傷目のバーリー!?」
熊は大きく、鼻息のような鳴き声を上げた。
-------
一行は森の中を軽快に歩いていた。シオンもオイコスも大股でどんどん森の中を進んでいった。
もはやこの森に危険は無い。なぜなら最強の助っ人が現れたからだ。
「ギュムナー、乗り心地はどう?」
「楽しいよー 臭いけど!」
巨大な熊は少年を背に乗せ、森の奥へと向かって三人を先導していった。
そしてたどり着いたのは岩場にぽっかりと開いた暗い洞窟だ。
「かえる師匠の洞窟! あそこなのねバーリー?」
それはシオンが本の中で何度も見た光景と全く同じだった。熊のバーリーとかえる師匠が暮らす道場の入り口。
そこに何度も通っては師匠から様々な教えを受け、色々な冒険をしたものだ。
興奮を隠しきれない表情で、シオンは熊の背から降りたギュムナの手を握り締め、慎重に洞窟の中へと進んだ。
洞窟の中は暗く、全く視界が利かない。だが火を起こすこともなく、深遠の中へと三人は進んで行った。
そうだ、魔女のエデュバはいつもこの暗闇の中から現れるのだ。
どの程度奥へ進んだか、数歩か、数十歩か。突然洞窟が明るくなり、いつの間にか一行は部屋の中に居た。
壁も床も天井も平らに成らした木で出来ており、ガラスで出来たランプの様なものが明るく中を照らしている。
「な、なんだこりゃぁ」
オイコスが振り向くと、その後ろは闇が横たわっている。まるで光だけを遮断する見えない壁がそこにあるかのようだ。
「シオン、これも魔法?」
「わからない……でも」
部屋の奥に一つだけ置かれた木の椅子に見覚えがあった。椅子の上に置かれた、シチュー鍋にも。
鍋からは湯気が立ち、ウサギシチューの良い香りがただよっている。
「エデュバ! ここに居るんでしょう!? どこ!? 出てきてエデュバ!! 貴女に会いたいの!」
まるで母を捜し求める子供のように、涙ながらに少女は叫んだ。
その時、音もなく奥の戸が開き、三人を手招きした。
互いに顔を見合わせ、意を決してその戸をくぐる。
「やぁシオン やっと会えたね」
そう言って出迎えたのは、大きなベッドに横たわる、ひどく痩せた少年だった。




