第十八節 雪崩 はらわた 西へ
恐ろしい音が山頂の方向から聞こえてくる。
それは山の悲鳴だ。
普通はこの時期に大規模な雪崩は起きない。
だが以前の山崩れのせいだろう、山体そのものが弱くなっているのだ。
それがこの吹雪で限界点を超え、今まさに少女を飲み込もうとしていた。
シオンは急いでなるべく太い木を探し、その裏に隠れた。
最初は静かに、しかしすぐにガラガラと音を立て、雪と岩とが押し寄せた。
少女は必死に耐えた。だが無常にも木に大きな岩がぶつかり、少女は跳ね飛ばされてしまった。
雪の上でシオンは目覚めた。視界がちかちかする。頭を打ったようだ。
片方だけ視界赤くなっている、頭に手をやると髪の毛が固まっていた。
頭部から出血していたらしい。不幸中の幸いか冷たい雪のおかげで止まった様だ。
数百メートルほど下へ流されてしまったようだ。身体のあちこちが痛む。
幸いな事に骨は折れていない。雪の柔らかな場所に着地できたのだ。
剣と本も無事だ。しかし火口は失われていた。
周囲を見渡して現在地を確認しようとするが、吹雪でほとんど何も見えない。
寒い。
少女は死を予感した。
この吹雪の中、十分な装備も無く、方向を失いしかも腹ペコだ。
体温を維持するだけの体力すら無いのだ。
その時、近くで獣の息遣いが聞こえた。酷く荒い、鼻息の音だ。
少女は歯を食いしばり、剣を引き抜いた。何があっても生き延びなくては。
どんな時も希望を捨てるなと、本の仲間たちが言ってたじゃないか。
それに自分には帰る場所があった。ギュムナとオイコスの元へ。
息の正体は雌のアカシカだった。岩に身体を打たれ、地面に横たわっていた。
四つの瞳がシオンを見ている。
少女は無言のまま這うように近寄り、その首を一太刀で切り落とした。
血が暖かかった。いてついた地面に湯気が立つ。
少女はその血をすすり、そして剣で腹を割いて、その中で手を温めた。
そして、まだ脈打つ内臓に生のまま噛り付いた。
濃厚な血の味。塩も香草もなければ火さえも通していない。
それでも二日間殆ど何も口にしていなかったせいだろう、体がそれを欲しているのがわかった。口元を血まみれにしながら、ただ貪った。
命を喰らった。
だがまだ吹雪は収まってはいない。急いで他の内蔵と肉を出来るだけ外す。
そしてゴワついた皮に包まるようにして身をうずめた。
どれほどそうしていただろうか。まだかすかに残る鹿の体温が少女の身体を温めていた。
やがて嵐の音が小さくなってきた頃、少女は鹿の毛皮から抜け出した。
髪も外套も、鹿と自分の血で固まり、動くとバリバリと音がするほどだ。
朝日が山を銀色に染めだした頃、ロバに乗った樵がふらふらと一人で歩く少女を見つけた。
少女はロバに乗せられ、町へと帰ることができたのだった。
「ふむ、それは興味深い」
領主ヘレフォードの部屋には側近のスコットとヘレフォードが黒檀の椅子に腰かけていた。
ちょうど試合中だったらしい、チェスボードが置かれたテーブルの向かいには憔悴しきったシオンの姿があった。
シオンは推測を交えた上である事を前置きしつつ、それまでの経緯を話した。
山の中で教団の姿を見たこと、その直後に山崩れがあった事。
その結果として川の流れが変わり、山の北側に新たな川が生まれている事。
そしてあの集落の事だ。全て一つの線で結ばれている。
一連の事件は教団が仕組んだ事であると力説した。
「いずれにしてもそこの調査は必要だなヘレフォード」
「うむ 兵を出して調べさせよう 新たな開拓地となりうる だが」
ヘレフォードは椅子から立ち上がり、窓から外を眺めた。
眼下には町の広場があり、そこで穀物を配る白フードを着た者たちが見える。
「だが奴らと事を構えるのは難しい 奴らの事はとっくに調べている 君が思っているよりも、教団とやらは厄介だ」
「彼らはこのアルビオンだけでなく、南方のガリアでも活動していると聞く 信徒は万を数えるそうだ」
とスコットが補足する。
「でも、早くなんとかしなくちゃ……」
「わかっている、わかっているシオン だが今はどうしようもない 今は冬だ、そして人々は明日食べるものさえ困窮しているのだ この城に一体何人の兵士がいると思う? 20人だ たったの20人しか居ないのだ 兵を挙げるとなれば、飢えた領民たちに槍を持たせて進むことになる わかってくれるな?」
ヘレフォードの威厳ある言葉に、シオンは黙り込んでしまった。敵に勝つには相手を知るべし。
自分は教団についてほとんど何も知らないではないか。
「シオン、君には覚悟はあるか?」
ヘレフォードはシオンに向き直り、テーブルに両手を突いていった。
「ヘレフォード! まさか!」
ヘレフォードは口を挟むスコットを制し、テーブルの上の地図を示しながら続けた。
「ここから西にあるエボラクムの街から支援の約束を取り付けた 国庫を解放し、食料などを購入するつもりだ」
シオンは顔を上げた。それなら人々はきっと助かる、素晴らしいアイディアだ。
同時に自分がこの場に居る事が酷く恥ずかしくなった。
目先のことだけを考え、飛び回ってばかり居た。
その一方で領主達はより高い視点からより良い方策をめぐらしていたのだ。
「だが問題があってな」
ヘレフォードは地図を指で指した。
アールドブラから東へ、山間の谷を越えるとすぐにエボクラムの街はある。
エボクラムはこの島でも有数の都市だ。
しかし、ヘレフォードの示した指は大きく弧を描き、山々を迂回するルートを描く。
「このルートは片道に10日以上はかかる その上に道には盗賊がうろつく危険なルートだ」
「地図には真っ直ぐにいく道が見えますが……?」
「そこが問題だ この道には途中に城の中を通る 遥か昔に明王が築いた要所だ かつてはここを交易に使っていたが、ある時期から悪魔が住むようになった」
「悪魔? そんなもの……」
「私も信じなかったよ だが本当に居るのだ 前触れもなく開いていたはずの城門が閉ざされ、中に入った兵士たちが飢え死にするか自ら命を絶つまで門は開かないのだ」
「そんな……」
「だがこの悪魔を退治できれば、エボクラムへは数日で付ける 交易もまた再開し、人々の往来も増えることだろう 頼まれてくれないかシオン 勘の良い君だ、捨て駒のように扱われているのは判るだろう 私も君のような子供にこんな話をしたくはない だが、それほど事態は悪いのだ 領民は飢え、病に苦しみ、そして教団とやらの脅威にもさらされている ゴーレム病になるものも急に増えた 我らを助けてくれシオン」
「断っても恥ではないぞ」
スコットはシオンの手を取って言った。
「判りました…… オイコスとギュムナに話してきます」
そう言ってシオンは立ち上がり、チェス盤の上のポーンの駒を取り、斜め前に居たルークを奪ってから立ち去った。
ヘレフォードとスコットは顔を見合わせた。
それからシオンはオイコス、ギュムナの待つ宿へと向かった。
部屋に戻るなり口も聞かず、思案気にしているシオンにオイコスが声をかける。
「また何か厄介ごとを抱えたって顔をしてるな」
「実はそうなの…… 聞いてオイコス、ギュムナ」
シオンはヘレフォードからの話を二人に語った。おそらく、かなり危険である事も。
「どうせお前、それ一人で行こうとしてるんだろ?」
「当然よ 危険だもの!」
「やれやれ、それで酷い目に合ったばかりだろう 死にかけたんだぞ!」
「一人で行って正解だった そうでなかったら誰かが死んでた!」
オイコスは金属の腕を組み、首を横に振る。
「違う、一人で居るから無茶をしたんだ 俺やギュムナが居たらもっと慎重にやってただろう お前には仲間が必要なんだよ」
シオンは何も言い返せなかった。オイコスの言う通りだ。
仲間と旅をする事がどれほど大事か、力をあわせる事でどれだけの事ができるのか。
自分はそれを繰り返し学んできたはずだ、しかし土壇場で自らそれを裏切ったのだ。
「いいかシオン、その本はとても素晴らしいものだ だが、いざって時にお前を守れるのはそれじゃない 一緒に居る仲間だ 本が豚を倒せるか? 怪我を治せるのか? 違うだろう」
「……ごめん」
「わかってくれたらいいんだ 兎に角、今回は一人では行かせない 俺も、ギュムナも着いて行く 絶対にだ この子をまた一人にさせる気か?」
そうだ。自分が死んだり動けなくなったら、ギュムナはまた一人になってしまうではないか。
母親の代わりを務めると誓いながら、なんてざまだ。助けられているのは自分の方だ。
「その上で考えて決めろ どっちを選ぼうと、俺たちは仲間だ」
「シオン…… どこにもいかないで」
ギュムナも口を開く。その眼にはうっすらと涙が見える。
少女は少年を抱きしめ、泣きじゃくった。




