第89話 マジでかわいそう
理人を飼っている女の名前は、ミムリスという。
しかし、彼女の本名で呼ばれることはほとんどない。
無論、直接顔を合わせて名前を呼ばなければならない時はミムリスと呼ぶだろうが、彼女がいないところでは、また別の名前で呼ばれている。
その名も、【人食貴人】。
明確な証拠がないから捕まっていないが、おそらくはそうなのであろうと、陰でさんざんに噂されている。
公権力の捜査が入らないのは、彼女が莫大な財産で公に献金をしているからだ。
元は、凄腕の冒険者として名をはせたミムリス。
その資産は巨額で、小さな城のような邸宅と、多くの使用人を雇うことができていた。
その使用人が時々姿を消すことから、【人食貴人】という蔑称がさらに広まる要因だった。
噂自体が真実かどうかは、誰も分からない。
長く彼女に仕えている使用人や、実際に飼われている本人を除けば。
「またとんでもない二つ名じゃのう。もう貴様がどういう状況に置かれてあるのかが分かるわ」
「…………」
ミムリスには声が聞こえないことをいいことに、好き勝手言うマカ。
理人はじろりと彼女を睨むが、無論ノーダメージだ。
そんなことで心を痛めるような性格なら、他人を絶望させてキャッキャするような趣味は持っていない。
答えない理人に、ミムリスは不満そうに顔をゆがめた。
「私は、一人で何を楽しそうに話しているのかと聞いたのだけれど?」
「いやあ、まだ頭が狂ったわけじゃないから、一人でペラペラしゃべることはないかな」
「何か話していたから聞いているんだけれどね。それに……」
彼女は楽しそうに……いや、興味深そうに理人を見た。
とても丈夫なモルモットを見る研究者のような目で。
「あなたの状況で、これだけの仕打ちをされて、まだ狂っていないなんて嘘よ」
ミムリスは周りを見る。
悪辣な環境だ。
こんな場所に幽閉している自分が言うのもなんだが、一週間も閉じ込められれば、頭がおかしくなっても不思議ではない。
さらに、身体には痛みを訴える傷がいくつもあり、それは十分な治療を施されていない。
今もジクジクと痛んでいることだろう。
それなのに、理人は普通の人間のようにふるまう。
そのことを考えると、もはや彼は正常ではない。
「常人のふりをした狂人。どんなに取り繕っても、私は騙せないわ」
「ちょっと何を言っているか分からないです」
「あっそ。まあ、どうでもいいけどね。あなたが狂っていようがいまいが、私には関係ないもの。あなたの大切な仕事は、そのおいしさを損なわないようにすること」
「いや、損なうもなにも……。俺が美味いっていうのもいまいちよくわからないし」
人を食べて美味いと称する気持ちが分かるはずもなかった。
分かりたいとも思わないが。
「お前自身にも与えてあげないわ」
「いらねえよ。人肉食ってだけでも嫌なのに、それが自分の肉とか、どんな趣味だよ」
「そう、残念。とっても美味しいのよ、人間の肉」
「かなりぶっ飛んでおるのう、この人間」
マカは長い年月を生きてきたが、人肉食を嗜む人間は少ないながら存在していた。
しかし、それは食糧難で生きるために仕方なくといった場合が多かった。
食料も容易く手に入る時代で資産もあるミムリスの場合は、完全に嗜好である。
人間を食してみようと思うことすら普通はないので、異質な女であることは間違いなかった。
「さて、私がここに来たっていうことは、もう分かっているわよね?」
ミムリスは理人を飼っている。
彼だけでなく、転移者は幾人も。
では、彼らを痛めつけたりして楽しむために飼っているのか?
それは違う。
彼らを食べるためだ。
この世界で人権はなく、守られるべき存在ではない転移者。
あっぴろけにするのはさすがにダメだが、暗黙の了解という形で隠していれば、たとえ転移者を殺そうとも処罰されることはなかった。
ミムリスのように立場と名声がある者なら、なおさらだ。
彼女がここに来たということは、理人の身体を物理的に食べるためである。
理人はそれに対して何らネガティブな反応を見せることなく、平然としていた。
「好きにしろよ。俺はどうにもできないからな」
「そうねぇ。ちょっといいことがあったのよ。だから、今まで我慢してきた部位をいただこうかしら」
他の人間は一気に食べて一度で殺してしまうことが多いのだが、理人は特別だ。
彼の身体はゆっくりと時間をかけて食べていっている。
それほど美味なのだ。
そして、とても美味しそうだが数に限りのある部位を、遂に食べることにした。
「二つしかない、目玉♡」
蕩けた表情でミムリスが囁いた次の瞬間、理人の片目にフォークが突き立てられていた。
グチュリと悍ましい音が鳴る。
ミムリスは慣れたように手を動かすと、グリュッと容易く目玉が引き抜かれた。
想像を絶する痛みが襲っているはずの理人だが、うめき声一つ上げることはなかった。
とはいえ、さすがに顔は青白くなり、脂汗は大量に浮かんでいるが。
「……これを受けても微動だにしないって、本当にどんな精神力なのかしら」
「それには同意するのう。普通声くらい出すじゃろ。なんじゃお前」
ミムリスとマカ。
両者からビビられる理人であった。
気を取り直し、ミムリスはうっとりとした表情でフォークに突き刺さった目玉を見る。
「はぁ、それにしても、とってもきれい。食事は見た目も大事だけれど、こんな美しい食材は、この世界のどこを探しても存在しないわ」
「人の目玉を食材と考えている奴は少ないだろうけどな」
「減らず口が叩けるなら、まだ大丈夫ね。頑丈だと助かるわ。ずっと食べていられるから」
別に壊れてもらっても構わないが、味が落ちるのは困る。
そんなことを思いながら、よだれを垂らして目をキラキラさせながら口を開いた。
「さて、いただきます。あーん」
パクリと一口。
口の中で転がし、歯でかみしめ、飲み込んだ。
ゴクリと胃に落としてから、一言。
「……うっま」
まさに、至福。
恍惚とした表情を浮かべるミムリス。
「はあああ……最高……。もっと食べたくなるけど……あと一つしかないのよね。今欲望のままに貪ると、後で絶対に後悔するからやめておくわ」
ジーッと物欲しそうに理人の片目を見る。
こんなにおいしいのに、二つしかないなんて悲しい話だ。
百個くらいあればいいのに、と本気で思った。
「また大事な時に食べるからね」
「そんな宣言、嬉しくないんだよなあ……」
「じゃあね」
ルンルンと、満足そうにミムリスは去って行った。
彼女が完全にいなくなってから、理人は目を向けずに一言。
「……感想は?」
「マジでかわいそう」
マカ、初めて人間に同情する。




