第47話 もう大丈夫
「今までのことを見ていると、とてもじゃないけど放置できない。正義感なんて大したものじゃないけど、俺に君を助けさせてくれ」
そう提案してきたのは、老人に仕える私兵の一人だった。
大商会の創設者である彼は、引退後も命や財産を狙われる立場にあるので、護衛のための私兵は大勢雇っていた。
愛梨を壊そうというようなこともしていたので、その庶務をする手駒も必要だ。
彼はそんな中の一人であり、愛梨の世話をする役目を担っていた。
「で、でも、逃げても……」
愛梨が躊躇したのは、この世界が自分の生きてきた世界ではないと、痛感していたからである。
もう長い期間を閉じ込められているが、まだ警察は助けに来てくれない。
誰も知らない場所で、一人で生きていくと言えるほど、彼女はもう強くなかった。
そんな彼女を励ますように、男は抱きしめる。
今まで毎日入っていた風呂にも入れず、薄汚れた身体を気にせず。
むしろ、愛梨の方が恥ずかしく思ってしまう。
「大丈夫、俺がいる。俺が、君を守る」
「……っ」
この世界にやってきて初めて人の優しさに触れた愛梨。
彼女は、初めてこの世界に来て涙を流したのであった。
◆
「そぉんな甘い話があるわけないじゃろ」
結論から言うと、愛梨は騙された。
甘い夢を見させてから、無理やり現実に叩き落す。
その落差はかなりのもので、愛梨の心をめちゃくちゃに破壊した。
唯一この世界で頼れるかもしれないと思った男は、老人に命令されて、愛梨にかりそめの希望を与えただけに過ぎない。
彼女は、この地獄から抜け出すことはできない。
「――――――」
それを知った愛梨は、完全に壊れた。
もはや、何をされても反応を見せることはない。
生きるために腐った食事すらもとっていたが、それすらなくなっていた。
ただ、牢屋の中でうずくまり、死を待つだけになっていた。
そんな彼女を、老人は退屈そうに見ていた。
「ふぅむ。過程はそれなりに楽しいが、その後はつまらんのう。反応がないと、どうしてもな。次からは、もっとうまくやらねばならんか」
「そうか。お前にもう次はないけどな。残念だったな」
「ほあ?」
かけていた椅子から転がり落ちる。
いや、蹴り倒された。
想定していなかったことで、顔から地面に叩きつけられる。
鼻血を噴き出しながら、慌てて下手人を見る。
そこには、見たことがないやせぎすの男が立っていた。
片目を眼帯で覆っているのが特徴的である。
「な、何をしておる!? こ、このワシが誰か知っての蛮行か!?」
「もちろん。引退した商会の会長さん。ずいぶんと良い趣味を持っているようだな。転移者を弄ぶのは面白いか? お前みたいに何でもかんでも手に入れて、上にいる奴の気持ちはまったく分からんな」
明らかに好意的でないその姿に、老人はようやく自分に危険が迫っていることに気づく。
目の前の犯罪者を潰すために、大量に雇っていた私兵たちを呼び寄せようとする。
「だ、誰か来んか! 殺せ! この愚か者を殺せ!!」
「いや、この状況で誰も助けに来ていないってことで、普通察するだろ。昔は確かに凄かったのかもしれないが、今はすっかり耄碌しているようだな」
「ひ、ひっ……」
あれだけ雇っていた私兵が、誰も来ない。
まさか、全員始末されたなんてことはありえないだろうが、助けに来ないということも、そういうことなのだろう。
目の前の男が、途端に恐ろしい存在になった気がして、老人は震えて立ち上がることもできない。
そんな彼を、男は冷たく見下ろしていた。
「安心しろ。お前はこの場で殺さない。簡単に殺されるとも思うなよ。色々と絞り出してから、殺してやるから」
「ひいいいいいいっ!」
火事場の馬鹿力というものだろうか。
老人は立ち上がり、猛然と逃げ出していた。
今までそんなに素早く走ったことはないと思えるほどに。
そんな老人を慌てて追いかけるようなこともせず、男は呆れたように彼を見送った。
「……老人なのに健脚だなあ。あれだけ元気だったら、多少のことがあっても死にそうにないから安心だ。まあ、必死に逃げても逃げられないんだけどな」
当然、一人でこんなことはしていない。
彼が必死に逃げ、逃げ切れるという希望を打ち砕くように、彼らが構えていることだろう。
男はすぐに目を倒れる愛梨に向けた。
「で、だ。おーい、生きてるかあ?」
「…………」
ピクリと反応する愛梨。
牢屋を破壊して中に入り、呼吸を確かめる。
弱弱しいが、彼女はまだ生きていた。
「お、生きてる。よかったな、お前。運がいいぞ」
「こ、れの、どこ、が……」
「死んでない。それだけで、お前は上位1パーセントに入るほどの幸運だよ。身体に欠損もないみたいだしな」
「…………」
その言葉には、やけに説得力があった。
愛梨は、間違いなく自分が不幸だと思っているし、元いた世界の人々に尋ねれば、ほとんどが頷いてくれることだろう。
突然拉致され、衣食住を奪われ、人間の尊厳を踏みにじられ、死に瀕している。
しかし、目の前の男は幸運だと言う。
彼の言葉から、自分と同じような人が他にもいることは分かったが、その人たちはいったいどのような目に合っているのだろう。
想像するだけで寒気がした。
「俺は理人って言うんだ。お前と同じ転移者。お前は?」
「あ、たしは……愛梨……」
「そうか、愛梨」
そこで、男――――理人は、初めて柔らかな笑顔を浮かべて、薄汚れた彼女をいとわず抱きしめた。
それは、かつて自分をだました男と似ているようで、まったく違っていて……。
「もう大丈夫だからな」
その言葉は、壊れ切った愛梨の心を、ほんの少し修復するのに十分だった。
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