220 Daito カルチャー(2)
●食の文化(2)
話しが少し逸れたが、大東の食文化は日本列島同様に「米」を基本としつつも、北部に進むほど変化が見られた。
単位面積当たりの生産高と人口包容力が高い米は大東島でも主要穀物として重宝されたが、米(=稲)が栽培できない地域では小麦、大麦、その他雑穀が中心とならざるを得なかった。
だからこそ、カロリーを補完するために肉や乳製品を必要としたも言える。
大東での小麦の食べ方は、小麦を粉にする石臼の登場を待たなければならなかった。
でなければ殻の固い小麦は食べにくいからだ。
それまで米の栽培が出来ない地域では、大麦、稗、粟が穀物として栽培されていた。
これらは鍋で煮て粥にするか、当時の米の食べ方同様に蒸していた。
獣の脂を用いて炒めるという日本列島には存在しない料理法は、やはり中華大陸から14世紀頃にもたらされたと考えられている。
同時期大東では、木材資源の消費調整に伴って石炭が火力として用いられるようになっており、製鉄技術の向上もあって熱に強い鉄鍋を生産するようになっている。
同時期、小麦と石臼が合わせて大陸貿易の過程で伝えられ、各種小麦料理と共に大東風のパン(=ブレッド)が作られるようになる。
この食べ物はヨーロッパのものとは少し違っていたし、中に各種庵(肉などを炒めたもの)を詰めて蒸した、大陸でいうところのパオ、要するに肉まんのようにして食べることが多かった。
焼いて食べる事も行われたが、焼くようになるには石炭の一般利用の広まりと、石釜の普及を待たなければならなかった。
小麦、蕎麦などをさらに加工した各種麺類が広まるのは戦国時代以後で、大陸から日本に伝えられたものが豊臣秀吉の大東征伐で大東に来た兵士によって伝えられたと言われている。
そして豊臣秀吉の大東征伐で大東に伝えられた当時の日本食の中で外せないのが、当時日本でも広まり始めたばかりだった万能調味料の一つとしても知られる醤油だった。
醤油こそが製法が似ている味噌と並んで日本食の基本調味料であり、同じ調味料を用いる大東も間違いなく日本文化圏に属していると言えるだろう。
なお醤油と同様に、豆腐など肉の代わりとして日本で作られた食材も多数もたされたが、それとは別に大きな影響があったのが「茶の湯」だった。
既に大東でも中華大陸のお茶については知られていたが、当初は大東人はあまり興味を向けていなかった。
しかし、当時日本の上流階層で流行していたものを、大東人も徐々に洒落ていると考えるようになって取り入れられた。
そして茶の湯に連動して、日本の仏教僧侶が食べた肉を使わない精進料理が大東にももたされる事になる。
醤油もこの流れで大東に渡ったと考えられている。
基本的に大東での仏教は知識でしかなく、しかも既に廃れていたので戦国の中で忘れ去れれつつあったのだが、料理という媒介を通して再び少しばかり日の目を見ることになる。
大坂などで生き残っていた仏教寺院のある程度の復権も、茶の湯など食文化においてだった。
とはいえ、大東人が注目したのは料理や一部精神的な考え方(仏教哲学)だけであり、宗教としての仏教は結局見向きもされなかった。
僅かに「禅」の理念が取り入れられたに止まっている。
なお、西日本と大東の食文化の違いで、もう一つ重要なのが砂糖だった。
砂糖の原料となるサトウキビはニューギニアの一部または南太平洋地域が原産で、その後インドに伝わりインドから中華地域、さらには中東、ヨーロッパ世界へと広まっていた。
しかし日本には、遣唐使などが薬として伝えた以外では中華ルートからはほとんど伝わらなかった。
だが大東島には、恐らく海流の影響で茶茂呂地方に古くからサトウキビが自生していた。
茶茂呂人が、移住の際に持ち込んだという説も根強い。
当然、古くから食用として用いられ、砂糖(黒砂糖)としての加工も日本人が初めてやって来た時には原始的な形で始まっていたと考えられている。
大東の食生活の中にも、古くから甘味として取り入れられていた。
この砂糖(黒砂糖)は、9世紀頃から日本にも少量ながら輸出されるようになり、砂糖ではなく石糖や溶糖として西日本の上流階層でも珍重された。
砂糖栽培はその後人口の拡大と共に、気候が温暖な茶茂呂地方で一般的に行われるようになって、大東各地にも調味料として広まった。
人口の拡大が必要だったのは、サトウキビ栽培(特に収穫)とサトウキビからの糖分抽出作業には、短期間のうちに多数の労働力が必要だったからだ。
そして砂糖は、ヨーロッパよりも早いくらいの速度で大東で一般的な調味料となり、また補助カロリー摂取のための食材として広まり、大東人の一人当たりカロリー摂取量の増加にも貢献している。
ただし白砂糖が登場するのは、ヨーロッパとの接触を待たねばならなかった。
またミツバチの密に関しては、西日本列島と同様に大東島でも養蜂及び食用とされることはなく、大東での甘味の代表と言えばサトウキビであり続けた。
一方、日本列島同様に、16世紀は大東がヨーロッパの文化に初めて触れた時期でもあった。
料理についても同様で日本と同じような料理が次々に大東でも取り入れられたが、肉食の進んでいた大東の方が受け入れ度合いは大きかった。
また日本はポルトガル中心だったが、大東の場合は海外貿易の関係からスペインが中心だった。
加えて、スペインの大東洋航路の中継点の一つとなった事もあり、新大陸の作物も大東の方が早く到来し、栽培されるのも早かった。
そして麹で出てきた発酵だが、温暖で湿度も高い西日本列島は発酵文化が大きく発展した。
これに対して大東は、日本列島ほど発展する事が物理的に難しかった。
とはいえ北東アジア一般程度には湿度も温度もあるため、主に日本列島から伝わった各種発酵食品、それらを先祖とする大東特産の発酵食品が生まれた。
各種乳製品も発酵の産物だった。
そして大東で発酵食品の発展を促したのが、その地形にあった。
大東は平坦な地形が続き、陸地面積も島ながらかなり広かった。
このため内陸部では、人体の維持に最も重要な「塩」が不足しがちだった。
大東島の成り立ちから内陸部に岩塩もないので、塩は沿岸部で海水から作るより他無かった。
このため塩の普及に、塩単体だけでなく塩漬けの魚、肉、各種膾(魚、肉の塩辛のようなもの)そして発酵食品の「味噌」が大きな役割を果たした。
単に塩という形ではなく、加工された食品の形で内陸部に塩が運び込まれたのだ。
一方では、大東を一つの国にまとめるのにも、公爵家の権力をそれぞれ維持するのにも塩は「税」として利用されており、大東での統治にも塩は欠かせない要素だった。
塩を原因とした悪政や反発も、大東では一般的に見られた情景の一つだった。
最後に、食と切っても切り離せないのが酒だが、これも日本と大東には少し違いがあった。
大東の場合、北部での酒といえば、大麦または粟の醸造酒が中心だった。
これは中華大陸の黄酒やヨーロッパ北部のエールに近い。
南部から中部にかけては、日本と同様に米を醸造酒の原材料としていた。
サトウキビの絞りかすも、醸造酒の材料となった。
しかし15世紀、東南アジアでイスラム世界から伝わってきていたアランビク、つまり蒸留装置を手に入れると、さっそく酒の製造に投入した。
しかも大東では南部に大規模な石炭の露天鉱床が存在するため、石炭を燃料として日本よりもずっと早くそして全国規模で蒸留酒が飲まれるようになる。
特に北部は寒冷な気候なのでアルコール度の強い酒の普及は早く、様々な炭水化物を原材料とした蒸留酒が作られた。
これがある程度一つの形になるには17世紀を待たねばならなかったが、馬鈴薯の伝来と普及が芋による蒸留酒、つまり大東酒とも言われる酒(芋焼酎)を作り出す事になる。
他にも各種麦、米も蒸留酒の材料とされ、これらの蒸留酒を長期保存した古酒、つまりウィスキーの一種も17世紀には作り始められた。
19世紀の産業革命の到来とヨーロッパ文明の導入によって、現在大東地域は世界有数のウィスキー生産国となるまでに発展していく。
スペインとの接触があって以後、17世紀には茶茂呂地方など南部を中心にブドウの栽培とワイン生産も開始され、大東という一つの地域で多くの酒類が生産されるようになっている。
なお西日本列島で発展した米の醸造酒は、結局大東ではほとんど発展しなかった。




