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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
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218 Ocean Trader(3)

 挿絵(By みてみん)


fig.01 大東洋北東部


 ■北方開発


 16世紀から17世紀にかけての大東の交易品は限られていた。

 

 大東の輸出品は、大東特産の剣歯猫の牙やアルキナマコなど原材料、日本列島と同じ製法で作られる刀剣類や鉄の地金、そして溢れるほどの金(黄金)が挙げられる。

 

 一方当時の東アジアで最も取引されているのは、基本的に銀だった。

 明帝国が国内で不足する銀、銅を貨幣(の材料)として常に求めていたからだ。

 そして当時銀と銅は、日本で多く産出していた。


 このため東シナ海の貿易では、日本が優位に事を運んだ。

 それでも最も希少な金属である金の価値は絶大であり、国内で大金山を発見して以後の大東商人は、海外貿易で縦横に活躍する事ができた。

 

 しかしそうした状況に、徐々に陰りが見えてくる。

 

 大東国内での金の産出量が、目に見えて落ち始めたのだ。

 16世紀末の時点で、まだ四半世紀ほど採掘は続けられそうだったが、無尽蔵にすら思われた採掘量そのものは一気に半減した。

 

 この状況に真っ青になったのは、これまで黄金で莫大な富を築いた鉱山商人と黄金財政の上に胡座をかいていた大東国の財務官僚達だった。

 

 彼らの次なる目標は一つ。

 金城近辺の黄金が尽きる前に、次の巨大な採掘先を見付けることだ。

 そして金属を扱うことを知らない蛮族の住む地域には、手付かずの金山、銀山が存在する可能性があり、さらに既に自分たちはそこへ赴く手段を手に入れているという二つの要素が、彼らの行動を大胆にしていた。

 

 国の主導で大東中の山師が集められ、彼らは直船に乗せられて、半ば航路開発をしつつ当時の大東人が赴くことの出来る場所へと散っていった。

 

 彼らの努力は報われ、1613年に冬は流氷で覆われる極寒の北氷海の奥地、後に麻臥団と名付けられた町で金を発見する。

 その後さらに周辺地域での調査を続け、採掘には苦労が伴われるも有望な金山を次々に発見した。

 また別の一派は黒竜江を遡り、大陸人が外満州と後に名付ける場所の境界線付近でも、砂金とその先の金山を見付けていた。

 

 これら北辺の地域での金山発見は苦労の連続で犠牲も多く、まさに執念と言えるだろう。

 


 さっそく各地での鉱山開発が本格化し、合わせて周辺の開発と探索、そして領土化が一気に進められた。

 当然だが航路も開かれ、北方の冬にも強い丈夫な専用の直船が何隻も建造された。

 

 大東人達はさらに大陸奥地へと進み、1618年にはサハ地域を北極海に向けて貫く冷那川にまで到達した。

 ちょうどその年には、西のエニセイ川にロシア人のコサックが姿を現したばかりだった。

 しかし大東人がロシア人に出会うのは、もう少し先の出来事だった。

 



 ■大彩島の発見


 約7000万年前、北アメリカ大陸北部からいくつかの陸塊が大東島を追うようにプレートに乗って分離した。

 

 大東に近い地域を、その名の通り「東伝列島」と呼び、最も東にある島々を先島諸島と呼ぶ。

 

 これらの島々、特に先島諸島は黒潮(暖流)が親潮(寒流)と混ざり合う北大東洋海流の中に位置する。

 海流と偏西風の通り道でもあるため、大東島から北アメリカへの帆走航路の理想的な寄港地となる立地条件を備えていた。

 また海流がぶつかるため、漁場としても優れていた。

 諸島の気候は基本的に寒冷で、平地が多いなだらかな地形のために強い風がしばしば観測される。

 

 他の地域から隔絶した場所にあるため人類未到地域であり、大東人が最初の一歩を記した。

 

 発見されたのは1624年で、見付けたのは直船で北大東洋全域を漁場とするようになった捕鯨船員だった。

 


 大東人の捕鯨の歴史は古く、縄文時代から沿岸捕鯨が行われていたし、時折砂浜に打ち上げられる鯨は、海の神々からの授かりものとして珍重されたりもした。

 つまり食べ物として鯨が扱われてきたのだが、時代の進展と共に別の用途が鯨漁を促進させることになる。


 ヨーロッパと同様の、油及び油製品の原材料としてである。

 大東の植物油として大東向日葵が有名で古くから栽培もされているが、グリースなどとして動物油も必要であり捕鯨発展を促した。

 

 石油の利用が一般化する19世紀半ば以後までの長い間、世界中での鯨漁の目的のほとんどは巨大な鯨が体内に持つ油にあった。

 

 大東人も、照明油、グリース、ろうそくや石けんの原材料として鯨油を使うようになる。

 特に戦国時代になると、需要が爆発的に伸びた。

 さらにヨーロッパから伝えられたガレオン船の技術が、捕鯨を沿岸から沖合、そして遠洋へと押し広げることになる。

 そして当時の大東周辺の海は、鯨の宝庫だった。

 16世紀の頃は、それこそ唸るほどの鯨が存在していた。

 

 当時の主な漁場は、大東南部沿岸、南部の引田諸島、琉球諸島、アレウト列島などである。

 漁場が南北に大きく分かれているのは、鯨は夏は北方でオキアミを食べて過ごし、冬は南の暖かい海で子育てを行うためだ。

 

 そうした鯨を洋上で追いかけ回すのが当時の捕鯨船(※中型程度の直船)であり、彼らはまだ見ぬ鯨の群を探して海流や風にとらわれず北大東洋中を彷徨った。

 そのうちの1隻が難破した末にたどり着いたのが、西経155度付近に存在する先島諸島で最も東にあったかなり大きな島だった。

 

 この知らせは、すぐにも他の捕鯨船員を経由して大東国の政府にも伝えられた。

 そしてスペインなどに倣って、取りあえず政府の船を派遣して標識を立てて領土化する。

 ここで、先島諸島で最も大きい島は、当時の元号から”大彩島”と名付けられた。

 

 大彩島の面積は、四国の半分程度(約1万平方キロ)で現在では馬鈴薯の栽培が盛んとなっている。

 他の作物栽培は厳しく、牧畜も酪農と羊の放牧が若干行われる程度でしかない。

 それだけ寒冷な島だった。

 

 なおこの島には、海流の関係からかポリネシア人が到達しなかったと推測され、原住民は居住していなかった。

 ただし20世紀に入ってからの発掘調査により、人類の居住の痕跡が発見されている。

 一時期居住したのは、10世紀頃に大東または日本から流れ着いた遭難者とみられている。


 またこの遭難者と共に鼠も到来に成功しており、大東人が再び訪れた時には既に島中に繁殖していた。

 そして狡猾な鼠たちは、この島の固有種である鳥の多くを激減させるか、中には絶滅させている。

 一方では鼠という天敵を得た為、陸の動物、つまり人間に対しても一定程度警戒感を持つため、これがこの島の固有種の鳥の減少を最小限に抑えたと言われている。

 

 将来の事はともかく、発見からしばらく大彩島を中心とする先島諸島は、ほとんど放置状態だった。

 この島々に鯨も立ち寄らないからだ。

 しかし水の補給ができるし油を取るための薪も豊富にあった。

 さらに北に向かう船にとっての寄港地としての役割は担えるため、少しずつ捕鯨船、さらに毛皮商人によって活用されるようになっていく。

 

 その中で馬鈴薯ポテト栽培が少しずつ進められたのだが、これが先島諸島に立ち寄る人々の壊血病を防ぐ大きな役割を果たした。

 壊血病の原因は19世紀になるまで分からなかったが、馬鈴薯は穀物ではなく野菜の一種のため各種ビタミンを含んでおり、食べやすく保存にも適しているので船にも積み込まれ、後の北大東洋航路の船員や水兵にとって、ある種の守り神となっていく事になる。

 



 ■新大陸への到達


 時折大彩島を使った大東人の中に、毛皮商人と彼らの使う船の船員がいた。

 彼らの目的は、ユーラシア大陸北東部でもいる陸上動物ではなかった。

 彼らの主な獲物は、ラッコだった。

 

 寒冷な海の上で過ごすラッコは、極上の毛皮として古くから珍重された。

 大東島に渡ってきていたラッコは、日本人が侵略してくるまでに一度絶滅していたほどだった。

 その後は、千島にまで捕りに渡ってもいた。

 そしてラッコの有用性を知っている北部の大東人達は、昔からラッコを求めて対岸のユーラシア大陸北東部に足を伸ばしていた。

 しかしそこも枯渇すると、さらに遠くへと赴くようになる。

 

 黄金を求めて北氷海奥地に入ったのも、ラッコを求めて彷徨った人の足跡を知っていたからだった。

 

 そうした海の狩人達は、千島列島から千島半島へ、そしてその先へと足を伸ばした。

 アレウト列島がラッコの繁殖地だったからだ。

 浅い海底には昆布が生い茂り、昆布を食べるウニが繁殖し、ラッコはウニを餌としていた。

 

 しかしどこに行ってもラッコの数は限られているので、人々はどんどん遠くに赴くしかなかった。

 幸い赴くための船も手に入れていたし、16世紀以後の大東は黄金に溢れていたし、17世紀に入って戦乱が収まると贅沢品の一つである高級毛皮は幾らでも需要があった。

 しかも17世紀に入り極寒の大地(麻臥団など)での大規模な黄金採掘が始まると、防寒具としても飛ぶように売れた。

 

 故に毛皮商人達は、アレウト列島を東へ東へと進み、ついに火依半島、つまり新大陸へと到達する。

 到達は1628年といわれている。

 その頃陸のご同業が、北極狐などを北の高級毛皮を追いかけて、大陸を分ける縁倶海峡へと到達しつつあった。

 

 とはいえ火依半島を先端部とする荒須加は、北氷海近辺と同様に荒涼とした極寒の地であり、タイガなどに生息する動物の毛皮以外に用はありそうになかった。

 新しい土地の噂を聞きつけて黄金を求めた山師もやってきたが、この時点では何も見付けることは出来なかった。

 

 その後も海の毛皮商人達は、新大陸を東へそして次に南に向けて沿岸部進み、18世紀に入るまでに農業が可能な土地にまで至ることになる。

 しかしそこは、海の毛皮商人にとって終着駅を意味していた。

 温かい海にラッコはいないからだ。

 それに、少しばかりという以上に遠くに来すぎていた。

 原住民はいたが、商売相手にもなりそうに無かった。

 

 このため毛皮商人達は一度もと来た道を引き返し、その後大東人はしばらくの間新大陸の西海岸北部にある温暖な土地について忘却してしまう事になる。


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