121 3rd War(第三次日東戦争)(2)
■第三次日東戦争・開戦
日本帝国による大東帝国に対する第一撃は、南都にある大東帝国海軍の一大拠点に対する奇襲攻撃だった。
軍港とそこにたむろする艦隊を撃滅し、圧倒的優位に立つのが目的だった。
南都奇襲攻撃は、日本帝国海軍(皇帝信長が外の海の海軍なのだからと、水軍から海軍に名称変更させた。)の用意周到な作戦準備、秘匿の双方が完全にハマり、ほぼ満点と言える成功を収めた。
大東帝国水軍(この頃まだ水軍と呼ばれている。)は、多数の大型直船(ガレオン船)を失う大損害を受ける。
そして初戦を成功させた日本海軍は、大東水軍をはじめとして大東の旗を掲げる船を手当たり次第に攻撃し、隙を見せた港を襲撃した。
しかし、日本海軍のその後の戦争計画は杜撰だった。
突き詰めてしまうと、大東水軍を撃破しつつ海賊行為で大東の通商路を破壊し、海外拠点の幾つかを奪取するという以上の作戦がなかった。
漠然と制海権を得るという以外で戦略性、長期性は見られず、「大東を叩いて国内の不満を解消。国論を統一する」という政治性が強かった。
そしてそのついでに大東の通商路や海外領土の一部を奪えればという思惑程度しかなかった。
ただし、大東水軍を叩くという点では非常に優れており、戦略よりも戦術に特化していたと言えるだろう。
これに対して一歩先んじられた大東は、当座は防御に専念するばかりでなく、しばらくは防衛的な戦略を立てざるを得なかった。
だが、順次艦艇の数は揃い日本海軍を上回るようになるという目算があるので、海軍主力に関しては可能な限りの温存戦略を取る事が決定する。
そうした戦略方針もあり、さらに防御的な行動が主体となった。
防御の主軸は各港湾部は沿岸要塞もしくは砲台の増強。
また主要な場所には陸軍を沿岸の後方に待機させ、日本軍が上陸してきたらすぐにも対応できる体制を整えることとした。
しかし防御ばかりでは士気にも関わる。
それに大損害を受けたが受けたのは艦隊の一部で、多くの艦船を保有していた。
それにこの時代の船は、武装(大砲)を搭載して武装兵を乗せれば、それだけですぐにも戦闘艦艇にする事ができた。
勿論、主力の戦闘艦は丈夫で分厚い建材を用い構造も商船とは異なるが、商船でも武装さえすれば十分な戦力となる。
特に速度の出る船は、相手を追いかけたり逃げたりといった場合に有利なので重宝された。
そして大東水軍は、臨時の「戦闘艦」も多数動員した中小の艦艇を用いての、日本の海上交通路に対する海賊行為、通商破壊戦を重視した。
そして攻めあぐねた日本も、すぐにも艦艇よりも商船を襲うようになる。
当然のように主な商船も武装し、各所で小規模な戦闘が頻発するようになる。
互いに島国で海外進出を強め始めたばかりなので、新造された船は多く、しかもまだ木材資源が豊富だったので次々に船を作って送り出した。
そうして1年もすると双方気づく。
決定打がない事に。
本土侵攻するしかないが、海軍を潰さないと上陸できても、補給線の維持が難しい。一時的に成功しても必ず撃退されると分かっていた。
だが敵の海軍を潰すのは、本土侵攻しないと不可能だというジレンマに陥る。
これを打開するには、分かりやすい勝利が必要と考えられた。
敵海軍の壊滅させるのが分かりやすい。
それが主力艦隊同士の戦闘で決着となれば尚更だ。
しかし不利な側が主力艦隊を出すわけがない。出すとしたら、どうしても出撃せざるを得ない場合。
そうした場合は、敵の大上陸部隊が上陸作戦を行うという状況しかない。
そして互いに思った。
それが出来れば苦労はない、と。
そして頭を抱えた。
海軍の戦争、海上通商路を攻撃しあう戦争は非常に金がかかるという事に。
だから、互いの政府は戦争を開戦から1年もすると戦争の落とし所を探し始めた。
一方で、戦争を喜んでいる人々もいた。
外国ではない。
17世紀序盤では、日本地域にまで軍事的に意味のある戦力を派遣できるヨーロッパの国は存在しない。
スペイン(エスパーニャ)、イギリス(イングランド)、オランダ(ネーデルランド)の船が北東アジアもしくは大東洋に進出してきていたが、その数は僅かだ。
日本、大東が本気になれば、「魔王の南海遠征」のように一蹴できた。
喜んだのは日本と大東の、主に船に関わる商人たちだった。
軍艦をはじめとする船の建造で、限定的な戦争特需が発生したからだ。
材木、鉄材、帆布、綱、油(主に照明油と潤滑油)、などなど船には様々なものが大量に必要だった。
乗組員とその衣食住は10万の兵が動く陸戦に比べると取るに足らない量だが、それでも船の数が多いので必要量は膨れ上がった。
また軍艦には大砲、銃が満載されているので、鉄、鉛、そして何より火薬が大量に必要となる。
そうした需要を満たすため、日本と大東の商人たちは嬉しい悲鳴をあげつつ奔走した。
また大量に生産するための努力を傾けた。
その中での副産物として、「骸炭」が大東で発明される。
骸炭は、石炭を蒸し焼きにして炭素を多く含んだ状態にしたものだ。
主に製鉄や鋳物を作るのに有用で、他にも熱源や還元剤を必要とする産業で広く使われるようになっていく。
この時は豊富な石炭資源を有する大東で、製鉄の為に発明された。
一方の日本では、土硝法による火薬生産が効率化された。
土硝法は硝石(硝酸カリウム)の製造方法の一つだ。
土硝法は大東でも広く行われたが、大東の土硝法は主に家畜の糞尿を利用したのに対して、日本は肉食や家畜の飼育が大東のように盛んではなかった。
そこで、古い家の床下などに蓄積された、窒素分を多く含む土を利用し、灰汁などを加えて化学変化を起こして、上澄み液を煮詰めて硝石の結晶を抽出する方法になる。
手間がかかるので効率化、産業化が進められ、これ以後も一般的に広く行われるようになっている。
その一方で、大東が早々に海外に森林資源を求めたように、急速に森林資源の枯渇が進んだ。
艦船の建造の為に膨大な量の木材需要が発生したからだ。
しかもこの当時、日本、大東ともに建築をはじめとした膨大な木材需要が発生しており、併せて急速に森林が姿を消しつつあった。
大東では燃料として石炭の利用が進められ、日本では既に大東では行われていた森林資源の保護や営林が、政府主導で強力に進められるようになる。
そして双方ともに、森林資源を求めて近隣の海外進出を強めるようになる。
そうして揃えた艦艇を、日本、大東双方は投入する機会を窺う。
特に敵主力艦隊に対して用いようと情報を集めた。
金と資材を投入した贅沢で大量の戦闘艦は、敵主力艦隊を撃滅して戦争を決定させるためにあるからだ。
1622年の初夏、その機会が訪れたと日本海軍は考えた。
日本側が囮とした、先島諸島に向けた艦隊に大東水軍の主力艦隊が食いついたからだ。
先島諸島のもっとも東にある大彩島は、大東が有するアカプルコ第3航路の要衝。
必ず守らなければならなかった。
占領されないまでも破壊されるだけでも大きすぎる損害だった。
こうした場合に備えて羽合航路を開き、羽合に拠点を整備しつつあったが、羽合航路自体が航路には不向きで補助的なのでアカプルコ第3航路と大彩島は守らねばならなかった。
北太平洋上の日本付近の海流
そうして日本、大東双方の主力艦隊は大東島の南西海上で激突する。
日本艦隊は進撃する艦隊と、後ろから大東主力艦隊を追いかける艦隊に分かれていた。大東側は北東から一塊になって進撃する日本艦隊に喰らいつく。
戦力は、1つの艦隊だとまだ十分な戦闘艦艇が揃わない大東艦隊が優位だが、合わせると日本側が有利だった。
そして大東側も、日本の主力艦隊が進撃する前衛艦隊とともに半ば包囲戦を仕掛けようとしている意図には気がついていた。
そして日本艦隊は、少しでも早く艦隊が合流するため、進撃していた前衛艦隊が進路を反転。
ただし当時は帆船なので、風と海流には逆らえない。
しかも戦場は黒潮、北太平洋海流の真上。
反転といっても、速度を落とすと言った方が正しい動きとなる。
だがそれでも、日本艦隊の合流が早まるのは間違いない。
一方で大東艦隊に自ら接近することを意味する。
このため日本の前衛艦隊は、大東艦隊を迂回しつつ友軍の主力艦隊との合流を目指した。
そして合流されたら逃げるしかない大東艦隊は、一刻も早く自分たちに近い方の日本艦隊に喰らいついた。
そして日本艦隊は、ある意味逃げる大彩島へと向かっていた艦隊ではなく、自分達に向かってきていた主力艦隊だった。
相手は日本の主力艦隊だが、数は若干だが大東側が優位。
しかも日本の主力艦隊は、自分達は追撃して攻撃する側で攻撃されるとは考えていなかった。
このため日本の主力艦隊の対応は遅れてしまい、二つの大艦隊は正面から激突する。
そして洋上での戦いは、戦力差が如実に現れる。
しかも先制して多少なりとも有利な位置を占めたのは大東艦隊だったので、双方甚大な損害を出しつつも大東艦隊が優位に戦いを進める。
だが日本艦隊は1つだけではない。
慌てるように合流を目指していた艦隊が、戦場に徐々に迫った。それを見て大東艦隊は潮時と判断して離脱を図るが、それを追うだけの戦力も戦意も日本の主力艦隊は失っていた。
こうして戦術的には大東が勝利したが、撃破された艦艇は沈まなければ修理ができる。
日本艦隊の損失と拿捕された艦の数は多くはなく、数字の上での勝敗はほとんど引き分けと言ってもよい程だった。
そして双方ともに悟った。
一度の大規模戦闘は、決定的な結果になる事が非常に難しいのだと。
この戦訓は、それまでの歴史で洋上艦艇同士の艦隊戦に慣れていなかった日本人たちにとって欠かすことのできない経験となった。




