017 ゲットピース トゥ リーヴ、ND WAR 2nd(5)
・1382年
春になると、強大な関東管領上杉軍3万が大坂近辺に上陸。
日本軍の総兵力は5万に達する。
これをもって、大東島の要である境都攻略を決意。
一方、大東国天皇から新たに”侵払代”の称号を授かった旧州の太守である高埜公爵家が中心となり、公爵領全土から参集した武士団が境東府に集結していた。
「流魂川諸合戦」発生。
流魂川(現在の琉婚川)に大体30kmごとに建設されていた河川要塞群を巡る攻防で、日本軍と大東軍の合戦が起きる。
日本側が待ち望んだ大規模合戦に、日本側が勝利。
日本側の勝利は、大東側が日本側の増援の数を軽く見積もっていた事が主な原因だった。
そして守備兵力を失った大東側は、たいした防御戦を行えないまま境都も失う。
境都は、日本が初めて落とした大東の主要都市だった。
しかし現地日本軍では、勝利したのが上杉家の大東参集直後だったのが悪かった。
既に2年間も大きな戦功を挙げていなかった先発の細川氏を中心とする御家人が気分を害した。
本来なら、ある程度の勝利を収めた後に、日本・大東国間の終戦交渉が行われるのが順当な流れだったはずだが、更なる勝利を求めて日本軍は南方の”東京”攻略に着手した。
臨時首都で城塞の規模も小さく城壁も薄く低いという情報があったため、簡単に攻略できるだろうと考えられた。
さらに籠城できない大東軍が打って出てくる可能性も高く、これを再び撃破することも目論んでいた。
(※当時の細川氏は”大東管領”の役職を狙っていた。大東管領の地位を手に入れれば、対立する大内家を大きく引き離せると考えていたからだ)
東京攻略に際して、略奪的補給の関係上で既に略奪し尽したルートを戻れない。
このため日本軍は、地理的にまったく詳しくない小泉湾に沿って並行する”此方山地”西方の原生林を抜ける行軍ルートを採用した。
此方山地は、典型的な曲隆山地である。
古大東島が太平洋プレートを西進する過程で、現在のような陸繋で繋がる形状に大きく東西方向に圧縮応力が働いた。
その時代に形成された山脈と見られている。
地質学的年代を経て標高は低くなっているものの、隆起地形と沈降地形が交互に連なる大地形は大東国では珍しい。
そしてこのルートは小苗街道という大東には珍しい起伏に富んだ街道であり、戦虎を用いた遊撃戦には最適の地形と言えた。
しかも、季節は夏、剣歯猫が最も活動的になる時期だった。
熱帯低気圧が大東国では珍しい長雨をもたらし、せいぜいが照葉樹の温帯原生林をどこか熱帯林のように見せていた。
5月29日、細川軍を中心とする西国連合軍は隊伍(隊列)を長く伸ばして進軍していた。
略奪できる村落もなく、鬱蒼たる森林地帯が続いていたため食糧不足が心配された。
同時期、新州の太守である田村公爵家率いる大東国北路軍(駒城伯爵家・守原伯爵家を含む。兵数1万2000名)の別働隊として、此方山地東岸に独立鉄虎兵第十一大隊を中心とする軍勢が到着していた。
因みに、戦虎を主要兵器として用いる部隊は、当時はまだ実験段階の戦力と考えられていた。
このため独立鉄虎兵は、第十一大隊の他には第一大隊(田村公爵領に残置)があるだけである。
それでも、2個大隊合計100頭を超える戦虎を維持できるのは、大領主たる田村家だからこそできることだった。
また、軍の編成に際して数字を用いるようになったのも、この戦争がほぼ初めてだった。
これは編成される軍の規模に対して、管理上の簡便化を図ろうという意図で導入されたもので、直接的な行動を好む「大東的」と言える。
戦闘に際して、小泉湾を横断しての進軍で剣歯猫は疲れていたが、乾燥アルキナマコの削り節(強壮剤)を与えられるなどして、なんとか活動可能になっていた。
そして工兵(当時は鍬組と呼ばれた)は、近隣の農民を徴用して後続する北路軍の上陸準備を進めていた。
早馬によって、細川軍が南下しているのを知った独立鉄虎兵第十一大隊主力は、隘路を通行する細川軍の隊伍を各所で食い破り士気を低下させた。
戦虎の利用例としては最適の事例だろう。
これ以後、戦虎の大量導入を促す事にもなったほどだ。
その後、東京仮御所に至る小苗街道沿いで細川軍が再編成している最中、6月13日に北路軍主力が現れた。
「小苗合戦」(細川軍18000vs北路軍12000)の結果、細川軍は敗退。またもや、小苗街道を逆に進軍することになった。
敗残兵狩りともなる追撃戦は、敵の戦力を効果的に破壊する。
独立鉄虎兵第十一大隊は、またもや得意とする戦場において働き場所を得る事となった。
そしてこの戦いにより、戦虎は明確に兵器として認識されるようになる。
・1383年
半数以上を失った細川軍の多くは本国に帰還し、上杉・佐竹など東国勢が主力になった。
領土とする地域からの徴用で騎馬の比率が高い上杉軍は、飼葉の豊富な大東の地で実によく移動して戦った。
日本軍が本格的に騎兵を縦横に駆使した初めての戦闘例としても記録され、この記録は日本列島の戦国時代に再び注目される事になる。
そしてこの年は、日本、大東共に騎兵を用いた機動戦に終始したため、大規模な戦闘はついに起きず。
しかし増援と武器の補給の必要性を感じた日本側が、大規模な港湾都市を最低でも一つ落とす必要性に迫られる。
大東では都市が全て城壁で囲まれている為、ただ馬で走り回るだけでは戦争をしている事にならなかった。
・1384年
「南都攻略戦」開始。
この年、日本軍は腰を据えて有利な地形での大規模攻城戦を決意。
選ばれたのが、大東南端東海岸にある南都だった。
波の穏やかな半月湾に面する南都は南部の最重要港湾であり、既に大規模な城塞都市となっているため、初期の日本軍はこの城塞都市を無視して大坂へと進軍した。
しかし同地域の西岸は日本軍の拠点として機能していたため補給の苦労が少なく、大規模攻城戦には向いていた。
さらに黒岩山脈に山城などの臨時要塞を築いてしまう事で、大東各地から押しよせる大東軍の増援や補給を阻む事も出来る。
日本からの補給や船の増援も送り込みやすく、さらに大東側に対する海上封鎖も行いやすい。
様々な好条件があったため、日本軍は腰を据えた攻略を開始する。
しかし、周囲数キロメートルの分厚く高い城壁で囲まれた南都は、当時の日本軍にとっては難攻不落の要塞だった。
無尽蔵といえる食料備蓄もあり、兵器、兵力も守る分には不足はなかった。
しかも日本にはない、かなりの規模の投石機を持って反撃してくるなど、容易な的でもなかった。
このため戦いは日本側が予測したよりも長引き、大東側も奇襲的に海から増援を送り込むなどして果敢に抵抗した。
・1385年
夏前、「南都攻略戦」の結果、南都はついに陥落。
結局城を落とした決め手は、内部からの手引きだった。
陥落前後の南都では日本兵による掠奪、暴行などの悪行が実施されたが、ここでは日本人に内応していた茶茂呂人も多く犠牲になり、大東内での日本兵の立場はいっそう悪いものとなる。
それでも南都陥落という結果を受けて、上杉勢が順次本国に帰還した。
この年、大東水軍に日本の西部(瀬戸内海)を根城としていた村上水軍の分家筋である素島大東水軍がはじめて参軍。
制海権も徐々に大東側に有利に傾くようになる。
・1386年
入口湾への侵入と大規模上陸に成功した日本水軍は、二者陸繋付近に上陸して境東府に北から迫った。
境東府は新大東州の南の入り口、新旧双方の中継点となる場所にある、守ることではなく戦闘を目的とした大規模な軍事城塞都市だった。
このため城壁は分厚く高く、櫓がいくつもあり、そして場内には大量の物資が備蓄できるだけの煉瓦造りの倉庫が並んでいた。
もちろんその倉庫の中には、新大東州中から集められた食料が満員御礼の状態で納められていた。
守備兵の数も多く精鋭揃いで、その防御力は大東一を誇っていた。
「境東府攻城戦」。
日本軍が戦略的に奇襲する形で行われた戦いは、引き分けに終わる。
大東軍は境東府を守りきったが、相手が大軍すぎて引き上げる際の追撃もできなかった。
しかしこの戦いの途中、日本軍はこの戦争最大の成果とすら言われる大東島北方の地図を入手し、日本に持ち帰っている。
そして北部の地図を手に入れた事と自らの補給の必要性から、日本軍は進撃を再開する。
次に日本軍は、真室穀倉との通称で知られる新大東島中央部の平野への進撃を行った。
この過程で「幌丹泰合戦」が発生。
古大東人や蝦夷が森林大陸と名付けていた広大な新大東州南部は、旧大東州以上に濃く深くそして広大な原生林に覆われていた。
日本軍は、そうした森の各地に補給物資を蓄えた屯所(=簡易砦)を建設しつつ進軍していた。
大東騎兵・虎兵は、そうした屯所に対して襲撃するケースが多かった。
逆に日本軍に罠を仕掛けられることもあった。
こうした攻防戦を総じて幌丹泰合戦と呼称する。
この時期、伊達水軍による永浜略奪。
旧大東州西海岸西部各地が大規模な海賊行為を受ける。
しかしこれは主に陽動作戦で、この間日本軍はさらに北部への進撃準備と日本本国からの増援を送り込んだ。
・1387年
北府は、央都と並んで新大東州防衛の要であり、建設開始は10世紀まで遡ることができる。
この時期には既に「内壁」とも呼ばれる「第一城壁」が完成しており、当時の新州としては十分強力な城塞都市となっていた。
真室穀倉を縦横に荒らしまわる日本軍を捕捉するために、田村軍は囮として大規模な元服の宴を北府で開いて日本軍の接近を待った。
そして大東軍が油断している上に集まっていると考えた日本軍は、「千載一遇の好機」を前に大胆に前進。
大東軍を戦略的に奇襲攻撃しようとした。
そして日本軍の進撃に呼応して、田村軍も煌々篝火が焚かれる北府をあとにして秘密裏に行動を開始。
日本軍が気付いた時には、田村軍に半ば包囲された状態となっていた。
ここで日本軍も体形を整え、日本軍と田村軍は北府南方の平野で合戦状態となった。
4月26日、「北府合戦」発生。
「二十年戦争」最大規模の戦闘となり、両軍合わせて6万7000(日本軍3万1000vs田村軍3万6000)の兵力が激突。
戦いの結果、大東軍の騎兵による集中側面攻撃が見事にはまり、日本軍は壊滅した。
日本軍は総崩れの様相を見せたため、以後は掃討戦に移った。
海での掃討戦も実施され、事実上海上封鎖された形の新大東州から日本軍が逃げることは遂に叶わなかった。
この戦いに参加した日本軍将兵のうち、生きて日本の土を踏めたのは僅か500人と伝えられる。
(※かなりの割合で、故郷に戻らずに大東国に住み着いた者もいた)
「北府合戦」以後、大東に侵攻した日本軍は全軍が総崩れの状態に陥る。
各地の小さな街などに籠城して時間を稼ぐのが精一杯で、その過程でさらに大東人の恨みを買って自滅していった。
・1388年
この年に入ると、大東の主要な地域は奪回され、日本軍は最初に侵攻した茶茂呂地方のある黒岩山脈より南側に追いつめられた。
日本側が頼みとした黒岩山岳要塞遅滞も、地の利を持つ茶茂呂系の黒姫氏の大東側での大挙参戦もあって簡単に崩壊。
この年の夏までに海に逃げることが出来なかった日本軍と日本軍に与した大東人合わせて約2万人が、茶茂呂氏の拠点である瓜磨と南都に籠城。
しかし既に地の利も無く、茶茂呂人からも裏切られた日本軍になす術なかった。
夏までに日本人が勝手に作った茶茂呂国は、何も残さないほど崩壊。
続いて大東国軍が、南都を呆気なく奪還。
降伏した者を含めて、日本軍は皆殺しとされた。
・1389年
大東国内における日本軍の作戦行動が終了。
日本兵は、日本列島に逃げるかさもなくば平家の落人のように大東島内に潜伏するか、さもなくば復讐に燃える大東人に殺された。
実質的に、この時点をもって「第二次日本・大東戦争」とも呼ばれる「二十年戦争」は終了した。
・1392年
「二十年戦争」自然休戦。
両者が戦争が終了したと判断したのがこの年であるだけで、講和会議などは特に行われなかった。
また、依然として日本側が大東国を独立国として認めたわけでもなく、基本的な政治状態にほとんど何の変化もなかった。
唯一の変化は、大東人に日本人(大東側は「大和人」と呼んでいた。)に対する憎しみと復讐心を植え付けただけだった。
fig.1日本軍の進軍経路




