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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート・戦後編

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420 Global Age(1)

 ■冷戦の終わり


 1985年、ソビエト連邦ロシア(ソ連)でミハイル・ゴルバチョフが書記長に就任すると、ソ連で大きな変化が始まる。

 一方のアメリカ合衆国は貿易赤字・財政赤字に苦しみ、過剰な軍事費を必要とするソ連との冷戦に飽き飽きしていた。

 しかも世界は、人口の拡大、経済発展などで第三世界などと言われる先進国以外の国々が台頭しつつあり、イスラム教の原理主義勢力も姿を見せ始め、新たな時代を模索する段階にきていた。


 そうした情勢下でソ連のゴルバチョフ書記長は、ペレストロイカ(立て直し)とグラスノスチ(情報公開)を始める。

 さらに社会主義を一部改めて、市場経済の導入を図った。

 そしてアメリカとの融和を図り、様々な外交的成果を上げていく。

 これを新思考外交と呼んだ。


 極東で直接向き合う日本とソ連との間でも、対立の時代を終わらせるべく話し合いが持たれた。

 日本の国力、軍事力が巨大でアメリカとは一定の距離を置いているので、ソ連としても独自に日本と話すべきだと考えたからだ。


 その日本は、天安門事件で共産中華との関係が大きく悪化していたので、ソ連との関係改善には前向きだった。

 日本は核軍縮では米ソと共同歩調を取り、日ソ双方の軍縮、軍備削減は早くも1990年に開始される。

 

 そして1989年12月3日、地中海のマルタで米ソ首脳の会談で終結が宣言され米ソ冷戦は終了。

 東ヨーロッパ諸国も社会主義体制からの脱却を図り、ソ連自身も1991年の末に共産党とソ連が解体されて呆気ない終焉を迎えた。

 

 日本とソ連との間でも、日本人とロシア人にとっての因縁の地であるハルピンにて和解し、「ハルピン会談」で握手した。

 連動して、ソ連にとって微妙な問題だった満州国、極東共和国とソ連の間にも国家承認を含めた和解が実施された。

 だからこそ会談の場が満州国内だったのだ。


 勿論、それで平和が訪れたわけではない。

 新たな時代の幕開けを伝えるように、中東では1990年夏にイラクによるクェート侵攻があり、世界中の軍隊がイラクを撃退するべくサウジアラビアに集結。

 1991年1月に「湾岸戦争」が起きる。


 湾岸戦争での日本は、数年前に世界一の大国に躍り出たのにバブル経済の影響で経済的な海外進出を強める以外、アラブ世界に対しては消極姿勢だった。

 石油、天然ガスが自給できるようになって、貿易だけでなく交流や外交が希薄化していたのが主な理由だった。


 それでも1980年代にあったイラン・イラク戦争では、タンカー攻撃に対する護衛のために西側諸国と足並みを揃えて軍艦を派遣している。

 そのイラン・イラク戦争では消極的にイラクを支持したが、イランを止めるためや石油を買うためではなく武器が売れるからだった。


 また、中東情勢に疎くなっていたのもあり、イランの原理主義もあまり危険視はしていなかった。

 政治的にはイランに同情的だったほどだ。

 一方で湾岸戦争時のイラクの独裁者は、何かとアメリカと対立しがちな日本に一方的な期待を寄せたが、日本軍はアメリカ軍と肩を並べた。


 湾岸戦争の派兵に際しては、侵略戦争を容認するわけにはいかないし、石油価格の安定化も必要だという建前だった。

 一方では自国兵器のアピールの場とも考え、目立てるだけの戦力を派兵する。

 なにしろ日本は、世界有数の武器輸出国だった。


 そして日本は西側第二位の巨大な軍事力を誇り、日本海軍が妙に積極的だった事もあって、アメリカに次ぐ大艦隊をペルシャ湾に派兵した。

 その規模は保有する大型空母の半数に当たる3隻と、少し前の軍拡で大規模な近代化改装したばかりの戦艦1隻など、第二次世界大戦以来といわれた大艦隊でアメリカ海軍と張り合った。

 世界中のメディアも、日米の大艦隊の姿を積極的に世界に伝えた。


 一方で日本の陸軍、空軍は共産中華対策として主力は満州などに留め置かれ、特に地上部隊はお付き合い程度しか湾岸に派兵されなかった。

 地上部隊は空挺部隊こそ初期の段階で派兵されたが、本格的な機甲部隊は教導団を中核とした小規模な派兵にとどまった。

 また海軍所属の陸戦隊も派兵されたが、主に特殊部隊とされる兵力なので裏方に徹していた。


 地上部隊の不足は、一応は砂漠環境での運用経験が浅いのが理由とされたが、乾いた環境なら共産中華と睨み合う満州の一部はほぼ砂漠地帯で、派兵を躊躇う理由にはならない。

 陸軍の派兵の規模は日本の衛星国の満州国の方が多いほどで、日本の中東、ペルシャ湾岸に対する関心の低さを物語っていると見られた。

 だが全体として見ればアメリカに次ぐ大軍で、見た目にも目立つ軍艦が多いので十分に存在感を示した。


 そしてイラク軍は、圧倒的という以上の戦力を集めた多国籍軍により、呆気なくクウェートから撃退された。

 戦争というよりは、冷戦最後のイベントであり新たな時代の幕開けの事件して歴史に記録されることとなる。



 ■冷戦後の安全保障体制


 湾岸戦争が終わりソ連が崩壊すると、一見すると平和な世の中が到来したように感じられた。

 それだけ自由主義陣営と社会主義陣営の対立が激しかったからだ。


 何しろ1980年代は、相互確証破壊(MAD: Mutually Assured Destruction)という言葉に代表されるように、米ソの全面核戦争が起きたら全人類が滅亡するほどの破壊がもたらされると考えられていた。

 しかも欧州正面では、東西の大軍が睨み合っていた。

 

 だから米ソを中心とした冷戦に深く関わっていた欧米では、開放感が溢れていた。

 しかも大幅な軍備の縮小、主にポーランドにいたソ連の東欧駐留軍の撤退など、すぐにも動きがあった。

 極東でも日本とソ連の軍備は大幅な減少が開始される。

 ロシア(ソ連)としては、極東もしくは東シベリアは核戦力の基地や後背の防衛以外で戦略的価値が低いので、日本との対立解消は大きな利益があった。


 日本としても、満州駐留軍をようやく本格的に減らす事ができた。

 また湾岸戦争では、米軍をはじめとしたNATO軍の兵器の在庫一斉処分のような戦闘が行われたが、日本海軍も存分に活躍し、そして海軍は金がかかるのが常なのでかなりが削減されていった。空軍の戦略爆撃機についても同様だ。


 その一方で、天安門事件や尖閣諸島を巡る問題、さらには共産中華の反日政策により、日本と共産中華の対立はむしろ強まっている。

 しかし当時の共産中華の軍事力は、日本(+満州)と比べて大きく劣っていた。この頃は比較にならないほどの国力差があり、それが軍備に反映されているので当然の状態だった。

 共産中華の人民解放軍が優っているのは兵士の数だけで、戦争になれば一方的に撃破できると予測されていた。


 このため共産中華は核戦力と弾道弾の開発に力を入れたが、そのどちらでも日本が圧倒していた。

 日本は大陸間弾道弾、戦略爆撃機などの運搬手段を保有し、自力で有人宇宙ロケットすら打ち上げられた。しかも1980年代からは、日本が宇宙開発で世界一となっていた。

 核兵器自体も大威力の水爆が標準的な戦略核で、威力、命中精度、生残性、全てで大きく上回っていた。


 それでも日本としては、共産中華が核兵器と弾道弾を持つのは脅威であり抑止力となっていた。

 加えて中満戦争での人海戦術の記憶があるので、日本と矢面に立つ満州は共産中華に対する軍備に手を抜くわけにはいかなかった。

 日本にとって、例え国交が結ばれても共産中華が一番の脅威だと認識されるようになっていく。


 もっとも日本は、本土の侵略を受けた事がない。

 だから日本人が身近に感じる脅威は、敵国の軍事力ではなかった。

 本国は安全というのが、近代化以後の日本人の一般認識でもあったからだ。



 ■戦後の天災


 日本にとって戦争より厄介なのが大規模な天災だった。

 何しろ日本の国土は、世界的に見て災害が多い地域にある。

 北から荒州加沖に始まり、荒海渡列島、千島半島、千島列島、東日本海、伊豆・小笠原と海溝もしくはプレート境界が連なり、造山帯、火山帯も多く日本は世界最大級の地震地帯だった。

 この100年ほどで、世界中で観測された最大級の巨大地震の半分以上が日本帝国の領域かその近辺で発生している。


 中でも西日本列島とその周辺は、地震だけでなく台風、雪害など様々な自然災害が多い。

 大規模自然災害の宝庫とすら言われる。

 そして人災は米ソ冷戦の終了のように終える場合もあるが、自然災害は恒例行事のようにやってくる。

 西日本列島は荒ぶる神々の大地だった。


 一方で、西日本列島の隣にある大東島は、西日本と比べると安定していた。

 何より、太平洋プレートの上にあるので地盤が安定している。台風の定期コースより少し東にずれているので大きな被害は受けにくい。

 降雨量も少し少なく高く鋭い山もないので、河川も急流は非常に少なく西日本のような豪雪地帯もない。


 西日本では治水(洪水対策)、大東では営林(森林保全)が、自然への代表的な取り組みだった。

 また大東では、渇水対策で人工の溜池作りが古い昔から盛んだ。大東島は膨大な人口を抱える島なので、現代でも水資源の確保は至上命題ですらある。


 また大東島の場合、千島海溝、日本海溝、伊豆・小笠原海溝でのプレートの移動によって起きる大規模な海底地震と、年に数個程度が襲来する台風が大規模な自然災害となる。

 大きいとマグニチュード8クラスの巨大地震となり、多少距離が離れている大東島の西側にもかなりの揺れと津波を発生させる。


 だが大東島は地盤が安定しているのもあり、地震の揺れは最大でも震度5マイナス程度。せいぜい3程度しかない。それよりも大規模な津波の発生の方が脅威だった。

 だが大東島の平地の大半は海抜80メートル以上、平均で150メートルほどある。沿岸部も一定以上の海抜があり、津波で大きな被害を受ける可能性は低い。

(※1億年以上かけて太平洋を移動した間、地球の氷が全て溶けている時期でも殆ど水没していない。)


 河川の河口部の沖積平野も大東島では発達していないので、海に面した港湾は大きな河川を入ったすぐのところに作られる事が多い。

 沿岸の都市には埋立地もあるが、東日本海側は地面を高めに設定するか海抜10メートル程度まで防潮堤が作られている。

 想定外の被害だったのは、1960年のチリ地震での巨大津波になるだろう。この時は、太平洋側に面した沿岸部でかなりの被害が発生している。


 一方で東日本海で巨大地震による津波が発生すると、面倒なことが起きやすい。

 発生した津波が西日本列島と大東島の双方にぶつかり、その波がさらに反対側にも至り、それが何度も繰り返されるからだ。

 特に東北地方東日本海地震では、西日本列島で大きな被害が出た。

 ただし、被害は事前にある程度予測できるので防災対策はかなり念入りに行われ、最悪の中の最悪の事態を避ける事はできている。


 一方で大東島が太平洋上に存在するので、日本海溝、千島海溝の多くで起きる地震による津波を他に及ぼしにくい。

 大東島が壁となるので、津波が太平洋に広がりにくいためだ。

 このお陰で、北太平洋の島々は津波災害から守られているとも言える。


 そして被害を受けると救援、復旧、それに防災が必須となるが、西日本列島での意識が非常に高く、大東島や他の地域では低くなりがちとなる。

 それでも巨大な国家なので、西日本列島には日本が統合して以後、多くの予算が防災に投じられてきた。

 そのお陰で多くの人災は避けられたと言われている。


 そうした戦後日本の3大災害が、1959年の伊勢湾台風、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災となる。

 他にも大きな災害は何度も発生しているが、防災のお陰で被害が防がれている。その防災が時代的に間に合わなかったのが、伊勢湾台風になるだろう。


 そうし中にあって、都市型直下地震の阪神・淡路大震災、巨大すぎる地震の東日本大震災は防ぐには限界があった。

 だが防災を怠っていれば、より被害が広がっていたのは間違いない。

 そして新たな災害により、さらに強固な防災対策が講じられるようになってもいる。

 

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― 新着の感想 ―
被害が大きいのは西日本列島なのに東日本大震災というのも妙な感じですね……東北関東大震災あたりに名称が変わってそうなもんですが。
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