413 Cold_War_Age(13)
■中満戦争後の日中関係の推移(1)
20世紀全体を通じて、日本と中華(支那)地域の関係は悪かった。
清帝国の時代は考えないとしても、第一次世界大戦から日本は帝国主義的な支那進出、そして侵略を続けた。
ついには満州を切り離し、完全に自分たちの勢力圏にしてしまった。
第二次世界大戦前には、「日支戦争」という全面戦争すら行った。
少なくとも第二次世界大戦以前は、日本に非が多い対立関係だった。
第二次世界大戦後も、1948年に共産主義国の中華人民共和国が成立したこともあって強い対立関係が続いた。
日本が共産主義に対して強い敵対意識を持っていたので、融和や妥協はなかった。
特に満州国境では「中満戦争」を行い、その後も大軍を並べて激しい睨み合いをしていた。
国交すらまともにない時期も長い。
一方で共産中華は単独では日本に対抗できないので、ソビエト連邦ロシア(ソ連)との関係を友好とまでいかなくとも維持せざるを得なかった。
しかし同じ共産国家のソ連と共産中華は、1958年前後に主に共産中華の「大躍進」政策が原因で関係が悪化。微妙な状態のまま、1966年に共産中華で「文化大革命(文革)」が始まる。
そしてソ連は、実質的に共産中華との関係を断交する。
というよりも、危険を感じて切り離した。
もっとも文革は、世界中すべての国、特に共産中華と国境を接する国にとって大きな恐怖だった。
1968年に最盛期となり、多くの人々、特に学識ある人々が事実上の虐殺をされた事が恐怖なのではない。文化が破壊されたのも、半ば自業自得としか考えてなかった。
恐怖なのは、共産中華があまりの混乱と惨状なので、国がいつ崩壊してもおかしくはないと考えられたからだ。
そして国が崩壊したら、膨大な数の難民が発生すると簡単に予測できた。
ベトナム戦争で大きな支援を受けていた北ベトナムですら、国境は固く閉ざしていた。
日本は満州と台湾の防備を厳重に固め、共産中華を海から包囲するように海軍と空軍で監視する体制を整えた。
満州国境の地雷原や鉄柵、監視哨の大幅な強化もした。
万が一の事態になれば、重砲弾幕と機関銃で追い散らす覚悟すらしたと言われる。
実際は暴徒鎮圧用の放水車を多数用意したのだが、日本が共産中華の崩壊を強く警戒したのは間違いなかった。
そして日本の行動を、共産中華は日本の挑発だと表向きは受け取った。その理由は、外圧によって国内の不満を逸らせると考えたからだ。
1968年には、日清戦争での「下関講和条約」も否定し、台湾の領有権は日本にはないと一方的に宣言した。
(同時期、ロシアとの間の北京条約(1860年)も否定し、極東共和国の存在自体も否定しているし、チベットが英米の後押しで自立を維持しているのも否定していた。共産側のモンゴル、東トルキスタンにも否定的な言葉を発表している。)
尖閣諸島に対する動きも、その一環でもあった。
だからこそ、尖閣諸島の領有権を主張して漁船を送り込んで紛争を起こしたりもした。
勿論、尖閣諸島の海底油田は本当に欲しいし、手に入らなくとも日本に嫌がらせができればという考えが強くあった。
だが、国内の不満解消の政策だったのも間違いない。
そうして日本と共産中華の対立は続いたが、アメリカが核戦力を大幅に増強するソ連を政治的に包囲する為、共産中華との関係改善を図ることで変化が訪れる。
文革をなんとか乗り切った共産中華の指導部は、アメリカの動きに合わせて日本との関係改善も模索。
共産中華としても、関係悪化の一途を辿るソ連が脅威だったからだ。
アメリカは1971年に要人が訪中し、1972年には大統領が訪中して関係を改善させた。一方では、満州国との関係を希薄化させた。
そして1979年に国交を正常化させている。
他の国もアメリカに続き、これで中満戦争以後の関係がようやく改善された。
だが日本は、米中の突然の関係改善をアメリカの日本に対する裏切りと受けとった。
なにしろ1971年は、尖閣諸島を巡る対立が激化していた時期だ。
アメリカは関係改善すれば問題も解決に向かうと日本に言ったが、日本はアメリカのあまりにも楽観的な考えにのけぞった。
日本は、満州、尖閣、台湾海峡で対立する共産中華との安易な妥協はないと判断し、アメリカからのソ連包囲のために歩調を合わせないかという声を表向きは謝絶。
実際は怒り心頭となった。
さらに少ししてから、日本と満州の連名で共産中華が国家承認していない満州は極東防衛の要だと訴えてアメリカを強く非難した。
日本の動きにソ連は即座に反応し、表向きは日ソのデタントという形で日本とソ連の関係の方が改善を見せた。
極東でのソ連と日本、満州の一部軍縮が行われ、少しだけ余裕がでたソ連は欧州や他の方面への圧力を強めた。
日本、満州は共産中華に向ける兵力を増やした。
一連の動きは「冷戦の日中トレード」とまで言われた。
日本、満州の動きは、アメリカと西欧諸国への当てつけに近かったが、アメリカよりも西欧諸国が慌てた。共産中華との関係改善はともかく、日本とソ連が接近するとは考えなかったからだ。
その後は日本との間に何度も交渉が持たれ、アメリカが一気に進めようとしていた共産中華との関係改善を足踏みさせている。
一方、日ソ双方の動きは共産中華にとって敵対行為だが、それでも当時の共産中華の指導部は日本に譲歩を見せる。
この頃の共産中華は、文革の影響(国内破壊)で国力が低下し過ぎていた。ソ連とも事実上の断絶状態となったので、満州単独にすら怯える状態だった。1968年以後、首都北京は軍事都市宣言が出され続けたほどだ。
そこで日本との対立を何とか緩和し、ソ連にも備えるのが国益に合致した。
だが日本は、最低でも尖閣諸島領有宣言に対する謝罪込みの公式な撤回、下関条約破棄の撤回、満州国承認が関係改善の条件だとして譲らなかった。
しかし共産中華は、満州はもちろんだが、尖閣領有宣言ですら今更撤回するわけにはいかなかった。
撤回は国内的に国是に関わるからだ。
この為共産中華は関係改善したばかりのアメリカを頼るが、アメリカへの不信を募らせていた日本はアメリカの言葉を受け入れることはなかった。
アメリカも日本への不信を強め、交渉は上手くいかなかった。
しかも1969年に共産中華が初の原爆実験を成功させると、日本の態度はさらに硬化した。
それでも、1972年に米中が和解したのを無視することはできなかった。
それに互いに核兵器を向ける関係で、日本としても共産中華と敵対ばかりしている場合ではないと戦略的、軍事的な合理的判断を下すようになる。
共産中華も最初から日本との交渉を望んだ。
しかし日中が合理的な考えから歩み寄ろうとした頃、共産中華を指導してきた毛沢東、周恩来が1976年に続けて死去。
共産中華は国内体制の立て直しのため、しばらくは積極的な外交は取れなくなる。
日本も拙速は控えた。
(神の視点より:史実での中華人民共和国の核実験成功は1964年。東京五輪への当てつけのように10月16日に行われた。実験はウイグルの砂漠で行っているので、この世界では内蒙古の砂漠が実験場になるだろう。
なお、この世界の中国は満州など領土も少ないし、資本主義を体験した満州の国民、戦前の日本の資本を手に入れていないなどマイナスが多いので開発は5年遅れとした。)




