411 Cold_War_Age(11)
■尖閣海底油田(2)
尖閣海底油田を巡る情勢は、1973年10月の「オイル・ショック」で一変する。
1971年の小規模な商業採掘開始の時点では、島から油井を掘ったので比較的安価に掘れた。
だが海底油田となると、輸送コストの低さを考えてもペルシャ湾岸の石油と比べるとコストに合わないものだった。
エネルギー面での国家安全保障、外貨流出の阻止を考えても、大規模採掘には二の足を踏んだ。
だが全てが一変した。
原油価格の急速で大幅な上昇によって、日本帝国各所で発見された油田は十分に採算が取れる見込みが立った。
それでも荒州加油田は採掘コストがまだ割高だったし、北樺太はコストが高い上に規模が限られていた。
このため尖閣海底油田はより注目され、すぐにも大規模な開発と採掘が開始される。
1974年度の政府予算では、巨大な開発予算が組まれた。
尖閣海底油田、ガス田のある場所は、東シナ海の中でも氷河期に多くが陸地になったように水深は浅い。
加えて東シナ海は波も比較的穏やかだった。
台風の通り道ではあるが、季節も限られ頻繁に来るということもない。
海底油田の採掘は比較的容易で、幾つもの超巨大な油井が建造された。台湾までの約200キロメートルのパイプライン敷設も、大陸棚に沿って敷設するのでコストも極端に高くはなく、敷設も大きな問題はなかった。
(※北海油田の主な鉱床よりパイプラインの距離は短い。逆に東シナ海の方が深水は深い。)
だが規模が大きいので、全てを行うには作るための準備と時間が必要で、まずは尖閣諸島で最も大きな島の魚釣島の徹底利用が開始される。
基礎工事などは1970年から始まっていたのもあり、オイルショック以後の工事は国を挙げて大規模に進められた。
島の住民は十分以上の補償をした上で大半を移住させ、島の大改造を開始。大規模な埋め立て、山とも言えない傾斜地を削り、その土砂も埋め立てに利用した。埋め立て土砂については、他からも大量に運ばれた。
そうして従来は6平方キロメートルほどだった平地を、大規模な造成と埋立で二倍以上の13平方キロメートルに拡大。
島の形は、半分ほどが幾何学的な形状となった。
しかし1平方キロメートルの土地を使っても、石油の一時備蓄タンクは500万キロリットル分くらいしか確保できない。
島の陸地からの石油の採掘も、限られた場所からの中規模のものにとどまった。
(※採掘量の目安は1日当たり160万から170万キロリットル、年産5億トン(約6億キロリットル)程度。他、アラスカなどを合計して5億5000万トンから6億トンを国内で採掘。)
(※神の視点より:史実と違い日本が中東などの石油を殆ど買わないが、1990年代くらいからは満州がかなり買うようになり、その後韓国、中国が続く。世界の石油市場は史実とそれほど大きな違いはない。)
(尖閣油田の石油は日本の需要を満たすので手一杯。)
一方で、大規模な製油所の建設は当初は考えられていなかった。油の質も良い方だったし、製油所なら既に日本各地の臨海工業地帯にあったからだ。
その代わり、海上の油井からのパイプラインと一時備蓄タンク群、積み出し港、それに余った斜面には労働者の居住施設が所狭しと作られた。
製油所、発電所も小規模なものが作られたが、島とその周辺で使う為だった。
また、堤防で囲んだ人工の珊瑚礁のような建設工事が広い範囲で行われ、タンカーの一時停泊場所とすると共に、その後浮体式の一時備蓄タンク群が係留されていくことになる。
一方で、石油関連だけで限られた貴重な土地を使いきってはいけなかった。
後の工事となるが、天然ガス用の土地として半分程度が確保され、液化天然ガス(LNG)工場、一時備蓄タンク、専用の積出港、追加の居住区が作られていく。
そうして小さな島を丸ごと改造したので、環境保護などまるで無視した要塞のような島へと変貌を遂げる。
だがそれだけしても、日本が必要とする石油だけで年産5億トンもの採掘規模に対して島の土地は全く足りなかった。
それでも島からの採掘による小規模採掘が、1970年から島の工事と並行して始まった。
先行して尖閣諸島からの積み出しが開始されたのだが、規模がどうしても限られた。
大規模化は、1976年には海底パイプラインが台湾まで伸び、台湾北部に大規模な一時備蓄基地と積出港、それに一定規模の製油所が建設されてからだった。
それまで台湾には、製油所など石油化学関連の施設、工場はなかった。今までは、石油を輸入した上で加工する製油所などは日本各地にあった為だ。
だから初期は、原油はパイプラインからそのままタンカーに積み込まれる場合も多かった。だが徐々に製油された上で日本各地に運ばれるものも増えていった。
ただし尖閣での洋上積出し体制が強化されると、一定程度以上のパイプライン経由での台湾からの積出しも減った。
海底のパイプラインは保守管理が手間だし、環境汚染にも注意が必要だったからだ。
だがそれ以上に、共産中華の妨害、場合によってはテロや破壊工作にも注意しなければならず、安全保障上の観点からも台湾に伸びるパイプラインにエネルギー供給の全てを託すわけにはいかなかった。
一方で、沖縄島や九州へのパイプラインは建設されなかった。尖閣から台湾なら大陸棚の上で敷設や維持も比較的楽だが、他へ伸ばすとなるとそうはいかない。
尖閣諸島と沖縄本島、九州の間には沖縄トラフがあるなど、地形障害もある。
しかも沖縄島でも台湾の二倍の距離があり、建設は可能でも維持管理、さらには安全性を考えると採算に合わないと判断された。
一方で台湾は、経済効率と日本各地の施設の老朽化と更新に合わせて変化していく。
21世紀に入るまでには、台湾北部の沿岸に大規模な石油化学コンビナートが形成された。
他にも台湾には、液化せずに天然ガスのままの利用が行われ、石油または天然ガスによる安価な発電を行った。
そしてその安価な電力を使い、1990年代くらいからは多くの電力を必要とする産業の拠点として大きく発展していく。
21世紀に入り台湾が「電子産業の島」となったのは、そうした理由があった。
2020年頃からは、膨大な電力が必要な人工知能(AI)の島ともなりつつある。
そして台湾の例が象徴的なように、日本は膨大な地下燃料資源を保有するようになっても他の産業の発展を続けた。
これは、アメリカなど一部を除いて珍しい事例と言われる。
大量の資源を産出し、さらには輸出に回すと簡単に外貨を稼げるようになるので、膨大な資源を手にすると他の産業が停滞したり、場合によっては発展しなくなる事例が多いからだ。
だが日本は、既に先進工業国となっていた事、膨大な資源の大半を輸出せずに国内で消費した事、巨大な国内市場が存在する事、そして資源の自給により外貨流出を激減させた事などの要因から、そうした悪い事例に陥ることはなかった。
そしてそのもう一方の象徴が、尖閣諸島周辺にあった。
尖閣諸島にある洋上の採掘施設群は年々規模を拡大し、さらには洗練されていった。
1980年代には、安価な燃料資源による電力を用いるための工業団地と都市を作る「洋上都市」計画が立てられ、巨大浮体構造物の建造が開始される。
これらは「ウォーター・コロニー」と呼ばれた。
そして、建設された群の順に「サイド1」という番号が、区画ごとに「1バンチ」と順番の番号が設定されるほどの巨大洋上都市となった。
この「ウォーター・コロニー計画」は非常に大規模かつ雄大な規模で、日本神話の「国産み」になぞらえられたりもした。
単なる石油採掘としてではなく、鉄鋼、造船など多くの産業を巻き込んだ、超巨大な国家プロジェクトとして推進されたからだ。
新たな油井は当然として、洋上備蓄基地、発電所、様々なプラント群、工業団地、人口10万人規模の都市居住区と上下水道などの社会インフラ、商業区画、港湾、コンテナヤード、加えて国際空港基準の洋上飛行場までが建設に含まれていた。
そして海上都市の拡大につれて、尖閣から積み出される石油、LNGは増えていった。
台湾へのパイプラインの安全保障上での問題(共産中華のテロや妨害の可能性)もあり、年々拡大している。
台湾からの積出も年々減少した。
また、あまりにも斬新で巨大な洋上の建造物なので、施設そのものが観光となり宿泊を含めた観光区画も年々拡大した。
必要な水資源は、施設全体から雨水を貯めるシステムと、幾らでもある石油と天然ガスの熱による真水の生成で賄われた。
建設に際しては、尖閣諸島の周辺海上にまずは大規模な人工環礁が形成された。その中に、100メートル四方のブロック状の石油採掘基地のような構造物をマス目に繋ぎ合わせた、白亜(正確には白灰色)の巨大構造物が急速に広がっていった。
21世紀に入る頃には、「世界最大の人工構造物」としてギネスブックの記録を更新し続けるようになる。
ここでは「洋上都市」の研究・建設のために半民半官の「日本海技研」(正式名称「日本海洋技術研究公団」)が設立され、海上開発全般の利権を牛耳るようになる。
この会社は21世紀には株式会社となって採掘事業にも深く関わるようになり、世界各地にも進出し、巨大コングロマリットと化していく。
また、既に利用が始まっていたのもあり、石油採掘の後を追うように天然ガスの採掘も行われた。
当初はともかく、1980年代に入ると大量に採掘されるようになり、液化天然ガス(LNG)にした上で日本各所に運ばれていく。
そうして日本は、1970年代のうちに石油を自給するようになると同時に、天然ガスについても当初からLNGという形で自給を達成した。
大量のLNGは、自給だけでなく満州、韓国、アメリカにもかなりの量が輸出された。
アメリカも、西海岸は中東より日本が近いので日本の石油輸出を望んだが、日本と日本周辺での需要が多く友好関係を演出する象徴的な輸出しか行われなかった。
日本国内で膨大な需要があるので、大量に輸出するゆとりまでは無かったからだ。
その証拠とばかりに、10年ほど経ってからだが北樺太、荒州加の油田、ガス田も順次開発されている。
一方で、超巨大油田、ガス田が発見された日本が中東油田の石油をほとんど買わなくなったので、世界の石油価格に影響を与えた。
基本的には値が下がり、産油国以外からは日本の石油採掘は歓迎された。
しかしアメリカ、というよりアメリカのオイルメジャーは日本での大規模な石油採掘を苦々しく見ており、何かにつけて文句をつけるようになる。
OPEC(石油輸出国機構)には日本も所属したが、関係国はあまり好意的ではなかった。
何より、日本の大油田を憎んでいる者たちがいた。




