345 2nd_War(11)
■第二次世界大戦(4)
日本参戦の最初の一撃は、宣戦布告から48時間後に行われた。
航空母艦6隻を中核とする空母機動部隊による、ドイツの重要軍港だったヴィルヘルムス・ハーフェンに対する大規模な空襲が、その攻撃だった。
日本としては象徴的な意味を込めての攻撃だったが、大胆な攻撃を予期していなかったドイツは大きな打撃と、そしてより大きな心理的衝撃を受けた。
ドイツ宣伝省は、日本の連合軍参戦は日本自身が後悔するだけに終わる愚かな行為に過ぎないと強く蔑んだ。
だが、結果は火を見るより明らかだった。
何しろ、実質世界第三位の国力を有する国が本格参戦したのだ。
日本の参戦は1942年6月初旬だったが、日本政府及び軍は戦争準備については非常に先に進んでいた。
軍の派遣も、実質的には前年の夏からインド洋、中東を目標にして進んでいた。
1942年に入る頃には、日本船籍の船を護衛するという名目で、エジプトのアレキサンドリアまで日本海軍の軍艦が正式に来ていた。
英本土に入る商船も、1941年の夏には多数に及んでいた。
そして自衛という名目で、ドイツ軍、イタリア軍の空襲に対して反撃も実施している。
イタリアの人間魚雷で2隻のイギリス軍戦艦が使用不能になると、すぐさま日本海軍の戦艦1個戦隊が危険を承知でアレキサンドリアに赴いてもいる。
おかげで、連合軍の戦力に穴を開けることも無かった。
海軍以外にも、1942年に入ると事実上の先遣部隊が陸軍部隊、陸海軍航空隊の全てで実施された。
日本国内での動員体制も、一旦の準解除から再び動員へと進み、しかも日支戦争を越える規模での動員が1942年春から開始されていた。
さらに、友好国からの治安維持の委託という名目で、東南アジア、インド洋各所に日本軍の進出が行われていた。
当然イギリスや各自由政府の了解を得ての事であり、1941年冬頃から日本帝国は連合軍として参戦したも同然だった。
民意の方も、政府が努力した戦意昂揚と、日支戦争を大きく上回る規模の戦争特需の到来のおかげで、日本の参戦に好意的となっていった。
そして日本が参戦した時、それは連合軍にとって大きな希望をもたらす時期でもあった。
ドイツ軍は依然強大で、同年5月に北アフリカ戦線では要衝トルブクがロンメル将軍の手で陥落させられ、東部戦線でも勢いを盛り返してソ連軍の反撃を粉砕していたからだ。
そして参戦から48時間後に行われた日本軍の攻撃は、枢軸側が警戒していたにも関わらず大打撃を与えた。
本節の最初に書いたように、空母6隻を中心とする今までない規模の空母機動部隊が、ドイツ海軍の根拠地の一つを爆撃した。
他にも、複数の艦隊が地中海各所の枢軸側拠点を攻撃し、大きな打撃を与えた。
地中海では、北海以外に2つの機動部隊が投入され、最も大胆なのは旧式の《金剛型》高速戦艦2隻を中核とする高速打撃艦隊が、占領されたばかりのトブルク港を艦砲射撃して火の海にしたことだった。
しかも日本軍の攻撃はこれだけでなく、即日エジプトでの制空戦闘にも加入し、参戦を待っていた日本軍の1個軍団を乗せた輸送船団がスエズ運河を越えた。
日本の陸軍部隊については、スエズを越えたら日本の参戦と見なすと枢軸側が強く警告していた為の措置でしかなかった。既にシンガポールやセイロン島では、1個軍、約10個師団もの日本陸軍部隊と膨大な量の自動車、装甲車が、北アフリカ、ヨーロッパ行きを待っていた。
現地イギリス軍への補給のための船団、多数の輸送車両なども用意されており、万全の体制だった。
それに日本本土での動員や移動を考えれば、1942年に入った時点で参戦していたも同然だった。
1942年7月にドイツのロンメル将軍は、エジプト最後の防衛線となるエル・アラメインに到達したが、そこには既に日本軍の先遣部隊も布陣していた。
上空には、連合軍からゼロ・ファイターを呼ばれた戦闘機が長時間舞うようになった。
しかも日本の参戦によって、東地中海の戦況は一気に変わった。
何しろ、航空隊を含めて日本海軍の3分の1の戦力が一気に投入されたからだ。
この戦力は、イタリア海軍・空軍の全力に匹敵する戦力だった。
このため北アフリカのドイツ軍は、地上では5月に大勝利を飾ったにも関わらず、一気に苦況に追いやられていた。
二群に分かれた日本の空母部隊は地中海東部を荒らして回り、枢軸側の航空基地群とその後方施設、さらには海上輸送網に大打撃を与えた。
仕上げは、イタリア海軍の根拠地タラントへの空襲だった。
一度イギリス海軍に攻撃を受けたイタリアは、タラントへの再度の攻撃を強く警戒していた。
しかし攻撃規模が、イタリア軍の予測を大きく上回っていた。
日本海軍による当時有する稼働高速空母の過半を投入した大規模な機動的空襲によって、以前の空襲に懲りて防衛体制を整えていたにも関わらず、当地のイタリア艦隊は大損害を受けて半身不随といえる状態に追い込まれた。
雷撃は無駄と考え行われ無かったが、急降下爆撃、水平爆撃は、『爆撃五輪』と現場将兵達が競い合う状態で、大型爆弾の連続被弾で、何隻もの大型艦が敢えなく破壊された。
連動したイタリア南部への空襲で、現地ドイツ軍を含めた枢軸側の空軍背力も大打撃を受けた。
そしてその上で、マルタ島には大規模な高速輸送船団が入港し、基地機能が停止するほど苦戦が続いていたマルタ島が完全に息を吹き返す。
同年8月8日に、イギリスの首相チャーチルが将兵の激励のためエジプトを訪問したときの「戦争は明らかに転換した。その事は前線にいる君たちが最も良く分かっているだろう」という言葉は、紛れもない事実だった。
ドイツ軍のロンメル将軍は、日英合同となった大軍の前に9月にはエル・アラメインから敗走しなければならなかった。
日本海軍の活躍もあって、枢軸側の北アフリカ、東地中海戦線は、根本から一気に瓦解していったのだ。
同年12月にアメリカが参戦するまでに、日英軍は北アフリカのチュニジアの一角にまで枢軸軍を追いつめ、地中海の制海権、制空権をほぼ掌握した。
日本海軍は小数の海兵隊(+空挺部隊)を奇襲的に投入して、ドイツ軍の退路を先に絶つ作戦に出てドイツ軍の消耗を強いた。
さらに枢軸側空軍の激しい空襲をはね除け、シチリア島との補給路を締め上げた。
ここで日本海軍は、激しい攻勢の代償として多数の艦艇が損害を受け、枢軸側も多数の輸送船舶を失った為、イギリス軍は周辺海域を「アイアンボトム・シー(鉄底海)」と呼ぶほどとなった。
そして犠牲を厭わず戦果を拡大する日本軍の積極姿勢は、イギリス軍などから非常に高く評価された。
日本が参戦すぐに大軍を投じて積極的作戦を展開したのは、アメリカが本格参戦するまでに少しでも得点を稼いでおこうという考えによるものだったが、その結果は大きかった。
日米英のレンドリースを受けたソ連軍も、11月19日に南部のスターリングラード方面で大規模な反攻に転じて、ドイツ軍の有力部隊を包囲下に置いた。
アメリカの参戦は同年12月7日で、参戦と同時に上陸部隊を満載した大艦隊を仕立てて、北アフリカの大西洋側にあるモロッコへと殺到した。
戦争が決定的に転換した瞬間だ。
しかし、イギリス国民を始めヨーロッパの人々の多くは、先の日本参戦とソ連の反攻開始により戦争が転換したと感じている事が多かった。
アメリカの参戦はだめ押しではあったが、アメリカ政府が思ったほどのインパクトは無かった。
アメリカが言った「希望の灯火」は、もう灯されていたからだ。
だが、アメリカの参戦によって、戦争の帰趨は決したのは間違いなかった。
アメリカの国力と生産力は、当時それだけ懸絶していた。
単純な数字で見ても、日本、イギリス(+英連邦)にソ連を足したよりも大きな国力と生産力を持っていたからだ。
日本が参戦した時、ドイツは有色人種であることを理由に口汚く罵っただけだったが、アメリカの参戦は内心大きすぎる衝撃だったのは間違いないだろう。
それでもアメリカが参戦した時のヒトラーは、アメリカは金満家の臆病者という程度の評価しかなかったと言う。




