06_気に入られた薬草茶(2)
それから数週間が経過した頃だった。
その日、イーリカはいつものようにアマンダのミュンスター子爵邸に薬草茶を届けた帰り、ふと顔を上げると通りの向こう側、薬草茶店の前に立つひとりの紳士が視界に入った。
老紳士のヘンリーかと思い、すぐさま駆け寄る。
しかしそこにいたのは、長身痩躯の青年だった。
目深に被った帽子のせいで、顔立ちはよく見えない。
一見すると地味にも見えた服装は近くで見ると、ボタンの装飾や襟元の刺繍などから仕立ての良さを感じさせ、裕福な家柄であることがうかがえる。
商人か、貴族か。どことなく上品な佇まいからすると、貴族の可能性が高かった。
そこまで考えてすぐに思考を止める。
(これ以上の詮索は不要だわ。いずれにしろ、見覚えのない人なんだから……)
失礼があってはいけないと思い、手早く店の扉を開き、青年を店内へと促す。
「大変お待たせいたしました。今開けますので」
手に持っていたかごをカウンターに置く。後ろを振り返ると、興味深そうに店内を眺めている青年が目に入る。
イーリカはわずかに警戒心を解く。こういう反応をする人は、ある程度薬草茶に嫌悪を抱いていない人が多いと経験上わかっていた。
「ご用をおうかがいいたします」
イーリカは初対面の心得として、できるだけ愛想よく見える笑みを浮かべて言った。
青年は店内を眺める視線を止め、イーリカのほうを向くと、おもむろに帽子を脱いだ。
帽子からさらりと落ちたのは、月光のような淡い金髪だった。
すっと通った鼻筋に、薄い唇。恋に疎いイーリカでさえも、どきりとするような端正な顔立ちの青年だった。
年齢はイーリカよりも少し上に見えた。
「あの薬草茶を作ったのは、きみ?」
青年はおもむろに口を開くと言った。
じっとこちらを見つめる瞳は、冬の泉が凍ったようなアイスブルー。無表情だとことさら冷たい印象を与える。
「あの、とは……?」
イーリカは問われている意味がわからず、失礼にも訊き返していた。
「眠りの薬草茶」
青年は気にしていない様子で言う。
(眠り……?)
ここ数週間の間、眠りに作用する薬草茶を渡したのは、あの老紳士のヘンリーだけだった。
「もしかして……」
イーリカが言いかけたところで、忙しなく扉を叩く音がした直後、勢いよく店の扉が開いた。
「やはりこちらでしたか……っ!」
そこには少しばかり息を切らせているヘンリーがいた。服装はこれまで見たものと異なり、主人に仕える立場の人間を思わせる黒いジャケットを身に纏っている。
ヘンリーはつかつかと店内に入ってくると、青年のもとへと歩み寄る。
「この曜日の午後は、店が開いていないことが多いと申し上げませんでしたか? そもそもひとりで行かれるなど。申し付けていただければ、私かほかの者が買いに参りましたのに」
少し小言っぽい言い方に、イーリカは目を丸くする。
落ち着きのある紳士然としたヘンリーしか見たことがなかったので意外だった。そのうえ、口の利き方もどこか子どもを叱る親のような雰囲気があり、イーリカの目には微笑ましく映った。
「少し気になっていたから、自分で来てみたかったんだ」
そう言う青年の冷え冷えとしたアイスブルーの瞳は、ヘンリーを前にするとわずかばかり和らいで見えた。
(ヘンリーさんが仕えているのがこの人なら、やっぱり不眠症で苦しんでいるのは……)
ちらりとイーリカは、青年に目を向ける。
よく見れば、目の下に薄っすらくまができて、少しばかりやつれているようにも感じる。
「すみません、イーリカさん、お騒がせしました」
「あ、いえ、それは、大丈夫なのですが……」
謝るヘンリーに対してイーリカははっとして視線を青年から離すと、両手を振る。
「ヘンリー」
青年がヘンリーに軽く視線を投げる。
ヘンリーはそれだけで主人の意図を理解したように、すぐさま慇懃な礼をとると、
「では少し用事を済ませてまいります。そのあとは店の外でお待ちしております」
と言って、扉から外へ出ていった。
途端に店内は静まり返る。
気まずさに耐えかねたイーリカは、たまらず口を開く。
「ええっと……、あなたがヘンリーさんのご主人さまだったんですね」
「正確には父の執事だが、子どもの頃から僕の世話をしてくれている」
青年はイーリカに目を向けると、淡々と答える。
しかし『子どもの頃から』という言葉に深い信頼を感じ、イーリカは羨ましく思った。
(まるで家族みたいね。だからヘンリーさんも、あんなに心配していたのね……)
「ヘンリーさん、とても心配されていらっしゃいました、あなたが眠れずに苦しんでいると……」
思わず言葉が漏れる。すると、
「そうか
そう言う青年の口元は、ほんのかすかにゆるんだように見えた。
「でも最近はきみが作ってくれた薬草茶を飲んで、ずいぶん楽になっているんだ。本当に助かっている」
イーリカはぱっと顔を輝かせて青年の顔を見る。そこにはお世辞でもなく、素直に感謝の気持ちが見てとれた。
「それは、本当によかったです」イーリカはうれしさが込み上げそうになるのを堪えながら、「では、いまお渡ししている分がそろそろなくなる頃でしょうから、追加の分をお作りしましょうか」
「ああ、ぜひ。それと──」
青年は頷く。そして付け加えるように言った。
「僕はノアという。きみの名前は?」
イーリカは目を瞬かせる。
おそらくそれなりの身分を有するであろう、ノアと名乗ったこの青年にとって自ら平民のイーリカに名乗ることも、またこちらの名前を尋ねることも、彼にとって必要なこととは思えない。むしろ常識ではあり得ないことだろう。それほどまでに身分の差は大きい。
イーリカは一瞬ためらった。しかし立場の高い人間から名乗られて名乗り返さないなど、これまたあり得ないことだった。
「……イーリカ・アシュと申します」
恐る恐る答えると、カウンターの奥へと急いで入る。
「少しお時間いただきますので、あとでヘンリーさんかどなたかにお渡しするようにいたします」
「いや、ここで待たせてもらってもいいだろうか」
その意外な返答にイーリカは一段と驚く。
店内には薬草茶を飲んでもらえるようにと、簡素だがテーブルと椅子を用意しているがあまり使われることはない。薬草の調合の間待ってもらうことがないとは言えないが、よく出る種類はある程度作り置きしているので受け渡しだけで済む。
そのうえ大抵のお客さまは薬草茶は欲しいが、通りを行き交うほかの人の目に留まるのは避けたいようで、そそくさと買って帰る。もしくは身分のあるお客さまの場合、使用人を使いによこす。そのためここでのんびりお茶を飲もうと思う人はほとんどいないのだ。
だから彼もヘンリーか、もしくはあとで取りにくるであろう使用人に渡すのだとばかり思っていた。
「えっと……」
(本当にいいのかしら? そもそも身分のあるような方をお待たせできる店内でもないけど)
イーリカにとってこれ以上ない最上級の店だが、ほかの人から見ればこじんまりとした古ぼけた店に映ることは理解していた。
「無理にとは言わない」
ノアが淡々と言った。
その様子にイーリカも考えを改める。
(他人の目を気にする方ではないのね。ならいいのかしら)
「……では、お待ちいただく間、何かお飲みになりますか?」
「ああ、いただこう」
ノアはおそらく彼が普段腰かけている椅子とは比べものにならないほど質素な椅子に、さほど気にする様子もなく腰を下ろす。
そのあとイーリカは疲労回復に効果がある薬草茶を淹れ、それを飲んでもらっている間に、前回渡したものと同じ、眠りに作用する薬草茶を作り始めた。
時折視線を感じて顔を上げると、珍しいそうにこちらを眺めているノアと目が合う。
異性にあまり免疫のないイーリカは、たまらずぱっと顔を伏せる。
正直なところ、イーリカは幼い頃から意地悪する連中がそばにいるため、男の人は苦手だった。
一番身近なバーンズ商会のハンスは今でこそ仕事柄お世話になるようになったこともあり、昔より苦手意識も薄れていたが、いくら友達がほしくても、意地悪する連中の前と自分の前とで態度を変える人と友達になりたいとは思えなかった。
そのためノアの視線を受けるイーリカは、いつになく緊張しながら作業を進めることになったのだった。
しばらくして、完成した茶葉を薄紫色の缶に詰め終えると、ノアの前に差し出す。
「大変お待たせいたしました。またご入り用でしたらお申し付けください。すぐにご用意いたします」
「ありがとう」
ノアは受け取った缶をしげしげと眺める。
そこでちょうど店の扉が開いた。
ヘンリーだった。おそらく少し前から、壁際のガラス窓から中の様子をうかがっていたのだろう。
店内に入ってきたヘンリーは、両手のひらを恭しくノアの前に差し出し、薄紫色の缶を受け取る。そしてイーリカへの支払いを済ませる。
「お世話になりました。また入り用の際はこちらに伺っても?」
「ええ、もちろんです。先ほどそのようにお伝えさせていただいたばかりです」
イーリカは微笑んで返す。
ヘンリーは大きく頷き、
「では、失礼いたします」
そう言って、店の扉を押し開く。先に外へ出て扉を押さえておき、ノアを促す。
イーリカは彼らを見送っていたが、ノアがふと振り返る。
「先ほどのお茶も、おいしかった。ごちそうさま」
その口調は淡々としていたので、おいしかったと言っているような表情には見えなかった。
でも嘘ではないだろうと思えたイーリカは、素直に笑みを見せて返す。
「お口に合ってよかったです」
次回から、ふたりの距離が徐々に縮まります……!






