49_ため息
薬草茶店のカウンターの中でイーリカが開店準備を進めていると、控えめに扉が開く音がした。
イーリカは反射的に顔を上げたが、すぐにいつもの表情に戻ると言った。
「ああ、ハンス……」
扉を開けておずおずと顔を覗かせているのは、この店の薬草茶を取り扱ってくれているバーンズ商会の次男坊ハンスだった。
「……入ってもいいか?」
ハンスは気まずげに尋ねる。
「いつもはそんなこと訊く間もなく、入ってきてるじゃない」
いつになくしおらしい態度のハンスを訝しみながらも、開店準備の手を再開させたイーリカは答える。
「そうだけど……、ほら、前に会ったとき、ちょっと言い争いみたいになったままだったから……」
イーリカは何かあっただろうか、と首を傾げる。
その様子にハンスは一瞬ぽかんとし、ついでわなわなと震える。
「お前、もしかしてもう忘れてるのか⁉︎ あんなに俺が、悩んでたのに……」
そう言うなり、ずかずかと店内に入ってくると、カウンターの上に身をのり出すようにイーリカに迫る。
イーリカは、はたと思い出す。
「ああ、そういえば……」
『深入りするな、あいつは、この土地の、あのタウフェンベルク伯爵家の嫡男だぞ!』
数か月以上も前、この店内でノアとハンスが鉢合わせになり、ノアの正体がタウフェンベルク伯爵家だと気づいたハンスが、イーリカにそう忠告したことがあった。
あのときは、戸惑いと握られた手首の痛みでかっとなってしまったあまり言い争いになる形で、イーリカはハンスを追い返してしまったのだった。
「そうね、あのときは失礼な態度をとって、ごめんなさい」
思い返してみても、お世話になっている人に対する態度ではなかった。イーリカは素直に謝った。
ハンスはことのほか素直なイーリカに虚をつかれたように、目を見開く。
「お、おう。いや、俺も悪かったっていうか……。そ、そうだ、俺しばらく隣国へ買い付けに出てて、ずっとここに来られなかったけど──」
頭をかきながら、ちらりとイーリカの様子をうかがう。
イーリカはさらりと答える。
「ああ、それで、ずっと姿が見えなかったのね。でもあなたの代わりに、商会の人が薬草茶を取りに来てくださったから、問題はなかったわ」
「そ、それだけか! てか、あいつら、俺が隣国に行ってたこと、お前に伝えてなかったのか⁉︎」
「え? ええ。『しばらくハンスさまの代わりに、我々が交代で薬草茶を取りに来ますので』という紙片だけを渡されて……」
(何かまずかったかしら……?)
イーリカは代わりに来てくれた商会の人に迷惑がかかってはと思い、慌てて補足する。
「あ、でも、忙しい合間を縫ってわざわざ取りに来てくれてたのよ。いつも足早に帰らなきゃいけないくらいに」
「くそっ! しゃべるな、長居するなって言ったのが裏目に出たのか!」
ハンスがイーリカに見えないように後ろを向いて毒づく。すぐに切り替えると、
「……ああ、いや、いいんだ。それより俺が来られなかった間、変わったことはなかったか?」
イーリカは一瞬真顔になり、ややあって首を横に振る。
「ええ、何も、いつもどおりよ……」
そう言いながらも、ふとわずかに視線を遠くに向ける。
「ハンスは隣国に行けるなんていいわね……」
そこで言葉を区切ると手元に視線を落とし、何か思いついたように顔を上げる。
「……もしも、もしもの話だけど、わたしでも、どこか別の国に行って働いて生活できたりするかしら?」
ハンスは驚きをあらわにする。
「え⁉︎ ど、どうしたんだよ、急に。女がひとりでやっていけるわけないだろ。この店だって、代々続いているからお前ひとりでもやれてるようなもんだし……」
「そうね」
イーリカははっと我に返る。何でもないように微笑む。
(大事なこの店を放り出してどこかへ行くなんて……、何考えてるのかしら)
気落ちを切り替えるように後ろの棚に向き直ると、薬草茶が入った缶をひとつひとつ確かめていく。
「で、でも、お前がどこか別の国に行きたいっていうんなら、俺が連れて行ってやっても……」
背後でもごもごと口にするハンスの言葉は、イーリカの耳には届かなかった。
そのとき、
「イーリカさん、いるかい?」
勢いよく扉を開けて入ってきたのは、時折イーリカの薬草茶を買ってくれる近所の宿屋の女将だった。
女将は店内にいる男の姿に目を留めると、
「あら、やだ、また邪魔しちまったかい? って、何だい、バーンズ商会とこの次男坊かい。私はまたてっきり、あの見目のいい男かと──」
と、いささか期待はずれのように肩を落とす。
ハンスはむっとして、イーリカに向き直る。
「おい! 何だ、それは!」
女将はふくよかなお尻でハンスを押し退けるようにして、カウンターの中にいるイーリカに声をかける。
「そうそう、イーリカさん、またちょっと相談があるんだけどね」
イーリカは女将のいつもの様子を目にして胸を撫で下ろす。
あの誘拐事件のとき、イーリカはこの女将の名前を語って空き家に呼び出された。しかし女将はまったく関係なかったと、あとでわかった。
(本当によかった。女将さんに、もしものことがなくて……)
「おい! イーリカ! 明後日の夜、また来るから、空けておけよ! 絶対だからな!」
急にのけ者にされたハンスは苛立たしげに、何かの捨てぜりふのように言い放ち、扉を開けて出ていこうとする。
「え、何のこと? あ、ちょっと!」
イーリカはわけがわからず引き止めようとしたが、ハンスの姿はすでになかった。
イーリカと同じく、扉の向こうに目を向けている女将は、何か察したように、
「あー、明後日の祭りのことだね。イーリカさんのこと誘いた……、っと私が代弁しちゃ野暮だね」
と言いかけ、何やら口をつぐむ。
祭り以外が聞き取れなかったイーリカは、女将に尋ねる。
「やっぱり何かお祭りがあるんですか? 最近、街の人が浮き足立ってたのは、そのためでしょうか?」
すると女将は途端に破顔する。待ちきれないといった様子で口を開く。
「ああ、なんでもタウフェンベルク伯爵家からの直々のお達しでね。そのお達しがあったのも一か月前で、ずいぶん急さ。その祭りがいよいよ明後日の夜に開かれるらしいんだよ」
女将のわくわくした顔を見ると、イーリカの沈んでいる心もわずかに動く。
「何のお祭りなんですか?」
イーリカは訊ねるも、女将はなぜか首を大きく傾げる。
「それが不思議なんだけど、私達には知らされてないんだよ。ただ祭りが開催されるから、その準備を、としか言われてないのさ。何の祭りかは、祭りの当日……、明後日の夜だね、わかるらしいよ。しかも今後は毎年、この時期に開催されるらしいんだ。本当にいったい何の祭りなんだろうね?」
イーリカもわからず、首を捻る。
女将が知らないことを、世間に疎いイーリカが知っているはずもなかった。
「ま、楽しい祭りが増えるのはいいこった」
ことさら楽しそうに女将が笑ったので、イーリカもつられて久しぶりに無理のない笑みをみせた。
そのあと、相談事を済ませた女将は、慌ただしく店を出ていった。
少しばかり遅くなったが、イーリカは店を開店させると、カウンターの中で薬草茶が入った缶をひとつひとつ手に取り、布で磨き始める。
在庫が少なくなった種類を書き留め、薬草が入った木箱の引き出しを開けて、材料があることを確認する。
ふとイーリカの手が止まる。
後ろを振り返り、無意識に視線が向かうのは、カウンターに近い壁際の席。
(もうあの席に、彼が座ることはないのね……)
自分でそれを選んだくせに、たまらなく胸が締め付けられた。
ぎゅっと拳を握り締め、
「いっそ模様替えでもしようかしら、お祭りもあることだし、いい機会よね」
あえて口に出して、自分の気分を無理やり変えようとする。
それはここ数週間のイーリカのくせになりつつある。
しかし、意識はすぐに引き戻される。
「そういえば……、そろそろハナハッカが咲く時期ね」
幼い頃、黒い森の中にあるハナハッカが咲く場所で、少年のノアが花冠を作ってくれたことを思い出す。
ふっとイーリカの口元がゆるむ。
できあがったのは不恰好な花冠で、幼いノアはすねたような顔を見せたけど、イーリカはただただうれしかった。
ふいに涙が頬を伝う。
はっとして、すぐに手でぬぐう。
「だめね……。でもいつかはいい思い出になるわ、きっと……」
そう言い聞かせるようにつぶやくと、わざと慌ただしく手元の作業を再開させた。
* * *
そんなイーリカの様子を店の奥に続く廊下の影からじっと見つめる、虹彩を帯びた四つの瞳があった。
これもここ数週間続いている光景だったが、イーリカは気づいていない。
深いため息が漏れる。
「俺、もう一生分のため息を漏らした気がする」
ライトがそっとつぶやき、頭を掻きむしる。
「そうね……」
ラブラも重苦しいため息を漏らし、目を伏せた。
残り2話で完結です……!
次話の50話、イーリカを想うノアはある決意を……!
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毎日投稿も残り2日となりました。残り2話は、それぞれの日の夜に投稿させていただければと思います!
完結まで、どうぞよろしくお願いいたします^^*






