46_かつての約束(5)
扉を背に、イーリカはずるずると床に身を落とし、膝を抱えた。
「あいつ! なんてことするんだ!」
ライトは怒りをあらわにして、地団駄を踏んでいる。
ラブラはそっとイーリカの膝の上に前足を置き、じっと見上げる。
「ねえ、イーリカ、もしかしてあなた……」
イーリカは涙を堪えきれない瞳でラブラを見下ろす。
「昔、会ったあの男の子……、ヘンリーは……、ノアさまだったのね──」
イーリカは必死に笑おうとする。
「イーリカ……」
ラブラはたまらず、イーリカの名前を呼ぶ。
「嘘だろ、まさか記憶が……」
察したライトが愕然と目を見開く。
イーリカは二匹を抱き寄せ、そのビロードのような黒い毛並みに頬を埋める。
秘薬の使用がなぜ二度までと言われていたのか、イーリカは身をもって理解した。
三度目の使用は効果がないだけでなく、その効果が反動で返ってきてしまうのだ。
忘却の薬なら、これまで秘薬によって忘れていた記憶、そのすべてを思い出してしまうということだった──。
そして三度目の忘却の薬を飲んだ直後、イーリカの頭の中で過去に失ったはずの記憶が次から次へと嵐のように駆け巡った。
その刹那──。
『この国では、爵位を持つ者の結婚に際しては王家の許可が必要よ』
聞こえたのはあの日、イーリカにそう教えてくれた、アマンダの声だった。
隣領ヴィルリート伯爵家の令嬢ベルーナから、ノアの婚約者だと宣言されたあと、イーリカがアマンダに両家の婚姻について尋ねた日のことだ。
イーリカのか細い肩が小刻みに震える。
「でもいいの、だって彼はあのときの約束を果たしてくれたんだもの……。これ以上、望んではいけないわ」
イーリカはライトとラブラを抱きしめる指先にぎゅっと力を込める。
「この国ではね……、ノアさまみたいな人の結婚には王家の許可が必要なの……」
イーリカは自らに言い聞かせるように言葉を吐き出す。
「淡い希望で……、一時の恋人になら、なれるかもしれない……。でもいずれ、ノアさまは……、王家に許可をいただけるような、彼にふさわしい令嬢と一緒になるわ。でもきっとわたしは祝福なんかできない……。彼の幸せを願いたいのに、それすらもできない……」
ほろほろとこぼれ落ちるイーリカの涙が、ライトとラブラの毛をしっとりと濡らす。
二匹はじっとイーリカの言葉に耳を傾ける。
「それに……、わたしは『悪しき魔女』と言われているから……」
『こんなお店をしていらっしゃるなんて、まるで魔女のようね。悪しきものを扱っていなければいいけど』
イーリカの耳に、ベルーナが初対面のときにあざけりの笑みを浮かべて放った言葉がよみがえる。
忘れたわけではない記憶まで引っ張り出される。
それは、いつもは無意識に心の奥底へ追いやっている、悪しき魔女に対する人々の嫌悪の感情──。
『悪しき魔女は、若い娘をさらって悪魔の生贄にしている』
『恐ろしい魔女は、人間の生き血を混ぜた秘薬を作っている』
『黒い森の魔女は、意のままに操る呪いをかけて、挙句の果てに命を奪う』
噂が噂を呼び、いつしか魔女は『黒い森の悪しき魔女』と忌避され、恐れ、厭われる存在になっていた。
だから、幼い頃からイーリカをことあるごとにいじめてくる、あの商いを営む家の青年三人組も、
『薬草茶なんて怪しげなもん、誰が買うのかね!』
『バーンズ商会が取り扱っても、俺の家の商船では取り扱いたくないね。父上も気味悪がってたぜ』
『薬草なんて、まるで魔女みたいだな! これで黒髪だったら本当に魔女だって疑われたかもな! ハハハ!』
などと、イーリカが魔女だと知らないにもかかわらず、平然といやがらせの言葉を吐いてくるのだ。
それがどんなにイーリカを傷つけているかも知らずに──。
負の感情に流されないよう、何も感じないようにしているとも知らずに──。
「自分がこんなにいやな人間だったなんて、わたし知らなかった……。恋がこんなにつらいものだなんて、知らなかった……」
元々、泣き言をあまり言う性格ではないイーリカだが、それでも母カミラが亡くなってからはぐんと弱音を吐くことが少なくなった。
もっと自分たちを頼ってほしいと、ライトとラブラは思っていたが、人間ではない彼らにできることは限られている。
そしてライトとラブラは、イーリカこそもっとも幸せになってもらいたいと、心の底から願っている。
「でも……、恋を知らなければよかったなんて、もう思わないわ……」
イーリカは、はっきりとつぶやいた。
忘れても忘れても、彼と出会ってしまえば、また恋をしてしまう自分がいた──。
イーリカの胸には、ノアへの恋心がとめどなくあふれる。
それはまるで、三度目の恋に落ちたよう──。
これまでとは比べものにならないほど、愛しい想いがあふれ出るのだった──。
恋心の記憶が戻ったイーリカ……。
次話47話は、ノア視点で、事件解決に向かいます……!
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