45_かつての約束(4)
──ゴトッ。
鈍い音を立てて、黒い小瓶が床に落ちる。
「イーリカ!」
大きく傾いたイーリカの体を受け止めるように、ノアがとっさに両腕を広げる。
彼女の体を支えながら、そのまま床に横たえる。
まぶたはかろうじて開いているが、焦点が合っていない。
「大丈夫なのか──!」
険しい表情で、ノアはかたわらのライトとラブラを見下ろす。
ライトとラブラはイーリカの周りを落ち着きなく、ぐるぐると動き回っている。
「俺たちだって、こんなこと初めてだ!」
「まさか、イーリカがこんなことするなんて!」
ライトとラブラが、悲鳴にも似た声をあげる。
すると、ぴくりとイーリカの肩が動いた。
「イーリカ!」
ノアはイーリカの顔を覗き込む。
まだぼんやりとした瞳で、イーリカは宙を見つめている。
ややあってから、イーリカの唇がかすかに動く。耳を近づけると、何かをつぶやいた。
「──ヘ、ン……」
「イーリカ‼︎」
ノアは必死でイーリカに呼びかける。
イーリカは瞳をさまよわせたあと、徐々に意識を取り戻すように、ゆっくりと焦点が合った瞳でノアの顔を見返す。
「大丈夫か⁉︎」
ノアの言葉に、イーリカは小さく頷いた。
支えてもらいながら、ゆるゆると上半身を起こし、イーリカは独りごちる。
「……だから、なのね」
「ああ、イーリカ!」
ライトがイーリカの体に鼻先を寄せる。
「何て無茶をするの!」
ラブラが珍しく怒ったように足を踏み鳴らす。
「……ごめんなさい」
イーリカは謝った。自分でも無茶なことをしたと、今さらながら思った。
ノアに向き直ると、真っ直ぐにそのアイスブルーの瞳を見つめる。
「ノアさまは、秘密にしてくれるでしょう?」
問われた意味をノアはすぐに理解できなかった。
やがてそれが魔女の秘密のことを言っているのだとわかると、ぐっと表情を引き締める。
「……もちろん、決して他言はしない」
その言葉を聞いたイーリカは微笑む。
久しぶりに見る彼女の笑みに、ノアはどきりと胸を鳴らした。
イーリカはライトとラブラにそっと手を伸ばし、それぞれの前足を握ると、二匹の虹彩が宿る瞳をじっと覗き込む。
「お願い」
ライトは、ぷいっと目をそらした。
ラブラは、「……わかったわ」と小さく頷いた。
「ありがとう」
イーリカはライトとラブラの前足を握る手にぎゅっと力を込めたあとで、そっと放した。
そしてノアから体を離すと、ゆっくりと起き上がった。
ノアもあわせて立ち上がる。
イーリカはにっこりと微笑むと、きっぱりと言った。
「眠りに作用する薬草茶が不要ということなら、もう街の薬草茶店にはいらっしゃらないほうがいいでしょう」
突然かしこまった口調で、店への訪問を拒否するイーリカにノアは目を見開く。
「どういう──」
意図を問いただそうとするが、その前にイーリカが続ける。
「街には噂話が好きな人もいます。伯爵家のご嫡男であるあなたが薬草茶店に直接来られるなど、何を言われるかわかりません。眠れるようになったのでしたら、なおさらこれ以上は……」
「イーリカ、何を言って──」
「お帰りください、ここは長居していい場所ではございません」
イーリカは矢継ぎ早にリリンッと壁にかかっているベルを鳴らした。
ノアの体の向きを無理やり変えさせると、扉のほうへとノアの背中を力いっぱい押す。
「待ってくれ! 僕は──!」
ノアは体をよじると、強引にイーリカの細い手首を両手で握り締める。
正面からかぶさるように、イーリカの瞳を覗き込む。
「やめてください」
イーリカはたまらず目をそらす。
「おい! 何やってるんだ! イーリカを放せ!」
ライトが前足で、むぎゅっとノアの靴を踏みつける。
ノアは足元のライトには目もくれず、声を張り上げる。
「イーリカ!」
「やめて」
イーリカは大きく顔をそむけ、強い口調で言った。
その瞬間、イーリカの唇に噛みつくように、ノアの薄い唇が覆いかぶさった。
「──ッ」
イーリカはぎゅっと唇を噛み締め、渾身の力を込めてノアを突き放す。
「やめて!」
ノアは苦しげに顔を歪める。瞳にはぶつけようのない思いが色濃く滲む。
「僕はきみが好きだ。初めて会ったあの幼いときからずっと。きみは? 本当に僕のこと少しでも覚えていないのか?」
「覚えていないわ……」
イーリカはきつく手のひらを握り締め、吐き出すように言う。
扉を開け、力の限りノアの背中を押す。
ノアはなおもイーリカに言葉を投げる。
「イーリカ! 再会してから、またきみに近づけたと感じていたのは僕だけだったのか?」
イーリカはノアの顔を見ずに、突き放すように勢いよくノアの体を押す。
「……秘密は守ってくれると信じてる、さようなら」
そう言って、扉を閉めた。
このあと続きの46話も、あとで投稿します!






