44_かつての約束(3)
イーリカは思わず言葉を呑み込んで、ラブラを凝視する。
はっと我に返ると、
「ど、どうして──」
とうろたえる声をあげ、ノアに目を向ける。
先ほどから事態がまったく呑み込めない。
それでも苦しげに立ち尽くすノアの姿に、先ほどからイーリカの胸はずきりと痛んでいた。
自分が彼を傷つけていると感じるのに、なんと言っていいのかわからず、震える指先で着ているローブをぎゅっと握り締める。
(それに──)
もしノアが自分のことを魔女だと知っていたなら、代々守ってきた秘密を自分が漏らしてしまったことになる。
イーリカの心臓が氷のように冷たくなる。
(もし魔女だと知られているなら、『悪しき魔女』と言われ、忌み嫌われている存在がわたしだっていうのも知られているということ──)
途端に怖くなった。もしノアの瞳に蔑みの色が浮かんでいたらと思うと、顔が自然と下を向く。
「落ち着いて、イーリカ」
そんなイーリカの心情を理解するように、ラブラがそっと声をかける。
「イーリカ」ノアの声がした。「魔女のことが秘密なら、僕は決して誰にも漏らしたりしない、誓うよ」
その言葉にイーリカは思わず顔を上げる。
かわされた視線の先、ノアの瞳には悪しき魔女と言われる存在への蔑みも嫌悪の色もなかった。それよりも不安で大きく揺れているようにイーリカには見えた。
すると、ライトがおもむろに動く。
壁を覆う棚の一角まで椅子を体で押して持ってくると、その上にシュタッと乗る。しっぽを揺らしながら棚に並ぶ小瓶を漁り始める。
その中からひとつの小瓶をぱくりと咥えると、椅子から下りてイーリカの前に進み出る。
咥えたものを床にコツンと置く。
「イーリカ」
彼女の名前を呼んでライトが差し出したものは、黒い小瓶だった。
イーリカは息を呑んで、声をあげる。
「──ラ、ライト!」
それは秘薬である『忘却の薬』が入った黒い小瓶だった。
「魔女の秘密は守らなきゃならない、そうだろ?」
「で、でも……」
ライトはイーリカを仰ぎ見て言う。イーリカは言葉に詰まる。
『忘却の薬』は魔女の秘密が漏れる危険が迫ったときにのみ、使うことが許されている秘薬だ。
いつでも使用できるよう作り置きしておくことが、代々の魔女の約束事でもある。
しかしそれをまさか自分が誰かに使うことになるとは思ってもいなかったイーリカは、ただただ戸惑うばかりだった。それに──。
「イーリカ、何もすべての記憶を奪うわけじゃないわ。魔女に関することを忘れてもらうだけ。あなたが彼と過ごした時間は残るわ」
ラブラがイーリカの不安を代弁するかのように言う。
イーリカは痛いくらいにローブを握り締めていた。
(忘れてもらうしかない……。でも、本当に? いいの?)
イーリカはノアに目を向ける。
ノアは苦しみと悲しみを抑え込んだ表情でしばらく考え込んだあと、何かを決意したように、されど傷ついたように微笑む。
「……きみがそれを望むなら、僕は拒否できない」
ノアはラブラに向かって確認するように問う。
「魔女に関する記憶だけ、本当にそれだけだろうな? ついでにすべてを消してしまおうと思っているなら──」
「ええ、魔女にかんすることだけ、約束するわ」
「おい!」
ラブラの返答に異を唱えるように、ライトが声をあげる。
「どうせなら──」
ライトはこの機会にノアの中から、イーリカに関する記憶をすべてなくしてしまったほうがいいのではと思ったのだ。そうすれば、ノアがイーリカに会いにくることもなくなる。会わなければ、いつかはイーリカもノアのことをまた忘れてもう悲しむこともなくなるかもしれない。
対するラブラは首を横に振る。
「眠りに作用する薬草茶、あれがある限り、彼はイーリカを必要とするわ」
「くそっ!」
そうだった、とライトは歯噛みする。
すると、おもむろにノアが一歩踏み出す。
ライトとラブラが体を盾にさっとイーリカの前に立ちふさがる。
「イーリカと話しがしたい」
ノアは二匹の瞳を見つめて言った。
ライトとラブラはお互い顔を見合わせたあと、イーリカを見上げる。
「わたしも……、ノアさまと話しがしたい」
そう言うイーリカの気持ちを汲みとると、二匹はゆっくりと体を動かす。イーリカの背後、少し離れた位置に腰を下ろす。
ノアは慎重に数歩進んで、イーリカの前に立つ。そっと手を伸ばすと、
「……あまり強く握ると、痛めるよ」
そう言って、指先が白くなるほど強くローブを握りしめていたイーリカの手を優しく解く。
そして労わるように、彼女の両手を握った。
「眠りの薬草茶だけど、僕にはもう必要なさそうだ」
唐突の告白にイーリカは目を見開く。
イーリカの背後で、ライトとラブラも首を持ち上げて反応を示す。
ノアは心底苦しげな顔を見せて言う。
「過去を思い出したことで心の傷を自覚したせいかな、倒れた次の日から薬草茶を飲まなくても眠れるようになったんだ」
イーリカの指先が震える。
それはもう自分がノアにとって必要ではなくなることを意味していた。
しかし表に出さないよう精一杯堪えながら唇を開く。
「そうなの、よかった、本当に……」
うれしいはずなのに素直に喜べない。
そんな自分がひどくあさましい存在になったように感じて、ずきりと胸が痛む。
「イーリカ、もしきみが本当に望むのなら、僕の中から魔女の記憶を消してもいい──。そしてもし、それ以上も望むのなら──」
イーリカは息が詰まるほど驚きをあらわにした。
ノアは苦しげにしながらも微笑むと、
「記憶が戻ったとき、僕は、きみが昔のことを覚えていると思ったんだ。だからここまで来た」
そう言うと、ふっきるようにイーリカの手をそっと離す。
ノアがしゃがんで手を伸ばし、床に置かれている黒い小瓶を手に取る。
まるで別れを惜しむように、イーリカに向かって微笑む。
「イーリカ、きみは覚えておいてくれないか。すごく遅くなってしまったけど、僕はあのときの約束を叶えるために、きみに会いに来たってことを──」
そう言うとノアは小瓶の蓋を開け、迷いなく口元へあてがった。
「だ、だめ──!」
イーリカは考えるよりも前に、弾かれるようにノアに手を伸ばしていた。
間一髪のところで、ノアから小瓶を奪い取る。
小瓶を握りしめながら、イーリカは首を横に振る。
ノアは一瞬呆気にとられたものの、すぐに畳み掛けるように言い、
「魔女の秘密を知った者の記憶は消さなければいけない、それをきみも望んでいるんだろ?」
手を伸ばして、決心が鈍らないうちに小瓶を取り戻そうとする。
「それは──」
イーリカは口ごもる。
(そのとおりだわ、魔女の秘密は守らなければいけない。幼い頃から母さまにもそう言われてきた)
なぜ止めてしまったのか、自分でもわからない。
(でも──)
なぜか必死に言葉を探す自分がいた。
その間にも、小瓶を握るイーリカの手に、ノアの手が伸びる。
(ノアさまの記憶を消すくらいなら──)
避けられないと思ったイーリカは、気づけば自ら小瓶に口につけ、一気にあおっていた。
「イーリカ!」
「おい!」
「だめよ!」
ノアが叫び、ライトとラブラが声をあげて駆け寄る。
秘薬は本来匙でひとすくいか、ふたすくいほどの分量しか使わない。
しかしすでにイーリカは喉元を震わせ、小瓶の中身をすべて飲み下していた。
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